個人主義とは私とあなたは別の人という前提としての理解 ~当たり前とみなされる個人主義の輸入概念ゆえの未成熟と集団主義の残滓
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/0221/2020.07.31
個人主義としての私とあなた 〜集団主義から離れた個人主義という当たり前
私とあなたの感じることは同じとは限らない
さて、〝この私〟の苦しみが自分自身にしかわからないものだとして、それは原理的なものであって間違いないことなのでしょうか。事実としてはその通りだと思います。というのも自分自身で知るようにして他人のこと(特に心とか内面とか、周りの具体的な関係とか)を知ることは出来ません。一個のりんごを見ても私はただ美味しそうと思うだけかもしれませんが、画家はその赤を目に留めるかもしれません。それと同じように人と人とは同じものを前にしていても同じように感じるとは限りません。そのりんごを食べてみたとしても、相手が自分と同じように味わっているかも、実のところ確かめようがないわけです(もしかしたら虫歯で味なんてわかんないかもしれないし、満腹で食べたくもなくて美味しいとも感じないかもしれない)。同じものを食べた味覚でも共通して受け取ることが出来ないのならば、物事の価値に関わることなどほとんどなにもお互いに理解できていないのかもしれませんね。

【柄谷行人『探究』】
(この場合の他者は柄谷行人の言うような、異なる規則を持つ者、というのは少し違うでしょうか。それとも感覚というものもひとつの規則であり、それが異なる者として他者とみなせるものでしょうか。はたまた完全に断絶された者としての他者となるでしょうか)
私たちは個人であることが当たり前と思っている
しかしではなぜこのような考え方が成り立つかといえば、私たちが個人で成り立っていると考えているからです。言い方を変えると私たちは個人として存在していたり生きていることを当たり前のこととして疑いすらもっていない、というわけですね。そしてそれはある意味では当然なのですが、かといって当たり前というわけでもありません。

たとえば逆に自分という存在を集団や組織、もう少し大きく社会や国家に尽くすような考え方だって出来ます。しかしそれは今日の私たちには当たり前とは思われません。中にはネトウヨの人のように日本というものに尽くすのがいいと思われる方もいるかもしれませんが、それと同じようにして会社に尽くせという社長の言うことは聞かないでしょう。多分嫌がるでしょうし、ブラック企業であると捉えるような気がします。しかし日本という国家や国と企業というものは、個人を超えながら身を尽くす対象として、少なくとも個人の側から見れば同じような関係性を持っているようにも見えます。だから戦中は国に尽くして死ねと言えたのであり、戦後は同じ感性を企業に尽くすことへと転換させることが出来ていたのかもしれませんね(そしてかつては集団主義が当たり前と思われていたように、今は個人主義が当たり前のように思われるように変わっていったわけですね。これが社会の変化のひとつかもしれません)。
個人主義の未成熟と集団主義
しかしこれはよく言われるように日本の個人主義の確立が未成熟だからだ、というような捉え方も出来るわけです。いわば日本人は戦中の時点でこのような集団埋没的な在り方に慣れていたわけで、それを国家から企業へと向きを変えた、しかしそれでは結局本質的なことはなにも変わってないのでまた有事があった際には元の木阿弥になってしまう、というわけで個人主義の確立、もしくは近代的自我の確立が求められたのが戦後思想の出発だったのかもしれません(よく知らない)。
【丸山眞男『日本の思想』】
(こうした関係はなに読めばいいのかな? なんとなく丸山眞男のこの本がいいような気がしますけど、内容結構忘れちゃったので自信はありません。けど有名だし新書で比較的簡単に止めるため、読んでも損はないと思い載せておきます)
戦後思想の努力としての当たり前の個人主義と、輸入概念としてのなじみにくさ
そんなわけでこうした個人主義の確立を求めて戦後の思想家たちが頑張ってくれたおかげで、一応なんとか個人主義というものが当たり前に感じられるような気もしてきました(実際どうかはわからないけど)。ただ、じゃあ本当に個人主義なり近代的自我なりが確立されるほどに社会が成熟したのかといえば、なんかそんなわけでもないような気がします。その結果個人や近代的自我というものがわからないままに、ただ集団として持っていた紐帯だけが断ち切られたのかもしれません。そしてそこから個人や近代的自我の立ち現れてくる道筋が現れてこなければならないはずなのですが、困ったことにいつもの輸入概念でもある個人や自我といったものは、肌感覚ですぐわかるほどに日本人にはなじんでいないのかもしれません。
【作田啓一『個人主義の運命』】
(こういう本もあります。なにかのブックリストに載っていたのを思い出し、ぴったりなような気がしましたので載せてみました。私は未読ですが、読んでみたい本ですね)

そのため私たちは私たちとして感じられた共感が失われ、個人と個人として他者との間で遮断した関係性しか感じられなくなってしまったのかもしれませんね。
…う〜ん、また話がズレていった…
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/223/2020.08.06
お話その221(No.0221)
人間の認識能力の限界としての苦しみから解放されることと理解 ~社会の諸関係の複雑さに対する自己の論理的思考から導き出せる答えの境界線
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.24
〝私〟の苦しみと人間の認識能力の限界 〜わからない、苦しい!そんな思いは人間の理解の限界を越えたところからやってくる?
日常の苦しみや愚痴
ではこうした〝私〟に対する苦しみの原因となる諸関係を注視しない表現はどうなってしまうのでしょうか。簡単に言えば単なる嘆きの書であり、酒場の愚痴のようなものになってしまうのではないかと思います。
たとえば会社で仕事がうまくいかなかったり、上司の理解が足りないといって仲間に文句を言うことはいくらでもあるかと思います。それは実社会に入らずとも学校の中でもありえ、生徒である自分のことを理解しない教師なんてごろごろいるでしょう。そうした権力関係の中に組み込まれていて、逃れることができない状態で無理解な態度を示され続けるということはそれだけでも苦痛なもののはずです。
【ベイトソン『精神の生態学』】
(この中に統合失調症になる原因のメカニズムが書かれていて古典的な地位を占めているらしいのですが、その要因のひとつは逃れることの出来ない密接な関係性の中でこそ起こる、というものでした。詳しく書いて誰か真似されたら嫌なのでこの程度の書き方にしておきます。ただ日常関係の中でいくらでも当たり前に起こってきそうな条件ではあります。そのため精神病は一般に異常と思われているかと思いますが、思いの他当たり前に起こりえる可能性があると思います。なんと岩波文庫からも出ました)
見えない組織の必然性
しかしそれは会社でも学校でも組織としての諸関係、言い方を変えれば拘束のようなものからくる必然としてのしわ寄せというものもあるかと思います。それはいくら〝この私〟が問題なくやりすごしていても生じてくる亀裂や葛藤であるかもしれず、そうした渦中に入れられてしまうこと自体が問題であることもないわけではありません(多分。あるよね、そういうこと)。

しかし組織の末端である〝この私〟である私たちにはその諸関係の全貌など知りようもないこともあります。そうした場合、なぜそのような理不尽な要求が与えられるのか、個人の水準では理解できないままに行為を強いられてしまいます。そしてそのような状態でなぜだ、と叫べばひとつの不条理劇でも出来るかもしれません。
【ウェーバー『官僚制』/カフカ『審判』/ベケット『ゴドーを待ちながら』】
(ウェーバーは巨大化しすぎた組織のことを官僚制と考えているんだと思いますが、それはあまりに巨大化しすぎたことによって個人には誰一人全貌を捉えることが不可能になってしまうこと、そのことによって様々な問題が現れること、を述べていたかと思います。いわゆるお役人、官僚だけが官僚制というわけではなく、超巨大な組織はみんな官僚制なのですね。よく聞く大企業病というものも官僚制の病理の一種かもしれませんね。そしてなんでお役人こそが官僚制なのかといえば、国家というパッケージが超々巨大な組織の典型であり、近代国家はすべてこの官僚制によって動かされなければならない宿命をおっているからのようです。説明があってるか自信ないんで興味あればウェーバー先生読んでみてください)
(組織の中の不条理を文学化したといえばカフカをおいて他にないのではないでしょうか。カフカ自身も小役人で、その不毛さ不条理さを身をもって味わっていたようです。そんな体験が寓話のような形をとって私たちにまざまざと見せつけるかのように描かれたのがこの作品です)
(一方不条理劇といえばベケットのこの作品でしょうか。二人組の男がゴドーという人を待ちぼうけてただただ待つだけの、そんな劇です。どうでもいいですが、新書版なんかで出てるんですね。私が読んだ頃は単行本しかなかったなぁ)

しかしこうした背景があるかもしれない、もしくは個人には理解できない背景の存在がひしひしと感じられる、そうしたものは単なる嘆きではありません。まさに人間にとって理解の限界を超えたものとの対峙を描いているわけで、実に壮大な文学的目的ということになります。
人間の認識能力とその限界 〜論理は最終的な解答を与えない
そもそも人間の認識能力には限界があります。カントが明らかにしたように、論理的にだけ捉えても最終的な解答は与えられません。肯定的な論理と否定的な論理が並び立つだけで終わってしまい、そのどちらかが正しいかは論理的には確証をつけることが出来ず、また反論もどちらでも論理的に成し遂げられてしまいます。だからカントは理性=人間の思考能力は経験的に確かめられるものだけを対象にすべきだ、として科学を基礎づけたのですが、しかし私たちの日常世界においては経験的・実証的に知られる範囲などごく一部でしかないのです。近代社会のように知ることのできる範囲が膨大に広がってしまった世界では、直接知ることが出来る範囲など〝この私〟を中心としたほんの点でしかありません。それ以外の物事は基本的にメディアを通して情報として知られるのであって、直接的に知られるものではありません。
【カント『純粋理性批判』】
(詳しい説明は私の能力を越えています。ただこの中に有名な4つのアンチノミーというものがあって、それぞれの命題に対し論理的に正しい、間違ってる、そして両方への論理的な反論などが並べられています。そしてそのどれもが論理的な水準では正しい、とされています。興味あったら読んでみてね。今回は平凡社ライブラリー版にしてみました)
【ルクール『科学哲学』】
(カントが科学を基礎づけた科学哲学としての側面はこの本に書いてあったかな。私は立ち読みしただけ。コントの理論とかもあって面白そうだった)

そのため伝聞のようにして伝わってきた情報を使って論理的に考えて判断するしかなく、結局対立する観点の中で決着をつけるような立場などえようがないわけです。ネットのなかで左右に対立してもなんとも不寛容で生産的ではないように見えるのを思い返してみるとなんとなくイメージ出来るかもしれませんね。
【ヘーゲル『精神現象学』/竹田青嗣,西研『超読解! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』】
(カントのアンチノミーを前にして、いやいや人間はどこまででも考えられる、と哲学したヘーゲルの本。くそ難しい。そんなわけでわかりやすい哲学の解説で定評ある竹田青嗣の本も載せておきます。こっちは未読。おもしろそー)
日常的に接する、理解できない領域という覆い
そしてこんな限界を持った人間の認識能力は科学とか哲学といった高度な営みだけではなく、私たちの日常にも覆われてあります。そして会社なり学校なりでも、知ることの出来ない領域から〝この私〟が苦しめられてしまうこともあるわけです。ですから〝この私〟に襲いかかる苦しみを理解しようと格闘することは、自分自身の持っている認識能力の限界に挑むような側面もありますので、中々難しいことでもあるのでした。
…なんかまた話がズレていったような気がする。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/0221/2020.07.31
お話その219(No.0219)
私が苦しい理由の特別視により理解しなくなる人の苦しみという問題 ~人の心はわからないから自分の苦しみほど他人は苦しんでいないと隠されてしまう他者の苦しみ
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.29
〝この私〟の苦しみにより見えなくさせる他者の苦しみ ~私の苦しみを叫べば、あなたの苦しみは消える。私の苦しみの具体性と他者の苦しみの類型化
苦しみとその理由 〜しかし理由はわからないこともある
私たちが色々と苦しむにはそれ相応の理由、つまり因果関係があるのですが、しかしその理由となるものが〝この私〟に知ることが出来るのかといえばそうでもありません。苦しんでいる私自身からすれば相手は理不尽に嫌な目にあわされているように感じられますし、かといって相手となるその人ではありませんから〝この私〟に我ことのようにその理由や背景を理解することは事実上難しい問題です。
【ヒューム『人性論』『人間本性論』】
(イギリス経験論の完成者、哲学者ヒュームによれば、因果関係も単なる偶然の繰り返しであって、A→Bという関係が何度も起こるから関係あると思うんだ、という理解をしたそうです。この理解をひっくり返せば結果となった現象の原因となったものはわからない、ということになるかもしれませんね。この2冊は同じ本なのですが、何十年もたって新しく翻訳された際に題名の表現が少し変わってしまいました。ややこしいかもしれませんので、両方載せておくことにします)
たとえば嫌な上司がいたとして、実はその人が家庭内で問題を抱えていて心が荒れているのかもしれません。もしかしたら配偶者が浮気の最中かもしれません。いやそんなことなく単に嫌なやつなのかもしれませんが、しかし実はその上司は自分の育った環境が不倫まみれの家庭環境だったためにちょっとねじれた性格に育ったのかもしれません。
こうしたことはほとんどわからないことです。当人に聞いたところで答えることはないでしょうし、そんなプライベートなうえデリケートな問題、尋ねる方が失礼です。つまり人のことはわからないわけですね。
他者と身内と理解の程度
これはずっと一緒に過ごしている間柄ではなんでも知り尽くしている関係が理想ともされます。以心伝心というやつですが、これは家族や長年の友人関係のようなものだけでようやく成り立つものでしょう。すなわち共同体的に密接な間柄において可能な関係であり、見ず知らずの者同士が結びつく近代社会の関係性では困難なものです。

これに対する関係性が他者というものです。つまりお互いになにを思っているのかわからない、そうした相手で、共に共通した規則を持たない者同士の関係です。これは村から出ないことによって生まれてから死ぬまで一緒にいる共同体の成員とはまったく異なる関係性ですね。
他者の内面は知られない
そして他者もまた私ではないがゆえに相手の内面を知ることの出来ない存在です。つまり人間の認識能力を越えた存在として他者はいるわけです。しかし他者となる人はどこにでもいます。端的に、私自身と家族と仲間以外は全員他者です。しかし他者は敵ではありません。また利用すべき者でもありません。しかし放っておくとそのような捉え方になる可能性は高いかもしれません。アリストテレスはギリシア人以外は人間未満の野蛮人と捉えましたし、マルクスの資本家に対する非難も労働者を人間としてではなく利益を得るだけの労働力とみなした点にあったかと思います。
【アリストテレス『政治学』マルクス『資本論』】
(それぞれこれらの本に書いてあったかと思います。内容は聞かないでください。私には荷が重すぎます)
【山川偉也『哲学者ディオゲネス』/廣松渉『物象化論の構図』】
(アリストテレスの人間の野蛮人の説明は上の本で読んだのが私の今回の理解の基礎です。マルクスの考え方は物象化論と言われるのですが、日本を代表するマルクス主義哲学者の廣松渉の本があるのでこちらを載せておきます。こっちはまだ読んでません)
隠されてしまう他者の苦しみ
そしてもし〝この私〟の苦しみをただ叫ぶだけで終わってしまうとしたら、こうした他者の姿を自分を嫌な目に合わせる悪逆非道の徒としてだけ捉えることにもつながり、他者が囲まれている社会関係自体への視野を見失ってしまうかもしれません。そしてそれは他者を何某かのステレオタイプ(つまり構造や類型化)として捉えることにもなり、具体的なものとしてあるはずの〝この私〟の苦しみを描くはずが、他者の苦しみを切り捨てることになってしまいかねないことになります。そのため自分の苦しみをただ嘆く作品は、他者の苦しみを忘却することによって成り立っていることにもなり、それは同時に〝この私〟以外の人からすれば〝この私〟の苦しみなどどうでもよく具体的なものとして理解することのない態度とも重なり合っていきます。そしてそれは自分だけしか存在しない、ナルシスティックかつエゴイスティックな苦しみの表明ともなりかねず、結局他者を押し潰すこととあまり形がかわらなくなってしまいかねないことにもなります。
【岩野泡鳴『泡鳴五部作』】
(傍迷惑な自我の探求者、文豪岩野泡鳴ですが、妻と子供を捨て愛人と共に宿で暮らしながら、横暴な態度で愛人を狂わせ、放ったままに全国を旅して講演をして回り、途中再開した愛人からは、わたしを元に戻せ、わたしを元に戻せ、と叫んで責められる、という、小説)

つまり自分の苦しみを表すためには他者の苦しみも含めていなければ、その態度自体が成り立たなくなってしまうという困難な立場にもなるのでした。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/222/2020.08.04
お話その220(No.0220)
なぜ私だけが苦しむのかという問題と解明されない世界の謎としての苦しみの原因やメカニズム ~苦しい私の人生と、陳腐化されて理解されてしまう逆転
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.20
〝私〟の苦しみとその受け入れられ方 〜苦しい私の人生と、陳腐化されて理解されてしまう逆転。私の苦しみは理解されない!
社会に雁字搦めな〝この私〟
私たち個々人が社会に雁字搦めになっているのは、少々生き続けていると嫌でも感じ取られてくるかと思います。幼児期から小学生くらいはまだ大丈夫かもしれませんが、中学生にもなれば成績順評価ややいじめ、スクールカーストなど様々な関係性からくる問題に当たってしまいます。かといってそこから逃れることは難しく、たとえ不登校などになったとしても次に学校とは異なる社会関係の中に巻き込まれてしまいます(なんであの子は学校行かないの、と親戚から責められたりね)。
〝私〟を叫べば芸術か?
そんな私たち個々の〝私〟ですが、だからといってその苦しみを叫べばそれだけで芸術か、といえばそんなわけでもありませんね。なにかの小説の解説の中で、よく場末のホステスが私の人生を書けばベストセラーになるわよ、と言われて、馬鹿野郎、お前の人生なんてどこかで聞いたような苦しみだけをつなげただけだ、といった感じで怒っていた小説家の人もいました(忘れたけど、親との対立から家出、男のもとに身を寄せ破滅的な生活を送った後に水商売、そこそこいい生活をしていたが年齢とともに盛場の中心から離れ、そして今、といったような話で、小説のネタとしては今更誰も書かないありきたりだ、とのことでした)。
【岩野泡鳴『泡鳴五部作』】
(で、逆に〝この私〟の苦悩を撒き散らしながら文学を極めにかかった文豪の作品がこちら。…っていう紹介で正しいのかはちょっと不安ですが、よければ読んでみてご判断してみてください。苦しみながらもあちこち移動しては他人に迷惑かけまくっています。なんだか現代の迷惑YouTuberって言われる人と大差ないような気もしますけど、どうなんでしょうか)
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人生の構造/類型的受け入れられ方
これは出来事や当の本人の苦労とは別に、一度描かれた物語としては陳腐化してしまうと言うことですね。たとえ当の本人にとって本当に苦労したのであっても(そして本当に苦労されたのだと思いますが)、しかしそれだけではこの〝私〟の人生はすでにあるよくあるお話の中に回収されてしまうわけです。そして表現は基本的に構造/類型的なものを描く(というか大衆的に求められ受け入れられるものとして)ので、本当の人生の出来事の方を構造/類型的に押し込めて理解してしまうわけです。事実と虚構が理解の水準で逆転してしまっているわけですね。

苦しみを叫ぶだけでは判明されぬ、苦しみの原因やメカニズム
そうした時表現者の方でもただ〝この私〟の苦しみを叫ぶだけでは、その苦しみを表現しきれるわけではありません。その苦しみの原因となったメカニズムそのものを描かなければ、その苦しみまで陳腐なもののように表現されてしまいます。そうなると苦しいのはお前だけじゃないんだよ、とこれまたどこかで聞いたようなお説教だけで終わってしまいかねません。しかし苦しいのは〝この私〟です。あなたではありません。そしてあなたが苦しかった時も、苦しいのはあなたであり私ではありません。それは個々の〝私〟によってしか知ることのない苦しみなのです。
【フローベール『紋切型辞典』】
(人の言う立派な言葉がいかに紋切型なものばかりなのかを収集したという、大作家の書いたちょっといじわるな小辞典)
〝この私〟の苦しみと、理解される時の苦しみの在り方
そのため〝この私〟にしか知ることのできない苦しみは、〝この私〟にしか表現することもできません。しかしそれはその苦しみの原因やメカニズムを踏まえたものでなければ、〝私〟以外の人たちには伝わりません。もし伝わるとしたら、それは表現者の〝私〟の苦しみに触れることによって受け手の〝私〟の苦しみを思い出すことによる共感によってであり、実は表現者の苦しみを知るのではなく受け手である〝私〟の苦しみを思い返しているだけで終わってしまうわけです。

しかし個々の〝私〟の苦しみとは多様なものです。〝この私〟が苦しみだと思っていることでもあなたはそうは思わないかもしれません。逆にどれほど苦しんでいる人を見ても〝この私〟には何事なのかすらわからないことだってあります。そうした時〝この私〟ではない他者の苦しみを知るためには、その苦しみの原因やメカニズムまで踏み込んで表現することによってようやく理解できるものとして表れてくるかと思います。
【柄谷行人『探究』】
(他者の問題といえばこの本。何回も挙げてしまって飽きられてるかも。他者とはこの場合自分とは異なる規則で生きている存在のことです。ですから上記の場合、苦しみも他者とは異なるわけですね)
【レヴィナス『全体性と無限』】
(で他者の問題の元祖といえばレヴィナス。レヴィナスはアウシュビッツを前にしたユダヤ人哲学者で、いかにしてアウシュビッツの悲劇を繰り返さないか、という難問のため他者という考え方を出しました。この場合他者とは、自分とは異なる存在であるが、その他者性というものがお互いに向き合った顔によって現れてくる、として、人間を物=焼却炉に放り込むユダヤ人などではなく、すべての人間が他者として顔を通して自分と同じ人間性を持ち得た存在である、とつきつけてくる、といったようなことを書いてあった気がします。難しすぎて私にはよく理解できていません。それにしても講談社学術文庫から出たんですねぇ。最近多いなぁ)

そうした原因やメカニズムを抉り出そうとすることなくブラックボックス化したまま苦しみを共感することによって終わってしまう作品は、結局自分(と最初から自分に理解できる、自分と似た誰か、つまるところ自分の似姿でしかない他人)だけしか存在しない小さな内面世界の作品になってしまうようにも思えてくるのでした。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.29
お話その218(No.0218)
社会と私の葛藤と戦う意味としての〝私〟表現 ~苦悩する感情の吐露としての私語りとその原因を探す格闘と向き合わないことによるブラックボックス化という隠蔽
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.15
社会と私の格闘としての〝私〟表現 ~苦しいのをわかるためにも向き合わなくちゃだめ?
社会と〝この私〟
社会というものがよくわからなくても、私たちはみな社会に絡めとられています。アリストテレスは人間は社会的な動物である、と言ったそうですが(正確には古代ギリシアにはまだ社会という概念は明確でなくて、アリストテレスが生きていたポリスという都市国家の在り方に従ったポリス的とのことですが)、それは今日の私たちでも大きく違いはないように思われます。たとえ社会から外れていようとも、家族や友人といった人間関係/集団と完全に断ち切られることは困難でしょうし、またそうした関係性の中で権力や経済といった関係性から逃れることも難しいと思います(やろうと思ったら古代の隠者みたいに砂漠や森に隠れなくちゃいけないかもしれないけど、今日ではそんな場所すらがなくなってしまった)。
【アリストテレス『政治学』】
(人間が社会的動物、というのはこの本に書いてあったかと思います。ただアリストテレスは万学の祖と言われ古代にも関わらず経験主義的な考えも強かったのですが、政治的にはかなり保守的で自分の生きていたギリシア的ポリスの在り方を最高のものとみなしていたそうです。それに比べてお弟子さんでもあったアレクサンダー大王は東征において異文化との融和を求めたそうで、征服者である王さまの方が進歩的な考えだったというちょっと不思議な関係にある師弟でもありました。新しく西洋古典叢書から出てるの載せておきます。私はこのシリーズでは読んでませんが、大体このシリーズは注が豊富なのが特徴です)

そしてそんな社会に絡めとられた存在として個々の〝この私〟があるわけで、それを軸にすれば私小説のような〝私〟表現を描くことはさほど難しいことではないかもしれません。そのため誰でも一作だけは小説を書くことができる、それは自分のことを書いた作品だ、なんて言い回しも現れてくるわけですね。
〝私〟を描けば表現か?
しかし、では〝この私〟について書かれた小説(もしくは作品)が無条件で優れたものになるのでしょうか。社会を描くことはどの分野でも難しいことかと思いますが、ならその社会に絡めとられた〝この私〟を描いた作品は、そのまま社会や社会の持つ矛盾や問題を描いたものになりえるのでしょうか。

それがどうやらそうでもないらしいのでした。
というのも、社会の中の矛盾や問題は確かに〝この私〟に集約して現れてくるのですが、それがなぜどのように問題として〝この私〟に現れてくるのか、その理路や関係性を作品の主体=主観である〝この私〟が把握しようと努めていなければ、ただ〝この私〟が社会によって雁字搦めにされている苦悩を表すだけで終わってしまうからです。
苦悩の吐露とその源泉への格闘
たしかにどのような苦悩があろうともその苦悩を声高に叫ぶだけでは社会は表現されません。たとえその人が間違いなく社会による関係性の中で苦しんでいたとしても、その苦しみは表現の上では存在しないのと変わらなくなってしまいます。そのためただつらい、つらい、苦しい苦しいというだけの吐露や嘆きをつらつらと書くだけでは〝私〟表現としては不十分なのかもしれません。そうではなく、その苦しみの源泉や現れ方と向き合うような、その在り方自体が〝この私〟に集約されることによって苦悩が現れてしまうよう、そうした格闘が描かれていることが必要なのかもしれません。そうすることによって〝私〟表現は〝私〟を中心としながら〝この私〟を社会の中の〝私〟として描くことになるのかもしれませんね。
【中村光夫『風俗小説論』】
(有名な私小説批判の評論。でも内容わすれちゃったなぁ)

苦悩との格闘の消去 〜ブラックボックス化する問題の原因
ただそんなことは大変なので、その苦しみの源泉をつかみとるようなことは放棄して説明したり表現したりせず、作り手と受け手の間でその理由をわかりあってしまって結局その理由がブラックボックス化してしまって、現実の問題を解決させずにすませているようにも思えないこともないのでした。なかなか難しい問題ですね。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.24
お話その217(No.0217)






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