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まとめ51 フィクション(表現、創作)におけるからっぽなものと具体的なもの
このまとめの要旨
自我の投影先としてのからっぽなものと、逆に具体的なものとしての作品の在り方について書いてみたもののまとめ。なんだか自我と作品との話がごちゃごちゃしてるかも?
書いたものの一覧
からっぽなものが具体性を欠いた存在であるがゆえに、自我の投影先としては喜ばれる、ーというようなお話。
からっぽな存在は記号論でいうゼロ記号っていうものと似ているのかもしれないね、ーというようなお話。
幼児が常に抱いているようなぬいぐるみのようなものを移行対象と呼び、成長に必要なある段階だ、と考えたそうだけど、からっぽなものの役に立つ様子はそれと似たようなものかな、ーというようなお話。
でもそもそもからっぽなものって日本の文化の在り方と似ているのかもしれないね、ーというようなお話。
そして日本の文化として世界に届くのもは、案外こうしたからっぽなものを日本的と思われて喜ばれているのかもしれないね、ーというようなお話。
からっぽなものばかりが作品じゃないけど、じゃあ新しく書くものが残されているのかといえば残されてないのだから、すでにあるものを組み合わせて新しくしちゃおう、という考え方もあるみたい、ーというようなお話。
からっぽなものと反対の具体的なものって、この私が感じて逃れられないようなものかもしれなくって、それって構造的でも類型的でもないよね、ーというようなお話。
でもそんな私ってどこにいるの、と思いつつ、でもそんな私はまず社会に絡めとられて存在してるはず、ーというようなお話。
じゃあ社会そのものを描こうとするととても難しくなって大変で、なかなか成功しないようですね、ーというようなお話。
そもそも社会ってよくわからないかもしれないのにどうやって捉えたらいいんだろう、と思い返してみれば、この私はそんな社会に絡めとられているんだから、自分を題材にしてみればいいのかもね、ーというようなお話。
かといってただ私が苦しいんだよぉ、と叫んなからって表現になるわけではなく、自分の中の社会との関係と格闘する様子こそ表現になるのかもしれないね、ーというようなお話。