日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

都市の変化(都市計画や再開発)により失われる記憶の風景とアノミーの影響関係 ~街=都市の建物や風景もメディアと同じように常に変化していく

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/27/190004

 

都市の変化とアノミー 〜メディアも街も、絶え間なく変わっていく….

そのようなわけで、都市の大衆がなぜアノミーになるかといえば、メディアが目まぐるしく変わるから、と考えられるのでした。もうちょっと考えてみましょうか。

 

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集合表象とアノミー

前にも書いたかと思いますが、人間の精神も最初に与えられたものを前提に物事を捉えたり、考えたりすると、一応そう考えてみることにします。動物でいう刷り込みと同じようなもので、ヒナが初めて見たものを親と思うのと同じように、子供の頃に当たり前だと思っている価値観をとりあえずは正しいものだと思う。とりあえずそう考えておきましょうか。

 

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もちろん大人になってから変わったり学んだりしたりすることはありますね。目上や部下に対する態度というのは所属する組織によって決まってくるかもしれません。ですから属した場所によって学ぶものは変わりそうです。ですがそれゆえに違う組織や集団に属し直すとやり方が変わって困惑することもありえそうです。これを集団的態度の価値観として考えると、やっぱり最初に身につけたものを前提にして考えがちであり、その価値観から引き剥がされるとどうしていいかわからなくなる=アノミー化する可能性はありそうです。こうして考えてみると生まれた環境の価値観とか子供の頃に当たり前だと思っている価値観というより、慣れ親しんでしまって変えることが難しいくらいの価値観と言い直した方がいいのかもしれませんね。そしてこうした価値観が集団の中で生じるものであれば、やっぱり集合表象の一種として捉えることも出来るかもしれませんし、引き剥がされるとアノミーになるのも納得いきそうな気もします。

 

変化し続けるメディア環境

そのうえで都市におけるメディア環境は絶え間なく変化していきます。そして集合表象がメディアによって形成されると仮定すれば、メディアによって伝えられる情報が変わるにつれて集合表象も変わっていきそうな気もします。それらは徐々に変わっていきますが10年も20年もしたらまったく変わってしまいます。すると生まれて育っていく間に慣れ親しんでいた価値観とも引き剥がされやすくなるかもしれません。

 

変化し姿を変えていく街(=都市)

ついでに都市は街自体もよく変わります。大規模な再開発などでなくても、近所の店舗は閉めてしまい全然違う店になってしまうことはよくあることかと思います。コンビニがケータイショップに代わりいつの間にかドラッグストアになっている。こうなってくると慣れ親しんでいた風景自体が失われていきます。もし人間の精神が土地と深く結びついているとしたら、こうした変化もかつてあったものから大きく引き剥がされてアノミーになる可能性もあるのかもしれませんね。国破れて山河あり。しかし都市では山河(=自然)に当たるものがビルやテナントになりますから、自然(=当たり前にあるもの)は次々と変わっていってしまいます、江藤淳は生まれた街が戦後ホテル街になっていることに憤り、深く悲しんだことをエッセイに書いていた気がしますが、これはそうした一例かもしれません。

 

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ともかく都市においてアノミーが生まれるとしたら、その周囲の変化(メディア、街自体)の目覚ましさにあるのかもしれませんね。共同体の生きている田舎では、自然は今でも世代を超えて残っているかもしれません。それに比べると都市は真逆で残っている方がおかしく、発展に取り残されたと考えられるかもしれませんからね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/31/180014

 

気になったら読んで欲しい本

パーク『実験室としての都市』 

パーク他『都市』 

都市論の出発点の本です。都市を生態学の観点から考えていた覚えがあります。なんだかとても値段が上がっています。

 

マクルーハングーテンベルクの銀河系』『メディア論』 

マクルーハンの解説書 

 

デュルケーム『宗教生活の原初形態』『自殺論』 

 

江藤淳『成熟と喪失』 

江藤淳がどこで上のようなことを書いていたのか忘れてしまいました。もしかしたらネット上で引用されていたのかもしれません。とりあえず代表作であり、戦後の日本のアメリカ化を焦点ともしている文芸批評を載せておくことにします。

ちなみに解説は上野千鶴子です。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/31/180014

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/27/190004

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お話その156(No.0156)

テクノロジーとメディアの発展による、集合表象の変化とアノミー ~近代社会の意味する複雑さにより必要不可欠となる遠い地の物と情報

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/26/190033

 

メディアの発展と集合表象の変化 〜都市の大衆は間断なき集合表象の変化にさらされている?

都市的大衆のアノミー

都市の大衆がなぜアノミー化するのか、ちょっと不思議です。昔なら共同体から離れず生きていた人たちが、近代に入って急に都市へと移動させられたから、もとの価値観から引き剥がされてアノミーとなる、それはいえそうです。しかしもう大半の人は都市で生まれて都市で死ぬまで過ごします。昔の村=共同体で暮らしているのとそんなに違いがなさそうです。アノミーが集合表象との不一致によって起こるのだとすれば、都市でしか暮らしていなければ起こらない気もしてきますね。

 

交通と通信の、テクノロジーの発展

さて、その上で共同体(村や田舎)と都市の集合表象の違いを考えてみましょう。共同体中心で生きていた時代は近代以前です。ですからテクノロジーの進歩は大したことありませんね。特にメディアの問題とすれば交通と通信が大切です。伝わってくる情報は移動できる範囲に限られますし、そこから伝えられる情報も通信技術に依存しますから、これらが発展しなければ足で移動できるような具体的な範囲のことしか伝わってきません。つまり共同体時代のメディアは基本的に人(もしくは話)になるわけですね。

 

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一方都市が当たり前の世界というのは近代に入ってからです。どこで読んだか忘れましたが、昔々江戸が大都市だった頃、10万都市は江戸とコンスタンチノープルしかなかった、なんて書いてあった気がします。これは前近代であれば特例中の特例として大都市が存在していたことを指すと思えます。しかし今であれば先進国の主要地域はみな都市です。かつては歴史的にみても世界的にみても珍しかったものが、現代では当たり前のものになっています。そうした都市が容易になったくらいに文明は発展したのですね。

 

必要なものと化す、遠い地の情報

そして文明が発展しましたので、かつての共同体時代であれば制限されていた交通と通信も発展しました。それも爆発的に拡大したといっていいでしょう。ジュール・ヴェルヌに『八十日間世界一周』なんて名作もありましたが、近代初期であれば小説のテーマとなるほどに魅力的だった世界一周も、今なら豪華クルーズで100万円ほど払えば誰でも行けます。高いことは高いですが、生涯を賭けるような旅ではなくなってしまいました。これは交通可能な範囲も移動手段も圧倒的に進歩したからですね。そして簡単に行けるようになるにつれて、遠い場所は当たり前のものになっていきますし、そこで起こることも社会的な現象として切り離すわけにもいかなくなってきました。コーヒー豆の産地の気候が缶コーヒーの値段と関係してくるかもしれませんからね。それがいくら地球の裏だからといって無関係なものにならなくなってきます。

 

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となると同時にそうした遠い地の情報もいち早く得なくてはいけなくなりました。特に経済活動においては非常に重要ですものね。株なんて情報がすべてかもしれません(よく知らないけど)。そんなわけで遠い地の情報を得るために通信の進歩も最大限使われることになります。必要な人にとっては死活問題ですからね。

 

圧倒的な情報量と間断なき変化

そんなわけで近代という時代はテクノロジーの発展によって交通も通信も爆発的な広がりを持ち地球規模になりました。こう考えますと今いうグローバリズムなんて近代の帰結なのかもしれませんね。最初からそうなるように向けられた時代設定だからそうなるのは当たり前なのかもしれません。それはともかくこうして交通と通信が拡大することによって私たちの周りに存在する情報も圧倒的に増えました。

 

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それをメディアが伝え続けるのですから、メディアの情報は変幻自在のくるくる大回転です。去年のことなど誰も覚えていません。10年前ともなれば最早過去を通り越して忘却の彼方、下手をすれば存在していたのかもわからないくらいかもしれません。さらにメディアの種類までもが増えていきます。もし人類のメディアが人づての話(うわさとか)が最初だったとしても、そこから出版になり、新聞があり、ラジオになり、TVになって、ネットと今来ています。しかしその働きは基本的に同じとも考えることが出来ます。誰かが誰かに情報を伝えることです(このうち発信者がネットでは大きく変わったわけですね)。

 

メディアによる集合表象の安定と変動 〜共同体と都市の集合表象の在り方

これが共同体時代であれば与えられる情報の変化も少なかったはずです。そしてそうしたメディアから生まれる集合表象も神話のように固定化し安定していたと考えてみることも出来ます。しかし近代化した都市であれば、こうしたメディアの情報は常に変わります。むしろ固定化していることすら異常といっていいかもしれません。となると都市における集合表象がメディアによって形成されていると考えてみるならば、ころころころころ集合表象は変わっていることになります。

 

だとすれば都市におけるアノミーの理由は簡単です。安定した集合表象など存在しない(もしくは形成できない)から、常にその内部にいる人間は集合表象との不一致にさらされなければならないからです。

 

あってるかわかりませんが、とりあえずこれを私なりの考えとしておくことにしましょうね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/30/180035

 

気になったら読んで欲しい本

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケームの集合表象とアノミーについてはこれらの本を読んでみてくださいね。しょっちゅう載せてますから今回は説明を省いてしまいます。

 

ヴェルヌ『八十日間世界一周』 

ヴェルヌの小説。とっても面白い。初期のSFは近代社会の発展を反映した面もあるのかもしれませんね。そう思って読むとまた違う側面が見えてくるのかもしれませんが、私は単に面白く読むだけでした。

なんでも光文社古典新訳でも出てるみたいですが、創元社文庫に未練があるのでこちらを載せておきます。

カプフェレ『うわさ』 

最初のメディアが人づてのうわさだろう、と書いてあると思うのですが、残念ながら私は読んでいません。

キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』 

で、これも読んでないのですがメディアの変遷について書いてあるらしい名著とどこかで目にした覚えがあるので載せてみました。なんかえらい高騰していて私には手が出せません。うむむ…

マクルーハングーテンベルクの銀河系』『メディア論』 



次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/30/180035

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/26/190033

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お話その155(No.0155)

都市と大衆とメディアと集合表象 ~都市に住むことによりメディアの変化に常にさらされアノミー/社会的混乱に陥る近代人としての大衆

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/25/190006

 

都市と大衆と集合表象とメディア 〜大衆社会の問題の前置き

都市定住の大衆

さて大衆が土地/田舎から生産地/都市へと移動したことにより現れ、同時に人間の精神が最初に形作られた環境から引き剥がされることによって無規範になってしまう、なんてことをお話してみました。でも大衆の現れた時代ならそういってもいいかもしれませんが、今だとこのままの理由で大衆を捉えるのも難しいですよね。資本主義の生まれて間もないアダム・スミスからマルクスの時代であればこうした現象は新しく起こってきたものだから特筆すべき現象であったかもしれません。でも今や当たり前になってしまったはずですからね。今なら最初から都市で生まれて死ぬまで都市で過ごす人の方が大勢いそうです。なら昔の共同体みたいに生まれた村で死ぬまで暮らすのと同じで、共同体に類するような規範が都市にだってあったってよさそうなもんです。なんでうまくいかないんでしょうね。

 

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集合表象の不一致としてのアノミー 〜共同体から都市へ

これを同じ前提から考えてみましょうか。デュルケームの観点からいえば集合表象(とりあえず社会の価値観とでもここでは考えておく)と一致しなくなった人間がアノミーという社会的混乱の状態に陥り無規範な状態になってしまう、というものでした。これを共同体の場合で考えてみますと、共同体内部にある昔から続いてきた価値観を集合表象とし、その共同体から離れることによってもともとの価値観から引き剥がされてしまう、ということによりアノミー化すると考えられそうです。ですから時代の趨勢で無理矢理田舎から都市へ移動させられてしまったんで大衆はアノミーの状態にある、と一応言えなくもないかもしれません。

 

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https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022

 

しかし都市でもこの集合表象が存在しているとして、今のご時世都市においてずっと暮らしているのなら都市の集合表象から引き剥がされることはないような気がします。けど、おそらく都市こそアノミーの巣窟で、むしろ田舎の方がこうした価値観の変動は起こりにくく安定しているかと思います(代わりに変化がないから成長も感じられず都市へと出たくなるのかもしれませんし、一度破綻した関係性でも逃げ場はなく爆発するような現象もあるかもしれません)。となると都市にはなにか価値観の変動を起こす要因がありえそうです。

 

集合表象とメディア

そのひとつとして考えられるのがメディアの存在です。集合表象がなんなのかは突き詰めるとわからなくなってしまうのですが、とりあえず表象、まぁイメージの一種とでも考えておくことにしましょう(本当は違うと思うけど)。個々人の中において浮かんでくるイメージが個人的なものであるのに対し、大勢の人を巻き込んでしまうイメージを集合表象だと、一応ここではそう考えてみましょうか。となるとこんなイメージを生み出すものはメディアを持って他ありません。

 

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メディアといっても色々あります。とりあえずどこからか情報を伝えてくれる媒体、と考えてみましょう。すると人の話もメディアですね。うわさ話もメディアになります。となるとメディアというのはテクノロジーが発展していようがいまいが存在していることになります。ただその規模がテクノロジーの度合いによって全然違うわけです。

 

共通する社会のメカニズム

そして人の口から口へと伝えられるものが、一種のメディアによって世界を形作られるとすれば、それは想像的世界であり、直接生きている周りの環境にある具体的世界とは異なることになりますね。そして口から口へと伝えられる想像的世界って、未開社会であれば神話になるような気がします。そもそもデュルケームが集合表象の考え方を導き出したのもオーストラリアの未開社会における宗教を分析してだしたものでした。もしかしたらこうした宗教自体が一種のメディア的な現象ということだって出来るかもしれません(いや、実際はわからないけど)。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/29/190005

 

そういえばとっても偉いロラン・バルトという人は記号論というものを使って現代の大衆文化を分析した時、それらを現代の神話としてくくりました。つまり記号論という考え方を使えば未開社会の宗教も、現代社会の大衆文化も、共に神話として捉えることが出来るわけですね。実は社会というものは未開社会だろうが現代社会だろうが、実は同じメカニズムで動いているのかもしれません。

 

そして未開社会だろうが前近代だろうが現代社会だろうが、集合表象と考えられるような現象が存在して、しかもそれがメディアを通してひとつの世界観(宗教や神話、社会の姿)を形成するのだとすれば、デュルケームの観点からすれば私たちが人間である以上前提として持たざるを得ない認識は、どんな社会でも集合表象から与えられることになりますので、それは共同体であっても都市であっても同じということになるかもしれません。

 

ではなぜ都市ではそうした集合表象との不一致が起こりやすくアノミーになりやすいのか、というお話を今回書くつもりだったのですが、前置きだけで終わってしまいました。こりゃ困りましたね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/27/190004

 

気になったら読んで欲しい本

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケームの本。考えてみますと上の本はオーストラリアの未開社会、下の本はパリ、とデュルケーム自身の共同体と都市の分析の対比とも言えそうな気がしてきました。そうした観点で読んでみるのも面白いかもしれませんね。

 

マクルーハングーテンベルクの銀河系』 

メディアというものを考える時、必読文献とされている本です。昔読んだんですけど、よく知らないままに読んだんで忘れてしまいました。ははは。こんなんばっかりですね。

カプフェレ『うわさ』 

で、うわさもメディアなんだよ、ということを書いてあると思う本。まだ読んでいませんので確かなことはいえません。こちらもこんなんばっかりですね。ははは。

バルト『神話作用』 
神話作用

神話作用

Amazon

ロラン・バルトが現代の神話として大衆文化を分析した本。完訳版が著作集にあるのですが、あえて抄録のこちらにしてみました。というのも翻訳者がクイズダービーでおなじみの篠沢教授だからです。番組の往年のファンであれば懐かしいかもしれませんね。篠沢教授の姿は大半の方がクイズダービーでご覧になられているでしょうから、フランス文学者としての訳業として載せてみたかったのでした。昔はこの翻訳しかありませんでしたので、こちらで読まれた方は多いと思います。見ると半世紀も前の翻訳なんですね。


次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/27/190004

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/25/190006

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お話その154(No.0154)

近代的現象としての大衆と人間の社会と精神 〜フロイトによる幼児期の影響とデュルケームのアノミーから考えてみる大衆

 

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/24/190057

 

大衆と人間の精神と社会

庶民と大衆というものをとりあえず分けてみました。もしかしたら間違っているかもしれませんが、一応前回みたいにここでは考えておきましょうね。庶民は一定した生活様式の中におさまる暮らしをしている人たちで、大衆は生産様式の変化によって歴史的に現れてきた人たち、とでもしておきましょう。

 

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近代的現象としての大衆

大衆が歴史的現象であれば、それは比較的最近のことです。太古の昔から大衆というものは存在していたわけではなく、近代に入ってから生まれたわけですね。どうして大衆が生まれたかといえば土地から生産へと富の源泉が変わり人々が生産地/都市へと移動したからですが、しかしなぜそんなことが大きな問題になるのでしょうか。別に移動したからといって大きな問題が起こるようにも思えませんよね。

 

どうもこれが人間の精神の在り方に大きく関わってくるような問題のようです。

 

人間の精神と社会

というのも以前書いたかもしれませんが、人間の精神は生まれた環境で得た価値観にかなり縛られて生きているようです。フロイトは精神病の原因として幼児期(と性)を重視しましたが、そこで得た体験が無意識となってその人の意識を見えない形で支配している、と考えたのだと思います(でも私にはフロイトの考えはわかりそうでよくわかりませんので、間違ってるかもしれません)。

 

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そしてデュルケーム社会学の観点で一致した価値観から引き剥がされたらどうなるかを考えました。以前もデュルケームの集合表象という考え方について書いたりもしましたが、極端に詰めていえば社会にあるとみなされる価値観や社会通念みたいなもんだとここでは思っておきましょう(それだけで考えたらきっと間違いだろうけど)。そして人間の精神はこうした集合表象からいろんなもんを受け取って形作られているんだ、とでもいうものでした。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022

 

そしてデュルケームはこうした集合表象との一致が失われた人の状態をアノミーと呼びました。本来集合表象から与えられている社会規範が、集合表象とその人との間で一致しなくなったから規範自体が失われて無規範/無秩序な状態に置かれてしまっている、とでも言えそうなもんです(ちゃんと説明するとこの通りにはならないかもしれません。ので下に本載せておきますね)。

 

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フロイトデュルケームから考えててみる大衆

こうしたデュルケームの考え方を大衆というものに応用してみますと、今まで歴史的に共同体に暮らしてきた大多数の人間が、その共同体から引き剥がされて都市に暮らすことによってアノミー化した。しかしフロイトの観点の通りで生まれ環境(共同体)の価値観に縛られているとしたら、新たな都市での新たな価値観の形成は大変困難である(既に無自覚なうちに形成された無意識と、新しく与えられる価値観との間に一致を見出すことが難しい)。そのため大衆は規範的な生き方をするためには最初から問題がある、とでもなるでしょうか。

 

じゃあ、最初から都市で生まれた大変はどうなるんでしょうね。次にそれを考えてみたいと思います。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/26/190033

 

気になったら読んで欲しい本

フロイト精神分析学入門』 

フロイトの本。フロイト先生自身の手による精神分析の概説書なのでとってもお得。フロイト精神分析について大概のことはこの本にあるかもしれませんね。面白いんですけど結構忘れてしまいました。

 

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケームの本。フロイトが中公文庫なのでデュルケームちくま学芸文庫にしてみました。なんかもう品切れのようで高くなっています。せっかく新しく出たのに残念ですね。

集合表象についてはこの本に出ていると思います。

デュルケーム『分類の未開形態』 

しかし人間の精神も集合表象(もしくは社会?)から与えられている、という考え方はこの本に載っていたかと思います。私はこれより前の翻訳で読みましたが、そちらはあまり訳がよくない様子で、この本の解説でも少し触れられていました。集合表象と人間の精神の関係を知りたいならこれらのデュルケームの本を手に取るのがいいかと思います。

デュルケーム『自殺論』 

そしてそうした集合表象との一致が失われたらどうなるか、ということをデュルケームはこの本の中で書きました。面白いのはそうした考えを持って自殺について書いたのではなく、当時のフランスにおける自殺の統計から社会学的にそうした考え方を導き出したのです。つまり概念先行ではないわけですね。その上でアノミーという考え方を出し、無規範な人間の姿を取り出しました。その結果のひとつが自殺というわけですね。

デュルケーム『社会分業論』 

で、デュルケームはこの本でアノミーの対策を考えました。すなわち社会的な役割を分業して、それぞれの人間関係が孤立化しないように密接にしよう、というわけです。アノミーは具体的な人間関係を失い孤立化したところに現れるからですね。こう考えると今の世の中がかなりデュルケームの考察した範囲内で理解できるような気がするのは私だけでしょうか。

デュルケームはこれらを読めば大体概略がわかるかと思いますし、現代社会において起こる三面記事的な出来事もほとんど解釈出来るような気がします。

オルテガ『大衆の反逆』 

そして大衆という考え方を最初に規定した本。この本の内容とフロイトデュルケームの考えを比べて読んでみるととても参考になる気がします。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/26/190033

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/24/190057

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お話その153(No.0153)

大衆と庶民の違いと意味:都市部に暮らす社会生活/昔ながらの生活様式の維持 〜共同体をひくか、根無し草の都市民か、の普通の人々

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/23/190056

 

関係するまとめはこちらになります。

www.waka-rukana.com

www.waka-rukana.com

よろしければご覧になってみてください。各々のお話を短く箇条書きにしていますので、もしかしたらそれだけでも参考になるかもしれません。さらに興味がありましたら個々のお話をご覧になっていただければ嬉しいです。

 

大衆と庶民

普通の人々と特別な人々

大衆と聞くとどうも普通の人のことを思い浮かべてしまいますね。芸能人じゃない、政治家でもない、大学の先生でもない…つまりこうした特別な人ではない普通の人として、大衆というものがあると受け取られているわけです。

 

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ようは大衆とは特別ではない、普通の人というわけですね。そのため世の中の人々の大半は大衆というと自分のことを指す(もしくは含まれる)と思っているかと思います。しかし普通の人、といった時、じゃあ庶民なんかとはどう違うのか、という風に考えてみるとよくわからなくなりますね。

 

そしてどちらかというと先程のような特別な人とみなされた芸能人、政治家、大学の先生みたいな人と比べて普通とみなされる人のことは庶民と言った方がいいのかもしれません。特別とみなされた人たちはそれぞれ知名度や収入、様々な決定権や影響力、高度な専門的知識を有していると考えられるから特別なのであり、そしてそれらを持たぬから庶民とか大衆は普通の人となるわけです。

 

一定した生活様式としての庶民

ここで庶民というものをどう考えるかは難しいのですが、とりあえずずっと昔から同じような生活様式のまま暮らしている人だと考えてみましょう。というのも、私はよく知らないのですが柳田國男が常民ということを言っています(とりあえず農地における定住民、とここでは思っておけばいいでしょうか)。そして柳田國男をひいてだと思いますが吉本隆明が大衆の原像ということも言っていたそうです。それは世の中がどれほど変わろうと自分たちの生活の在り方はさほど変化させることなく暮らしてきた人々のことを指すようです。こうした考え方にあるのはむしろ大衆というより庶民といった方が近いかもしれません。

 

歴史的現象としての大衆

では庶民と比べて大衆はどんなもんなのか、といいますと、前回もお話ししたような生産様式が変わることによって人々の生活の場も土地/田舎から生産地/都市へと変わり、その大移動によって現れてきた無数の人々のことだと考えればいいかと思います。つまり庶民は農民をひいた概念で、昨日と今日と明日がほとんど変わらないような安定した生活様式を持つ人々のことであり、大衆は歴史的に現れてきた、生まれ故郷の価値観から引き剥がされて都市に集められた根こぎされた人々の群れといえるかもしれません。あえて対比すれば庶民は共同体的な人間の現存であり、大衆は都市的な人間の現存といえるかもしれませんね。

 

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そして庶民も大衆もごっちゃになっていて、世界中でぐちゃぐちゃに混ざり合って暮らしているのだと思います。

 

 

関係あるお話

庶民がなんでしっかりした層として考えられているのかはこちら

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/04/200016

そんな庶民がなんで大衆に変わっていくかはこちら

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/07/200033

大衆についてはこれから続きで書いていますので、よければご覧になってみてください。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/25/190006

 

気になったら読んで欲しい本

柳田國男全集』 

柳田國男はありがたいことに文庫で全集が出ています。今のご時世珍しいことですね。ただ私は読んでいませんので、常民についてどこに書かれているのかはわかりません。柳田國男を全部目を通しておけば日本のことはとてもよくわかるかと思います。日本、日本とよく言われるのですから、きっと読んでる人も多いのでしょう。

吉本隆明全集』 

吉本隆明も亡くなってしばらくしてから全集が刊行されました。多分まだ続いているんじゃないかな。膨大な文量なのでどこに大衆の原像について書いてあるのかはちょっとわかりません。

オルテガ『大衆の反逆』 

で、おそらく大衆という問題について最初に取り組んで古典的な考察をしたのがオルテガです。これからこの本に書いてあることを記憶を呼び起こしながら書いていこうかと思っているので載せておきます。うまくいけばいいんですけどね。

ちなみになんでも柳田國男とほぼ同時代にあたるらしく、洋の東西を問わず同じ問題として新しく現れてきた人々の群れのことを考えたような気もしますね。

 

追記:ブックマークで、興味深いけど特になにも書いてない、とコメントいただきました。続きもので書いていますので、今回はこの程度なんです。多分この話がひと段落つくのは来月いっぱいくらいかかります。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/25/190006

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/23/190056

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お話その152(No.0152)