日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

人間の認識能力の限界としての苦しみから解放されることと理解 ~社会の諸関係の複雑さに対する自己の論理的思考から導き出せる答えの境界線

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.24

 

〝私〟の苦しみと人間の認識能力の限界 〜わからない、苦しい!そんな思いは人間の理解の限界を越えたところからやってくる?

日常の苦しみや愚痴

ではこうした〝私〟に対する苦しみの原因となる諸関係を注視しない表現はどうなってしまうのでしょうか。簡単に言えば単なる嘆きの書であり、酒場の愚痴のようなものになってしまうのではないかと思います。

 

たとえば会社で仕事がうまくいかなかったり、上司の理解が足りないといって仲間に文句を言うことはいくらでもあるかと思います。それは実社会に入らずとも学校の中でもありえ、生徒である自分のことを理解しない教師なんてごろごろいるでしょう。そうした権力関係の中に組み込まれていて、逃れることができない状態で無理解な態度を示され続けるということはそれだけでも苦痛なもののはずです。

 

ベイトソン『精神の生態学』】 

(この中に統合失調症になる原因のメカニズムが書かれていて古典的な地位を占めているらしいのですが、その要因のひとつは逃れることの出来ない密接な関係性の中でこそ起こる、というものでした。詳しく書いて誰か真似されたら嫌なのでこの程度の書き方にしておきます。ただ日常関係の中でいくらでも当たり前に起こってきそうな条件ではあります。そのため精神病は一般に異常と思われているかと思いますが、思いの他当たり前に起こりえる可能性があると思います。なんと岩波文庫からも出ました)

精神の生態学へ <a href=*1 (岩波文庫 青N 604-2)" title="精神の生態学*2 (岩波文庫 青N 604-2)" />

 

 

見えない組織の必然性

しかしそれは会社でも学校でも組織としての諸関係、言い方を変えれば拘束のようなものからくる必然としてのしわ寄せというものもあるかと思います。それはいくら〝この私〟が問題なくやりすごしていても生じてくる亀裂や葛藤であるかもしれず、そうした渦中に入れられてしまうこと自体が問題であることもないわけではありません(多分。あるよね、そういうこと)。

 

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しかし組織の末端である〝この私〟である私たちにはその諸関係の全貌など知りようもないこともあります。そうした場合、なぜそのような理不尽な要求が与えられるのか、個人の水準では理解できないままに行為を強いられてしまいます。そしてそのような状態でなぜだ、と叫べばひとつの不条理劇でも出来るかもしれません。

 

ウェーバー『官僚制』/カフカ『審判』/ベケットゴドーを待ちながら』】 

(ウェーバーは巨大化しすぎた組織のことを官僚制と考えているんだと思いますが、それはあまりに巨大化しすぎたことによって個人には誰一人全貌を捉えることが不可能になってしまうこと、そのことによって様々な問題が現れること、を述べていたかと思います。いわゆるお役人、官僚だけが官僚制というわけではなく、超巨大な組織はみんな官僚制なのですね。よく聞く大企業病というものも官僚制の病理の一種かもしれませんね。そしてなんでお役人こそが官僚制なのかといえば、国家というパッケージが超々巨大な組織の典型であり、近代国家はすべてこの官僚制によって動かされなければならない宿命をおっているからのようです。説明があってるか自信ないんで興味あればウェーバー先生読んでみてください)

  

(組織の中の不条理を文学化したといえばカフカをおいて他にないのではないでしょうか。カフカ自身も小役人で、その不毛さ不条理さを身をもって味わっていたようです。そんな体験が寓話のような形をとって私たちにまざまざと見せつけるかのように描かれたのがこの作品です) 

(一方不条理劇といえばベケットのこの作品でしょうか。二人組の男がゴドーという人を待ちぼうけてただただ待つだけの、そんな劇です。どうでもいいですが、新書版なんかで出てるんですね。私が読んだ頃は単行本しかなかったなぁ)

 

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しかしこうした背景があるかもしれない、もしくは個人には理解できない背景の存在がひしひしと感じられる、そうしたものは単なる嘆きではありません。まさに人間にとって理解の限界を超えたものとの対峙を描いているわけで、実に壮大な文学的目的ということになります。

 

人間の認識能力とその限界 〜論理は最終的な解答を与えない

そもそも人間の認識能力には限界があります。カントが明らかにしたように、論理的にだけ捉えても最終的な解答は与えられません。肯定的な論理と否定的な論理が並び立つだけで終わってしまい、そのどちらかが正しいかは論理的には確証をつけることが出来ず、また反論もどちらでも論理的に成し遂げられてしまいます。だからカントは理性=人間の思考能力は経験的に確かめられるものだけを対象にすべきだ、として科学を基礎づけたのですが、しかし私たちの日常世界においては経験的・実証的に知られる範囲などごく一部でしかないのです。近代社会のように知ることのできる範囲が膨大に広がってしまった世界では、直接知ることが出来る範囲など〝この私〟を中心としたほんの点でしかありません。それ以外の物事は基本的にメディアを通して情報として知られるのであって、直接的に知られるものではありません。

 

【カント『純粋理性批判』】 

(詳しい説明は私の能力を越えています。ただこの中に有名な4つのアンチノミーというものがあって、それぞれの命題に対し論理的に正しい、間違ってる、そして両方への論理的な反論などが並べられています。そしてそのどれもが論理的な水準では正しい、とされています。興味あったら読んでみてね。今回は平凡社ライブラリー版にしてみました)

 

【ルクール『科学哲学』】

(カントが科学を基礎づけた科学哲学としての側面はこの本に書いてあったかな。私は立ち読みしただけ。コントの理論とかもあって面白そうだった)

 

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そのため伝聞のようにして伝わってきた情報を使って論理的に考えて判断するしかなく、結局対立する観点の中で決着をつけるような立場などえようがないわけです。ネットのなかで左右に対立してもなんとも不寛容で生産的ではないように見えるのを思い返してみるとなんとなくイメージ出来るかもしれませんね。

 

ヘーゲル精神現象学』/竹田青嗣,西研『超読解! はじめてのヘーゲル精神現象学』』】 

(カントのアンチノミーを前にして、いやいや人間はどこまででも考えられる、と哲学したヘーゲルの本。くそ難しい。そんなわけでわかりやすい哲学の解説で定評ある竹田青嗣の本も載せておきます。こっちは未読。おもしろそー)

 

日常的に接する、理解できない領域という覆い

そしてこんな限界を持った人間の認識能力は科学とか哲学といった高度な営みだけではなく、私たちの日常にも覆われてあります。そして会社なり学校なりでも、知ることの出来ない領域から〝この私〟が苦しめられてしまうこともあるわけです。ですから〝この私〟に襲いかかる苦しみを理解しようと格闘することは、自分自身の持っている認識能力の限界に挑むような側面もありますので、中々難しいことでもあるのでした。

 

…なんかまた話がズレていったような気がする。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/0221/2020.07.31

 

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 お話その219(No.0219)

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