日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

移行対象例としてのキャラクターやフィクションと役割を果たす現実で役立つ意味 ~不安な現実に耐える移行対象のぬいぐるみになるもの【ウィニコット】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.17

 

現実の中のからっぽさの効用 ~からっぽなものは現実に役立つ?

キャラクターがからっぽの存在だとすれば、まさにそれゆえに受け手の自我を投影出来てしまうわけですね。

 

現実とからっぽさ

しかし現実というのはむしろ嫌になっちゃうくらい具体的なものです。それなのにフィクションはからっぽなものですから、現実のやるせなさをフィクションに投影させて我が身を慰めてしまうのにとても役に立つわけです。おそらくフロイトが評価した空想の役割もこのようなものだったのではないでしょうか(忘れた)。

 

【フロイト著作集3 文化・芸術論】 

現実を耐える代わりのもの

そういえばこのあたりの関係を大塚英志はわかりやすく説明していたことがあります。それは山田詠美の作品の批評を通してなのですが、恋人の黒人が連れ去られてしまい、彼が残していったスプーンを彼の代わりに大切に持っている、というラストシーンを指し、大切な当の本人(=恋人)は失われてしまったが、その代わりのものを大切に持つことによってこれからの現実を生きていくよすがにする、というものです。

 

【大塚英志『サブカルチャー文学論』】 

(この本に書いてあったはず。面白いけど、分厚い。最後に石原慎太郎を批判し連載中止になったという伝説があります)

 

移行対象と不安と現実

こうした現実を生きていくための大切なものを大塚英志はウィニコットという精神分析家の移行対象という概念を使って説明しなおしていました。

 

【ウィニコット『遊ぶことと現実』】 

(移行対象のことはこの本に書いてあるそうですが、残念ながら私はまだ読んでません)

 

移行対象というのは子供が小さい時肌身離さずずっともっているぬいぐるみのようなものを指す概念で、生まれもってからずっと慣れ親しんだ物を自分の分身のようにして、それを持っていることによって未知の周りの世界に対して起こる不安に耐えている、というものなんだそうです(読んでないから間違ってるかも…)。

 

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例としてだされるのがスヌーピーに出てくるチャーリー・ブラウンがよく持っている布で、チャーリー・ブラウンはこの布を持っていると安心する、ということが描かれているそうです(スヌーピーよく知らないので間違っていたらごめんなさい)。

 

【ピーナッツ選集】 

これは以前載せた瀬田貞二の『幼い子の文学』とも共通する観点かもしれません。この本に書いてあった〝生きて帰りし物語〟も、いわば子供が現実の不安をやりすごすためのものとしてありました。なんとなく似ている気もしますね(なんて、ウィニコットも瀬田貞二も大塚英志の批評から教えてもらったので、同じ観点で説明されていたなら似ていても当たり前かもしれませんね)。

 

【瀬田貞二『幼い子の文学』】 

 

現実を上手く耐えやりすごすためのからっぽなものたち

こうした移行対象となるもの、それを持っていることによって安心するもの、これを物そのものではなく、記憶の中に留められるフィクションやキャラクターとして捉えるならば、このようなからっぽの存在であるものたちは案外自我の確立の難しい(と思われる)この時代で、実によく役割を果たし続けているのかもしれませんね。

 

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そういえば20世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインは超難解な哲学上の問題を考えた後には、必ず映画館に入りどんな駄作であろうとも2時間しっかり見たそうです。それにつき合わされたお弟子さんは、まるで頭をからっぽにするために映画をシャワーのように浴びているようだった、と書いていました。レベルが違うお話ですが、なんとなく似ている気もしますね。

 

【マルコム『ウィトゲンシュタイン』】 

(お弟子さんのウィトゲンシュタイン回想記。歴史的哲学者を日常のフィルターに通して面白く知ることが出来ます。哲学の難解さとは別に、ウィトゲンシュタイン先生はかなりヘンテコで面白い人物であります)

 

なんか今日は疲れていてうまく書けないのでこの辺でやめておくことにします。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.24

 

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お話その209(No.0209)

ゼロ記号としてのからっぽなキャラクター ~記号論と差異の体系と、体系内で位置を占めない欠如された記号=ゼロ記号ゆえに可能となる読者の自我の投影

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.15

 

からっぽの存在=ゼロ記号、としてのキャラクター ~あなたは何者でもないからっぽの存在

キャラクターに中身のない、からっぽの存在であることは案外日本的文化の現れかもしれない、なんて与太話を書いてみましたが、こうしたからっぽの存在であると感情移入が容易であるという考え方もあります。

 

記号論と差異の体系

たとえば記号論という分野があります。すっごく面白そうです役に立ちそうな気がするし、ふた昔前に日本でも流行ったりしたのですが、ちょっとぼそぼそとつまんで読んでいるだけで私にはよくわかっていません。それなのに無理して今回関係ありそうな部分だけを簡単に述べますと、あらゆるものは全体の体系の差異化だ、というもので、もともとは言葉の関係を考えたソシュールというとても偉い人の考え方を応用したものです。

 

【エーコ『記号論』】 

(有名な記号論学者ウンベルト・エーコの記号論の本。なのですが、私はまだ読んでません…)

 

言葉と音の組み合わせと意味の表れ方

それは言葉っていうのは基本的に音なんであって、その音自体には意味がない。その音と対象が結びついて意味を示すことが可能になり、その対象と音との結びつきは恣意的なものである。そして対象となるものを呼ぶ名前の音は、他の音の組み合わせとの違い(=差異)によって決まる。

 

【ソシュール『一般言語学講義』】 

(ソシュールの本。これは私も読みました。ただ昔のなにいってんだかさっぱりわからない古い方の訳でです。こちらは読んでませんが、きっと間違いなくこの方がわかりやすいかと思います)

 

 

まぁ、こんな感じです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/24/120052

(前に同じようなこと書いたことありました)

 

イヌ(犬)とイエ(家)とイネ(稲)の違い

要は犬を〝イヌ〟と呼ぶのは〝イエ〟とか〝イネ〟という言葉とちょっとだけ音がズレていることによって、その音=名前が指し示すものを混同しないわけですね。〝イヌ〟も〝イエ〟も〝イネ〟も一字違いの音でしかありませんが、私たちは日本人ですからこの音を耳にするだけで犬と家と稲の違いはすぐにわかるわけです。そして音と対象とが結びついているのを私たちは当たり前に思っていますが、実のところ〝イヌ〟という音=名前が動物の犬を指し示すことにそれだけではなんら合理的な理由などないので、言葉だけを見ても外国人にはその違いがわからないわけです(もちろん私たちが外国語を前にした時も同じ問題に当たる。そして言葉の意味は歴史的に変化して今の形になっていると考えられる)。

 

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【犬の写真図鑑】 

(しかし犬っていってもたくさん種類いますね。同じ犬という中で様々な種類がいることも差異化の一種でしょうか)

 

組み合わせによって体系内に位置を占める記号

つまり日本語だと〝あ〟〜〝ん〟までの五十音を使って全ての言葉を生み出していき、意味を指し示して生み出していくわけですが、これと同じように他の領域でも全体の中体系(言葉だと五十音とかアルファベットとか)の各要素を組み合わせていくことによって同じ真似が出来る、というわけですね。

 

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そしてここで表された意味のひとつひとつを記号と呼ぶそうなのですが、この記号は一応恣意的とはいえ意味があるものです。その意味は体系の要素を組み合わせることによって生まれたものです。

 

体系内で位置を占めない、欠如された記号=ゼロ記号

こうした記号のうち、あらゆる組み合わせから逃れるものを、その体系の中にひとつ作っておくとします。それは数字に対する代入のXみたいなものだそうです。123…とある数字は他の数字にはなれませんが〝X〟の中にはどのような数字でも入れることが出来ます。考えてみるととても便利な考え方ですね。

 

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これと同じように記号の体系の中にも〝X〟に当たるものがあるそうです。それをゼロ記号と呼ぶらしいのですが(間違ってたらどうしよう…いい加減な知識だから…)、これと同じようにキャラクターも具体性を欠いているために受けての望むものを投影させることが出来るのかもしれません。キティちゃんに口がないことによって受け手の感情を自由に投影(=代入?)させることが出来たり、キャラクターに自我を託したり、スターに没入したりと、もしかしたら同じ作用なのかもしれませんね。

 

【ロラン・バルト『表象の帝国』】 

(記号論者バルトの日本訪問兼日本論。そして日本は記号の国である、というような理解だったとか。そして東京における皇居こそ意味のないゼロ記号だ、というわけで、日本=天皇=ゼロ記号=からっぽという図式が生まれて、日本文化もからっぽなものこそ本道なのかも、と思ったりもしてしまう一冊….といいつつ、私はこれも読んでません)

 

そんなわけでキャラクターのからっぽさとゼロ記号のお話でした。あってるのかは不安です…

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.22

 

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お話その208(No.0208)

不死身なキャラクターの持つ虚無の意味と邪魔とみなされ抹消される特定人物の持つ具体性 ~キャラクターと人間とからっぽさと自我の投影

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.10

 

キャラクターと人間とからっぽさと自我の投影 ~わかってくれるのは、からっぽだから? 

フィクションと自我の話がなかなか先に進みません。すこしでも進めるように頑張ろう。

 

というわけで、自我を投影させるスターであってもメディア等を通して知っているのであり、具体性を欠いた存在として投影していて、実のところ虚構のキャラクターとさほど変わらないように捉えてるのではないか、また実在の人物であってもキャラクターであっても、現実にまとわりついてくる具体性がない方が自我は投影させやすいのではないか、というようなことを書きたかったのだと思います(書いてるうちにわけわからなくなってきた)。

 

具体性と人間

こうした具体性は人間として避けるわけにはいかない諸関係ですね。そのため実在の人物から具体性を切り離すことは出来ないはずです。無理矢理ないようにして、アイドルはトイレいかない(今なら政治意見をもっちゃいけない、でしょうか?)、みたいに言われちゃうわけですが、そもそも生身の人間にそんなこと求めるのは酷なことかもしれませんね。

 

【ハイデガー『存在と時間』/サルトル『存在と無』】 

 

 

不滅としてのキャラクター

それと比べてキャラクターは完全な虚構ですからそんな諸関係はありません。なんならキャラクター生みの親がいなくなっても、別の人によって描かれていくことはいくらでもあることです(長谷川町子も臼井義人も亡くなったが『サザエさん』も『クレヨンしんちゃん』もアニメは続けられ、サザエさんもしんのすけも生き続けている。矢島晶子は去り藤原啓治も亡くなってしまったが、しんのすけやひろしは活躍し続ける)。

 

【小池一夫『キャラクターはこう動かす』/長谷川町子『サザエさん』/臼井義人『クレヨンしんちゃん』】 

人間からキャラクターへ?

そんなわけで世の中が情報上位の世界へと変貌していくに従って、自我の投影先が実在の人物をスターとすることから虚構のキャラクターへと変わっていっているのかもしれません(でも男女共にアイドル強いからそんなことないのかも…それともますますの人物のキャラクター化か進んでいるからなのかな)。そしてそれはキャラクターこそ中身のないからっぽの存在であり、受け手となる人々を存分に没入させることが出来るからなのかもしれません。

 

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キティちゃんと口の表現と見る人の感情 〜からっぽであることの効果

たとえばキティちゃんは公式には口を描かないそうですが、それは口がないことによって見ている人にとってキティちゃんの表情が笑っているか泣いているか、変わって見えるからだそうです。これはキティちゃんというキャラクターから中身をなくしからっぽにすることによって可能となる方法と思えますね。 

 

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からっぽとしての日本文化

そしてどうもこうしたからっぽの存在というものが日本らしさの文化なんだそうです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/07/193030

 

【三島由紀夫『文化防衛論』】 

 

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そう考えますとキティちゃんが生まれたのも案外日本的文化の嫡流かもしれず、また昨今のアニメ・漫画文化の世界的評価も日本文化の輸出としてそう間違った理解でもないのかもしれませんし、キャラクターに自我を投影させて自分の自我を確立させないのも古くからある日本的態度の延長線にあるのかもしれませんね、なんね真偽の定かではない与太話とつながってしまったところで今回のお話を終えてみようかと思います。なんか疲れててまとまりでそうにありません。急に暑くなってきましたしね…ふぅ。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.17

 

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お話その207(No.0207)

【まとめ】自我とその代わりとフィクション ~投影させるからっぽなものと似ている具体的なもの【50】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

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まとめ50 自我とその代わりとフィクション ~投影させるからっぽなものと似ている具体的なもの

このまとめの要旨

自我とその代わりになるであろう代替者を描くフィクション、そしてそんなからっぽな作品に対して真逆となる具体性に満ちた作品の在り方、などについて書いたもののまとめ。

 

書いたものの一覧

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明確な自我というものを確立することが難しいとしたら、そんな自我の代わりをどこかに求めているのかもしれませんね、ーというようなお話。

 

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そんな自我の代替者は自分にとって理想的な在り方をしている対象に求めるのかもしれません、ーというようなお話。

 

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また自我の代替者はフィクションの中にも求められるけど、逆にそうしたフィクションを徹底的に読むことによってまた新たなものを生み出すことの力にもなってくるかもしれませんね、ーというようなお話。

 

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自我の代替者、もしくは投影先としてのキャラクターはからっぽであるからこそ投影出来る、具体的だと見たくない側面まで見てしまうから没入出来ないらしい、ーというようなお話。

 

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自分を受け入れてくれる存在として『ドラえもん』があるかと思えるけど、『ドラえもん』はどちらかといえば現実の虚しさを突きつけてくるような作品ではないでしょうか、ーというようなお話。

 

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そして自分を無批判に受け入れてくれるのはまさにキャラクターがからっぽであるがゆえに可能なのだ、ーというようなお話。

 

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そんなからっぽの存在は記号論でいうところのゼロ記号っていうものなのかもしれないね、ーというようなお話。

 

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そしてからっぽな存在は世知辛い現代社会においてそれなりに生きていくための知恵のひとつなのかもしれませんね、ーというようなお話。

 

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そんなからっぽさってなんだか日本らしい特徴のようにも思えないこともありませんね、ーというようなお話。

 

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また日本のアニメや漫画が世界に届くのも、こうしたからっぽさが受けてたりする可能性もあるのでしょうか、ーというようなお話。

 

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しかし具体的な作品を書こうとも、すでに書くべきものはすべて書かれているのかもしれず、ならすでにあるものを組み合わせて作品を作っていくという確信犯的な態度もあります、ーというようなお話。

 

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逆に具体的なもので固めようとしたら、この私である自我を中心としたものを対象にして作品を作るって方法もありますね、ーというようなお話。

 

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でもそんな私ってどんなもの、といえば、周りの諸関係にがんじからめに絡めとられた存在のひとつとしてそうある、ーというようなお話。

 

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ならその諸関係そのものを描こうとしても、社会そのものを描くことは大変難しい、ーというようなお話。

 

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そしてそんな社会の中に存在しているのが作家としての私なのであって、それゆえ私を中心にして作品を描くことも可能なのだ、ーというようなお話。

 

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ただだからといってやみくもに自分のことばかり書いてたらいいかといえばそうではなく、自分の中にある諸関係との葛藤などとしっかり向き合わなければ表現にならないのでは、ーというようなお話。

 

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『ドラえもん』における子供が自分を投影するのび太の存在と、ズルとしっぺ返しにより充足願望から現実に引き戻される作品テーマの作中/読者構造による二重性 〜ドラえもんとのび太の関係と『ドラえもん』と読者の関係と重なる願いをかなえてくれる空想と現実

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.08

 

自我の投影先と具体性の関係 ~わたしを受け入れてくれるあなた。と『ドラえもん』の話

さてフィクションと自我の関係から、キャラクターと人間(具体的人物)との関係のお話にずれていってしまいましたがもう少し続けてみたいと思います。

 

自我の投影とその受け入れ先

自我の投影先としてのスターがなぜ自我の投影先となりえるかといえば、それは自分を受け入れてくれる存在のように思われるからです。もし自分に向かってぐじぐじ問題点ばかり指摘してくる人が身近にいたとして、その人物を戯画化したような人物がフィクションに現れたからといってその人に自我を投影させたりはしないでしょう。たとえ自分が他人に向かっては同じことをしていたとしても、やっぱり自我を投影させたりしないと思います(そうしたフィクションの人物は批評的なものとして表現されると思う)。自分を投影させるには、それ相応の受け入れ先に条件があるわけですね。

 

自我の投影先の条件? 〜具体性の欠如、自分と似ていること、憧れ、願望、欲望など…

そういえば藤子・F・不二雄は『ドラえもん』読んでる子供はみんなのび太を自分だと思って読んでる、とたしかNHKで放送されていたアーカイブかなにかで発言されていたのを見たような覚えがありますが、これも似たようなことかもしれません。この場合は自我の投影先になにかあったりなかったりすることよりも、自分と似ていることが条件となっているわけですね。

 

【藤子・F・不二雄『ドラえもん』】 

とはいえ自分と似ていることがどうしても必要なのかといえばそういうわけではないでしょう。長嶋茂雄に憧れても野球がそんなに上手いわけではありませんからね。これはまさに憧れ、願望が自我の投影先としての条件となっているのかもしれません。

 

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またここ数年流行っているやたらと主人公が強い作品であれば、憧れや願望というよりもそのまま欲望に近いのかもしれません(単にゲームで課金すると簡単に強くなるということを反映しているだけかもしれませんが)。ちょっとこの場合は自我の投影先としては少々みっともないような気もしてきますが、まぁ願望充足のためと捉えれば間違っているわけでもありません(フロイトも現実を埋め合わせるための空想は大変重要であると書いていたかと思います)。

 

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【フロイト著作集3 文化・芸術論】 

(フロイトがどこでいっていたかは覚えてないのですが、多分この巻なんじゃないかと思うので載せておきます)

 

現実の具体性から離れたキャラクター 〜『ドラえもん』とのび太くんの現実

ともかくこうした自我の投影先となりうるフィクションやキャラクターは、あまり現実と重なりすぎてはいけない関係性があるのかもしれません。のび太くんに自分を投影させていたとして、そのダメなところを具体的に描いていればやはり嫌がって見なくなるかもしれませんしね。『ドラえもん』ではそんなのび太くんがズルして楽しようとしながらドラえもんを言いくるめてひみつ道具を出してもらうのですが、必ずしっぺ返しされて現実へと引き戻されます。その点において『ドラえもん』は批評的な作品と思われます。子供の素朴な充足願望を満たしながら、最後にもう一度現実へと戻されてしまうのです。実はドラえもんに助けてもらうことはある種の空想で、現実は変わっていないわけです。そしてそれは読んでいる子供たちにとっても同じで、のび太くんにはドラえもんがいるけど読者にはいないので、のび太くんが最後に現実に引き戻されてしまうように読者もドラえもんなしの現実の中で『ドラえもん』を読み終えた後にやっぱりいちから自分でやっていくことしかないことを暗示しているわけです。

 

【瀬田貞二『幼い子の文学』】 

(『指輪物語』や『ナルニア国物語』の翻訳者である瀬田貞二が、子供の好む表現として行って帰ってくる、という構造があることを指摘した本。たとえばお母さんのスカートにいつも掴まっている小さな子が、ちょっと離れて気になるところにかけより、またすぐにお母さんの元に戻ってスカートを掴む、というもの。それは〝母親=ここ〟から〝気になるところ=どこか〟という往復運動をすることで子供は自分の世界を広げている、ということと同時に、〝ここ=現実〟から〝どこか=空想〟へと行って帰ってくることが子供の現実認識を強めていく、というようなことだったと思う。…ちょっと違ったかも。これを踏まえて『ドラえもん』を見直すと、上に書いたような解釈になりました。むしろ大人向けの方が妄想世界へといったまま帰ってこないことの方が多い気もしますね。

追記:この本とても面白かった覚えがあります)

 

【 浅野にいお『おやすみプンプン』】 

(自分のダメなところを延々描いてるのはこの作品とかなのかな。のび太くんと同じダメな主人公でも自我の投影方法は全然違うかと思います。まぁ作品の種類も全然違うのですから当たり前でしょうけど…私は最初の1、2冊だけ立ち読みしたことがある程度です。)

 

余談:『ドラえもん』と自主性

つい『ドラえもん』のお話になってしまいましたが、『ドラえもん』には昔から子供の自主性を損なうとか、なんでもドラえもんに叶えてもらおうとしてなにもしない、わがままな子供になるという批判があるので擁護してみたくもなったのでした。最近はそんなことも言われなくなった気もしますが、10年も前じゃなかったと思うのですがインドで『ドラえもん』が放送された時にも当地で放送の反対運動があったと新聞で読んだことがあるので、結構土地を問わず思われることは似ているのかもしれません。

 

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また話がズレてしまいました。なにが書きたかったのかわからなくなってしまいましたし、少し長くなったのでこの辺でやめておくことにします。とほほ…

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.15

 

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お話その206(No.0206)