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社会と私の格闘としての〝私〟表現 ~苦しいのをわかるためにも向き合わなくちゃだめ?
社会と〝この私〟
社会というものがよくわからなくても、私たちはみな社会に絡めとられています。アリストテレスは人間は社会的な動物である、と言ったそうですが(正確には古代ギリシアにはまだ社会という概念は明確でなくて、アリストテレスが生きていたポリスという都市国家の在り方に従ったポリス的とのことですが)、それは今日の私たちでも大きく違いはないように思われます。たとえ社会から外れていようとも、家族や友人といった人間関係/集団と完全に断ち切られることは困難でしょうし、またそうした関係性の中で権力や経済といった関係性から逃れることも難しいと思います(やろうと思ったら古代の隠者みたいに砂漠や森に隠れなくちゃいけないかもしれないけど、今日ではそんな場所すらがなくなってしまった)。
【アリストテレス『政治学』】
(人間が社会的動物、というのはこの本に書いてあったかと思います。ただアリストテレスは万学の祖と言われ古代にも関わらず経験主義的な考えも強かったのですが、政治的にはかなり保守的で自分の生きていたギリシア的ポリスの在り方を最高のものとみなしていたそうです。それに比べてお弟子さんでもあったアレクサンダー大王は東征において異文化との融和を求めたそうで、征服者である王さまの方が進歩的な考えだったというちょっと不思議な関係にある師弟でもありました。新しく西洋古典叢書から出てるの載せておきます。私はこのシリーズでは読んでませんが、大体このシリーズは注が豊富なのが特徴です)
そしてそんな社会に絡めとられた存在として個々の〝この私〟があるわけで、それを軸にすれば私小説のような〝私〟表現を描くことはさほど難しいことではないかもしれません。そのため誰でも一作だけは小説を書くことができる、それは自分のことを書いた作品だ、なんて言い回しも現れてくるわけですね。
〝私〟を描けば表現か?
しかし、では〝この私〟について書かれた小説(もしくは作品)が無条件で優れたものになるのでしょうか。社会を描くことはどの分野でも難しいことかと思いますが、ならその社会に絡めとられた〝この私〟を描いた作品は、そのまま社会や社会の持つ矛盾や問題を描いたものになりえるのでしょうか。
それがどうやらそうでもないらしいのでした。
というのも、社会の中の矛盾や問題は確かに〝この私〟に集約して現れてくるのですが、それがなぜどのように問題として〝この私〟に現れてくるのか、その理路や関係性を作品の主体=主観である〝この私〟が把握しようと努めていなければ、ただ〝この私〟が社会によって雁字搦めにされている苦悩を表すだけで終わってしまうからです。
苦悩の吐露とその源泉への格闘
たしかにどのような苦悩があろうともその苦悩を声高に叫ぶだけでは社会は表現されません。たとえその人が間違いなく社会による関係性の中で苦しんでいたとしても、その苦しみは表現の上では存在しないのと変わらなくなってしまいます。そのためただつらい、つらい、苦しい苦しいというだけの吐露や嘆きをつらつらと書くだけでは〝私〟表現としては不十分なのかもしれません。そうではなく、その苦しみの源泉や現れ方と向き合うような、その在り方自体が〝この私〟に集約されることによって苦悩が現れてしまうよう、そうした格闘が描かれていることが必要なのかもしれません。そうすることによって〝私〟表現は〝私〟を中心としながら〝この私〟を社会の中の〝私〟として描くことになるのかもしれませんね。
【中村光夫『風俗小説論』】
(有名な私小説批判の評論。でも内容わすれちゃったなぁ)
苦悩との格闘の消去 〜ブラックボックス化する問題の原因
ただそんなことは大変なので、その苦しみの源泉をつかみとるようなことは放棄して説明したり表現したりせず、作り手と受け手の間でその理由をわかりあってしまって結局その理由がブラックボックス化してしまって、現実の問題を解決させずにすませているようにも思えないこともないのでした。なかなか難しい問題ですね。
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お話その217(No.0217)