前回のお話
懐疑主義と新しい思想 ~価値観を疑うことによって崩し、生まれる新しいもの
デカルト哲学と分解と数学化
フッサールはヨーロッパ諸学における数学的世界に対抗するために体験を軸とした現象学を打ち立てましたが、振り返ってみますとそうした数学的世界のひとつのメルクマールはデカルトにあるようにも思えました。なにごとも分解して考えるデカルトの方法は人間の身体も分解して部分部分で捉えてしまいますし、精神と身体も分離されて心身二元論ともなり、本来統一的なものを分けて考えてしまう故に全体像が捉えられにくくなったようです。しかしそうした分解を可能としたことによって量的にはかることも可能となり、数字に置き換えて数学化することも可能でした。
【フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,デカルト『方法序説』】
(読み比べてみると面白いかも)
懐疑主義者デカルト
ところでデカルトは近世における懐疑主義のひとりでもありました。デカルトの方法というものは、とにかく自分で確かと思えぬものは何事も信じないところにあります。これはどんな真理も認めず相対化させていた古代の懐疑主義と通じる態度ですね。そしてそのデカルトは徹底的な懐疑を通して〝我〟というものを発見して〝神〟中心であった中世哲学から完全に離脱しました。
フッサールと懐疑主義
しかしフッサールもまた懐疑主義に連なるひとりであることはなんとなく想像されます。というのもフッサールの現象学の方法はエポケー=判断停止と呼ばれ、この言葉はまさに古代懐疑主義にそのまま求められることになります。ただその使われ方が違うのであって、古代懐疑主義はあらゆる真理を相対化することによって心の平静を得るために判断停止をしますが、フッサールは人間の持つ体験というものを純粋に取り出すために判断停止という手順を使います。
【フッサール『イデーン』,セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』】
(これも読み比べてみると面白いかも。どちらもエポケーって言葉が出てきますが、使われている意味が変わっています)
懐疑主義の批判
さてこうなってくると少し話はややこしくなります。というのもフッサールは懐疑主義の方法を取り入れながら、近世の懐疑主義者であるデカルトの立場を批判していることになるからです。世界が数学化してしまった理由はデカルトに求められる傾向がありますが、その数学化した世界を乗り越えるための現象学は、デカルトと共に懐疑主義から影響を受けていると捉えることも出来るわけです。
そうすると現代から見れば懐疑主義者が懐疑主義者を批判しているようにも見えますね。同じ流派(?)でありながらどういうことか、と思わないでもないのですが、これはちょっと考え方を変えてみると当たり前のこととも言えるかもしれません。
既存の価値観を疑う懐疑主義者により起こる思想的革命
それはデカルトもフッサールも、自分の存在している世界の中で問題としたものを批判するために懐疑主義の立場にたった、ともいえるからです。デカルトの時代においては未だスコラ哲学が主流であり、世界は数学化されていませんでした。むしろ論理的ではあっても実証的でなく、言い方を悪くすれば詭弁的に真理を証明出来てしまう可能性もある世界でした。
一方フッサールは既にデカルト的世界が勝利をおさめた時代ーつまり私たちの生きている世界と大差ない世界に生きていたわけです。デカルトの時代であれば革命的であった数学的世界も、徹底して行われた結果様々な問題や歪みを生み出してしまいました。それを乗り越えるためには別の方法が求められなければならず、フッサールはそれを体験に求めたわけです。
こうして考えてみますと、同じ懐疑主義でありながら相手を批判した立場には共通する懐疑主義の立場というものがあることもわかりますね。それは今生きている世界の中の問題を批判するために懐疑主義の立場にたつということです。
つまり現在主流(もしくは当たり前)と思われている考え方や態度を本当に正しいのか、と疑ってみること、そして主流や当たり前になっていることにそのままのってだけいること、そうしたことから距離を取るためにも懐疑主義という立場はとても有効なのかもしれませんね。
もしかしたらこれから先も折に触れて懐疑主義というものは復活していくのかもしれません。
次回のお話
お話その282(No.0282)