前回のお話
近世/近代哲学における、古代懐疑主義からの影響による認識論の基礎づけ ~セクストス・エンペイリコスからデカルトへ - 日々是〆〆吟味
近世/近代に現れた懐疑主義の影響とデカルトの懐疑
懐疑主義が古代に起こってセクストス・エンペイリコスという人がまとめて本を書きました。その本がず〜っと後になって、千年ぐらいたってからまた出版されるようなことがありました。その結果この本をめぐって色々な関心が呼び起こされ、懐疑主義は近世/近代になってまた現れることにもなりました。
【セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義の概要』】
デカルトの懐疑
こうした懐疑主義のうち近世/近代哲学の代表的な懐疑というものがデカルトによって行われました。自分は本当になにかを知っているのだろうか、という問いを徹底しておこなって、とうとう疑っている自分だけは疑うことが出来ない、というものです。そう、かの有名な、我思うゆえに我あり、というやつですね。
【デカルト『方法序説』】
デカルトがなんでこんなに疑ったのかといえば、当時の学問すべてを学んでも確実な知識や根拠と思われるものがないからと感じたからであり、また学問だけでなく方々を旅して色々なものを見聞きしたうえで、どこでも正しいような風習もない、と判断したからでもあります。
そしてこうした認識の根拠というものを探ろうとして長年の思索の結果、物事を捉えているのはこの私以外にいない、という形でひとつの決着をつけることになるわけですね。
デカルトの懐疑とセクストス・エンペイリコスの懐疑主義
しかしこうしたデカルトの懐疑もセクストス・エンペイリコスが残した古代懐疑主義の残響の果てに生み出されたのだと考えると、その歴史的な幅は相当に厚いものに感じられてきます。
けれども逆に述べればデカルトからセクストス・エンペイリコスまで一気に遡ってしまうのであって、その間にある中世哲学がすべてなかったことのようにされてしまうのはそれ相応の問題があるのかもしれません。
中抜きされてしまった中世哲学
その影響がどのようにおるのかは私には判断することなど出来ませんが、少なくとも翻訳の量でいえば近代哲学以降のものと比べると中世哲学のものは大変少ないような気がします。色々検索してみるといまだに完成してないキリスト教思想の著作集なんてのもあります。それに比べるとカントやアリストテレスの全集なんて2回も刊行されていますし、やっぱり差があることは確かな気もしてきますね。
【キリスト教教父著作集,キリスト教神秘主義著作集】
(このあたりがまだ未完らしい)
かといってじゃあ本当に中世哲学に近代哲学と同じだけの価値があるのかは私にはわかりません。もしかしたら近代哲学自体がもう用済みなのかもしれず、哲学すらいらないのかもしれません。中世において神学が1番の学問であったのが哲学へと変わり、科学へと移り変わって最早どこにも必要とされていないのかもしれませんね。
なんだか諸行無常といった感じです。
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懐疑主義のエポケー/思考停止を用いる現代的な哲学である現象学とは - 日々是〆〆吟味
お話その274(No.0274)