前回のお話
〝私〟の苦しみとその受け入れられ方 〜苦しい私の人生と、陳腐化されて理解されてしまう逆転。私の苦しみは理解されない!
社会に雁字搦めな〝この私〟
私たち個々人が社会に雁字搦めになっているのは、少々生き続けていると嫌でも感じ取られてくるかと思います。幼児期から小学生くらいはまだ大丈夫かもしれませんが、中学生にもなれば成績順評価ややいじめ、スクールカーストなど様々な関係性からくる問題に当たってしまいます。かといってそこから逃れることは難しく、たとえ不登校などになったとしても次に学校とは異なる社会関係の中に巻き込まれてしまいます(なんであの子は学校行かないの、と親戚から責められたりね)。
〝私〟を叫べば芸術か?
そんな私たち個々の〝私〟ですが、だからといってその苦しみを叫べばそれだけで芸術か、といえばそんなわけでもありませんね。なにかの小説の解説の中で、よく場末のホステスが私の人生を書けばベストセラーになるわよ、と言われて、馬鹿野郎、お前の人生なんてどこかで聞いたような苦しみだけをつなげただけだ、といった感じで怒っていた小説家の人もいました(忘れたけど、親との対立から家出、男のもとに身を寄せ破滅的な生活を送った後に水商売、そこそこいい生活をしていたが年齢とともに盛場の中心から離れ、そして今、といったような話で、小説のネタとしては今更誰も書かないありきたりだ、とのことでした)。
【岩野泡鳴『泡鳴五部作』】
(で、逆に〝この私〟の苦悩を撒き散らしながら文学を極めにかかった文豪の作品がこちら。…っていう紹介で正しいのかはちょっと不安ですが、よければ読んでみてご判断してみてください。苦しみながらもあちこち移動しては他人に迷惑かけまくっています。なんだか現代の迷惑YouTuberって言われる人と大差ないような気もしますけど、どうなんでしょうか)
人生の構造/類型的受け入れられ方
これは出来事や当の本人の苦労とは別に、一度描かれた物語としては陳腐化してしまうと言うことですね。たとえ当の本人にとって本当に苦労したのであっても(そして本当に苦労されたのだと思いますが)、しかしそれだけではこの〝私〟の人生はすでにあるよくあるお話の中に回収されてしまうわけです。そして表現は基本的に構造/類型的なものを描く(というか大衆的に求められ受け入れられるものとして)ので、本当の人生の出来事の方を構造/類型的に押し込めて理解してしまうわけです。事実と虚構が理解の水準で逆転してしまっているわけですね。
苦しみを叫ぶだけでは判明されぬ、苦しみの原因やメカニズム
そうした時表現者の方でもただ〝この私〟の苦しみを叫ぶだけでは、その苦しみを表現しきれるわけではありません。その苦しみの原因となったメカニズムそのものを描かなければ、その苦しみまで陳腐なもののように表現されてしまいます。そうなると苦しいのはお前だけじゃないんだよ、とこれまたどこかで聞いたようなお説教だけで終わってしまいかねません。しかし苦しいのは〝この私〟です。あなたではありません。そしてあなたが苦しかった時も、苦しいのはあなたであり私ではありません。それは個々の〝私〟によってしか知ることのない苦しみなのです。
【フローベール『紋切型辞典』】
(人の言う立派な言葉がいかに紋切型なものばかりなのかを収集したという、大作家の書いたちょっといじわるな小辞典)
〝この私〟の苦しみと、理解される時の苦しみの在り方
そのため〝この私〟にしか知ることのできない苦しみは、〝この私〟にしか表現することもできません。しかしそれはその苦しみの原因やメカニズムを踏まえたものでなければ、〝私〟以外の人たちには伝わりません。もし伝わるとしたら、それは表現者の〝私〟の苦しみに触れることによって受け手の〝私〟の苦しみを思い出すことによる共感によってであり、実は表現者の苦しみを知るのではなく受け手である〝私〟の苦しみを思い返しているだけで終わってしまうわけです。
しかし個々の〝私〟の苦しみとは多様なものです。〝この私〟が苦しみだと思っていることでもあなたはそうは思わないかもしれません。逆にどれほど苦しんでいる人を見ても〝この私〟には何事なのかすらわからないことだってあります。そうした時〝この私〟ではない他者の苦しみを知るためには、その苦しみの原因やメカニズムまで踏み込んで表現することによってようやく理解できるものとして表れてくるかと思います。
【柄谷行人『探究』】
(他者の問題といえばこの本。何回も挙げてしまって飽きられてるかも。他者とはこの場合自分とは異なる規則で生きている存在のことです。ですから上記の場合、苦しみも他者とは異なるわけですね)
【レヴィナス『全体性と無限』】
(で他者の問題の元祖といえばレヴィナス。レヴィナスはアウシュビッツを前にしたユダヤ人哲学者で、いかにしてアウシュビッツの悲劇を繰り返さないか、という難問のため他者という考え方を出しました。この場合他者とは、自分とは異なる存在であるが、その他者性というものがお互いに向き合った顔によって現れてくる、として、人間を物=焼却炉に放り込むユダヤ人などではなく、すべての人間が他者として顔を通して自分と同じ人間性を持ち得た存在である、とつきつけてくる、といったようなことを書いてあった気がします。難しすぎて私にはよく理解できていません。それにしても講談社学術文庫から出たんですねぇ。最近多いなぁ)
そうした原因やメカニズムを抉り出そうとすることなくブラックボックス化したまま苦しみを共感することによって終わってしまう作品は、結局自分(と最初から自分に理解できる、自分と似た誰か、つまるところ自分の似姿でしかない他人)だけしか存在しない小さな内面世界の作品になってしまうようにも思えてくるのでした。
次回のお話
お話その218(No.0218)