日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

大衆と慢心しきったおぼっちゃんと地方のお殿様と政治家 〜慢心する世襲議員と自らに多くを課すエリートの周流【柄谷行人『政治と思想』オルテガ『大衆の反逆』 】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/10/180046

 

慢心しきったおぼっちゃんとしての大衆と、地方のお殿様としての政治家 〜世襲と慢心

もし大衆というものが慢心しきったおぼっちゃんであり、努力より怠惰を選び、しかし当然の権利として自分の分前を主張して世の中は変わらず維持される(なんか並べて書くとますます嫌になりますね)と考えているのだとしたら、あまり重要な決定をするところにいないで欲しい気もしますが、実際どうなのかはそれぞれの現場にいる人によって判断された方がいいのかもしれません。

 

ただちょっとここで脱線してみて、違う人の言ってることと付き合わせて考えてもみましょうか。

 

お殿様としての現代政治家 〜柄谷行人の意見

柄谷行人が戦後政治についてインタビューを受けた本があるのですが、そこで面白いことを話していました。それは日本の政治家って選挙によって民主主義で選ばれてるように見えるけど、みな二世、三世、下手をすれば四世、五世なんかであって、世襲で政治家になってる。これは民主主義的というよりも封建的な状態と似ていて、いわば今の政治家はかつての藩のお殿様みたいなもんで、地元のお殿様が東京来て日本の政治をしているようなものだ、といったことを指摘されていました。

 

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言われてみればその通りで、政治家は選挙区で選ばれますから地元の支持者を固めていれば対立候補がいても選挙で勝てるわけですね。そして政治力を持って地元へと還元することによって支持者へと利益を与え、現役が引退しても後継者に子供を選ぶことによって支持母体と利益還元の関係性を壊すことなく続けられますし(多分)、それが有力政治家ともなって続けられれば地元では名家になり生まれながらのサラブレッド=お殿様みたいなものになるかもしれません。

 

おぼっちゃんとお殿様と政治 〜慢心はあるかないか

とりあえず柄谷行人の言うことをなるほどと聞くとして、その上でオルテガのいう慢心しきったおぼっちゃんという大衆の特徴とアナロジーで結びつけて考えてみましょう。すると日本の政治は世襲によって行われるお殿様(=おぼっちゃん)の営みに見えてくるような気もしてきます。

 

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しかしおぼっちゃんであっても慢心していなければいいわけです。オルテガが言うように自らに多くを要求し義務を課すような人物であれば別におぼっちゃんであっても大衆ではなく貴族/エリート(オルテガのいう選ばれた少数者)に当たるかもしれません(渡邉恒雄中曽根康弘と初めて会った時、いきなりカントの勉強会をしようと誘われたそうですけど)。また逆にそうしたおぼっちゃん性(二世、三世であること)を批判しながら、それだけでなにも学ばず政治家の席を奪いにくる人がいたとすれば、その人はおぼっちゃんという大衆性を批判しながらも、自らは多くを課さない大衆のままである可能性もあります。これは大衆が大衆を批判(というか、自分の利益のための攻撃?)して、場を奪い合ってるだけなのかもしれません。

 

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まぁオルテガも100年前のヨーロッパでこんなことを書いていたので、なにも日本だけが政治的に悪いんじゃなくて近代国家が成熟していくと世界中どこでも起こってくることなのかもしれませんが、本来みんなで自分たちのことを決めるはずの民主主義が、なんだか近代以前の政治の仕方に似てくるというのは不思議な気がしますね。

…脱線の話まで陰気になってしまいました。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/15/190041

 

気になったら読んで欲しい本

柄谷行人『政治と思想』 

柄谷行人が話していたインタビューはこれだったと思います。比較的短くて、インタビューなので読みやすい本です。たしかちくま学芸文庫でも再編集された形で出てたような気もするのですが、私が読んだのはこちらなので平凡社ライブラリーを載せておきます。たしか部分部分を読んで、結局全部読んだんじゃなかったかな。

 

ミヘルス『政党政治社会学』 

どんな政治制度でも最終的には寡頭制政治になる、と書いてあるので載せておきます。なにか政治についての解説書に載っていたので、ふと今回のお話を書いていて思い出したので載せてしまいました。他の出版社からも出ているようですが、私が持ってるのはこれなのでダイヤモンド社のものにしておきます。どうもこのダイヤモンド社から出ている、清水幾太郎という有名な社会学者が編集した現代思想というシリーズは、よそでは中々出さない渋い古典が入っているようです。

パレート『エリートの周流』 

またパレートという人は政治体制において少数者の支配であるエリートは避けられないものの、そのエリートを固定された階級から供給するのではなく広く階級を問わない形で供給することによってその社会は長続きする、というようなことを指摘していました。どうもパレートは読んでもすっと頭に入らないのですが、こうした指摘は今の世の中を考えていくためにも必要なものかもしれませんね。

オルテガ『大衆の反逆』 

で、オルテガの本。今見ると慢心しきったおぼっちゃんはわざわざ一つの章があてられています。オルテガにとって特筆するもののひとつだったのかもしれませんね。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/15/190041

前回の内容

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お話その164(No.0164)

幼児期の特徴である幼児的万能感を持つ大衆による幼児的支配 ~大衆は近代社会の支配者だが、その特徴の一つは子供のようなものであり、結果世界は子供が支配しているようなものになる【オルテガ『大衆の反逆』 】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/08/180021

 

大衆と幼児的支配 〜あたかも子供が支配しているようだ、ということらしい

目の前にある世界を当たり前と思えのは、むしろよくあることかもしれません。もしかしたらそうして当たり前と思っていた世界の姿を、細かい網の目のようにして成り立っていることに気づくことこそが成長であり成熟というものなのかもしれませんね。

 

子供らしい特徴としての大衆

そう考えてみますと、大衆のこうした態度は子供みたいなものだ、と捉えてみることも出来るかもしれません。当たり前ですが目の前の世界を子供の時点で深く見通して理解することはあまりないでしょう。もしあまりに早くにそうした体験を得れば、逆に病的な傾向を持ってしまう危険性もあるかもしれません。カント(やイギリス経験論)によれば人間の認識は経験に根差していなければ確たるものとはならないので、相対的かつ絶対的に経験の保有量が足りない子供や幼児では理性(積極的な思考能力)ばかりが暴走してしまう危険性があるやもしれません(ただし西洋哲学でいう経験は私たちのイメージするものと少し違います。人生経験などの意味ではなく、りんごを目の前で見て知る、ということを経験と呼び、頭の中だけでりんごのことを知ることと分けます。とてもややこしいです)。なんといっても子供、それも幼児であれば目の前のものが何かを知ることが大事です。ですからなになに期のようなものがあるのだと言えますね。そしてそれは当然のことで別段おかしなことではありません。

 

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大人であっても子供らしい特徴のままの大衆

しかし大人になってもなになに期のままでは困ってしまいますね。まぁ学校や職場などであれば周りから色々言われるでしょうから嫌でも矯正されていくかもしれません。しかし社会といった抽象的で今イチこの自分とどう関わっているのかわかりづらいものであれば、わからないままということはある可能性もあります。むしろそれもまた自然なことなのかもしれません。

 

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よくわからないのは仕方ないのかもしれませんが、そうしたよくわからない社会や世界についての説明がそれぞれの古典的な本に書かれているということも出来ます。ですが大衆は世界や社会は当たり前でなんの労力も払わずに維持できると考え、思想も自分の中で見つけたものだけで満足します。こんなめんどくさい本なんて読まないわけですね。

 

 

幼児支配的な大衆支配

しかしそれなのに、そのままで重要な場所に座ってしまう、そうしたことが現代の問題なのだとオルテガは言います。そしてこうした大衆の姿は幼児的であり、慢心しきったおぼっちゃんである、なんて言ったりもします。実に辛辣な言い方ですね。オルテガに言わせれば大衆支配の時代とは子供の支配する世界、とでもいうことになるのでしょうか。

 

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なんだか大衆について書いていると本当に陰気になっていきますね。今日は特にうまく書けなかった気がします。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/13/190033

 

気になったら読んで欲しい本

 

オルテガ『大衆の反逆』 

オルテガの本。オルテガは大衆について悲観的な観点で捉えていますので、とても辛辣で陰気な内容になっています。しかしその打開策は明確ではなく、ますます悲観的な気持ちになっていきます。

 

次回の内容

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お話その163(No.0163)

目の前の世界/社会を当たり前とみなし、大衆が恩恵を享受する意味の問題点 〜世界/社会の秩序とは不断の努力により維持されるも、そのための労力を大多数を占める大衆は支払わない【オルテガ『大衆の反逆』 】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/06/180040

 

当たり前の世界/社会と、食い尽くす大衆 〜世界/社会の維持に労力を払わない

大衆が自分の中にしか思想を認めない、言い方を変えればなにも学ぼうとしない、ということは前回見てみました。しかしそれゆえに大衆は目の前の世界に対してもあるひとつの見方を持つ、とオルテガは言います。

 

当たり前のものとしての世界/社会

それは大衆にとって目の前の世界(もしくは社会)というものは自然なものだ、ということです。自然、とはどういう意味でしょうか。この場合は当たり前に存在している、という意味になります。

 

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つまり大衆にとって目の前に存在している社会や世界というものはあって当たり前なのです。それがどういうことを意味するのか、といえば、なんの労力を支払うことなく今の状態が維持されている、と無自覚に捉えている、もしくは前提としていて疑わない、ということのようです。

 

不断の努力による建設と維持

これはなにを意味しているでしょうか。オルテガによれば、社会というものは常に不断の努力によって維持されている、といいます。社会秩序も経済体制も、それぞれの領域で多くの人が関わりながら発展したり衰退しているわけです。だからこそ時々刻々と変化していき、いつの間にか悪くなっていたり世の中が変わるような出来事が起こったりするわけですね。戦争が起こることもあれば、パソコンやスマホが出てきて便利になることもあります。これらはいきなりぽんと出てきたわけではなく、様々な人たちが交渉したり研究したりして生まれてきたわけです。それは私たちの目に見えていないかもしれませんが、必ず個々の人物が苦労して結果が現れているわけです(リチウムイオン電池もそうですね)。

 

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そして同時にそうして生み出されたものは平和であれ商品であれ、同じように様々な人によって維持されています。戦争が起こるのなら起こらないように外交努力したり交渉を続けたりと大変でしょうし、リチウムイオン電池が開発されたって作る人もいないといけませんし、そのための資金を調達する必要もありますし、それに従って新しい商品を作る人もいます。これらはそれぞれの人がそれぞれに努力して今あるものを維持したり発展させたりしているわけです。

 

目に見えない社会の背景と、享受するだけの大衆

こうした背景が私たちの生きている世界/社会には存在しているのですが、なかなかそれは目には見えてきません。それは世界/社会が大きく広がりすぎたため、全貌を捉えることが出来なくなったために仕方のないことなのかもしれません。

 

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しかしオルテガによれば大衆はこうして背景を一顧だにせず、当たり前に世界や社会が存在しているものだと考える、と言うのです。そのため現在の世界や社会を維持していくための労力も自らは払わない、享受するだけで放蕩のままに食い散らかす、といったようなことを言います(多分。細かいとこ忘れた)。

 

結果大衆が支配した社会は、社会の維持も放棄してしまう、と言います。オルテガ先生のいうことが本当に正しいかどうかはわかりませんが、身の回りを見ながら考えてみることも益のないことではないかもしれませんね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/10/180046

 

気になったら読んで欲しい本

 

オルテガ『大衆の反逆』 

オルテガの本。大衆という現象はまずこの本で整理されたと思われます。他にも色々出てくるのですが、大衆の問題点を一番深くえぐっているのはオルテガかもしれません。しかし単にケチをつけているだけでなく、現代社会の問題として真摯に向き合っているのは間違いないとも思えます。

 

次回の内容

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お話その162(No.0162)

指導者の条件や意味とは関係なく、自分に似た人であるがゆえに選ばれる大衆の代表としての指導者 ~選ばれた少数者(貴族/エリート)としてではなく大衆のまま自らに多くを課さない問題ある指導者【オルテガ『大衆の反逆』 】

 

前回のお話

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大衆と選ばれる者 〜私たち、という理由で選ばれる自らに多くを課さない指導者

選ばれた少数者 〜貴族・エリート

オルテガのいう選ばれた少数者というのは、翻訳にもよりますが貴族とかエリートとか呼ばれます。しかしそれが制度的な階級の中で貴族やエリートである必要はないわけですね。自ら進んで要求を課し困難へ向かうような人のことを指しているわけです。さんまは別に偉い学校出たわけでもありませんし、じゃあNSCで首席ならエリートなのかといえば、多分関係なく実力の世界でしょう(でもゆりあん主席だったらしいけど)。ロザン宇治原は京大出身のインテリ芸人ですが、だからといってさんまのように扱ってもらえるわけではないですしね。

 

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ともかくオルテガは選ばれた少数者についてはあまり説明してくれません。中心になるのは大衆の方です。そして大衆の描き方はとても豊かなのですが、その分私にうまく説明出来るか自信がありません。けど自分たちに引き寄せながらちょっと頑張ってみましょう。

 

私たち、という大衆

大衆とは世の中に満ちていて、自らになにも要求しない人々、とは前回までに書いたかと思います。それだけでなく、世に満ちている、つまり大多数であることによって自分たちが正しいと考えている、ともいいます。しかしその自分たちは具体的な誰を指すのかは不透明なままで、ただ私たち、というそれだけで正しいことを自分たちで認めてしまうそうです。昔たけしが漫才で言っていた、赤信号、みんなで渡れば怖くない、ってやつですね。みんな=私たちが一緒であることが正しい理由なのです。その中身が正しいかどうかは問題ではなくなっているわけですね。

 

自らに自閉する大衆の思想

そして大衆は思想というものも既に自分の中に持っているのだ、ともいいます。しかしそれはたとえばヘーゲルの思想とかダーウィンの思想とかいうものではありません。これは特筆される1人の人物によって築き上げられた思想です。いわば選ばれた少数者によって作り上げられた思想なわけですね。これは大抵アホみたいに難しいですが、そうした難しい思想を自分の中に取り入れるのもとても大変です。そうしたことが出来るのも、まぁオルテガ流に言えば選ばれた少数者のなせるものかもしれませんが、大衆はそんなことしません。では大衆は自らの思想をどこで得るのでしょうか。それは自分の中を探ってみて見つけた幾ばくかの思想らしきものを、自らの思想とするのだそうです。そしてそうした思想を完全なものとして外を見ないといいます。

 

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ちょっと引用してみましょう(幸い文面を見つけた)。

こうした人間は、まず自分の中にいくばくかの思想を見出す。そして、それらの思想に満足し、自分を知的に完全なものとみなすことに決めてしまう。彼は、自分の外にあるものになんらの必要性も感じないのであるから、自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまうことになる。これが自己の閉塞のメカニズムである。

(オルテガ『大衆の反逆』ちくま学芸文庫版)

 

まぁそうした人がいるのは当たり前かもしれませんね。むしろそこらへんにすぐいそうですし、私だって自分(特に過去の)を振り返れば当てはまることこの上ありません。しかし個人としてこうした特徴をもっているだけならば、ただパーソナリティの問題として扱われるだけで終えられるかもしれません。

 

選ばれた大衆人 〜自らに多くを課さない指導者

しかし、大衆の特徴はこれらのことだけではなく、世に満ちていること、そして本来なら選ばれた少数者が座っているべき場所にも座ってしまっていることです。それはさんまのように芸やTVの世界だけでなく、政治や他の世界でも同じです。

 

たとえばとある政治家は自分の人生経験でなんでもわかる、と言い学者の本を読むことは時間の無駄、とやりこめたそうです。その人の人生経験はもしかしたらとても素晴らしいものなのかもしれませんが、それで世界の全てを尽くせるわけでは、さすがにありません。経験というものは波線(〜/世界)の中から点(・/個人の接点)をとってきて繋げた線(…→ー/経験)みたいなもので、点を重ねていくら線を引いても個人的な線が引けるだけにしかならないのです。それはAさんもBさんも同じように自分の中に持っていて、主観的なものです。主観的なものだからその人にとっては特権的な価値を持ちますが(だから尊重してあげないといけない)、だからといって世界の全てを尽くせるわけではないのです。

 

それはさんまがいくら芸人・TVタレントとしてならびのない一流であっても、料理人でもなければ科学者でないのと同じことです(小林秀雄は宿命って言い方してたかな)。そしておそらくさんまはそうしたことをわかっているから、自分の世界から外には出ないのかもしれません。自分が人気者だからといってそのままその人気を利用して政治家になって権力を持とうとは考えず、自分がよく知り力を存分にふるえる世界=芸能界から出ませんし、それも笑いの中におさめてしまいます(ただたけしはそれをさんまの教養のなさで弱点かも、と最近新著で書いたらしい)。おそらく紳助が引退しても政界に出ないのも似た理由かと思いますが(少なくともサンデープロジェクトの前日に怯えて逃げるくらいに彼我の差を感じた)、しかしタレントとして名を知られた人(もしくはタレント的な手法で名を売った人)が最近はよく政治家になります。まるで政界がタレントの新天地かのようですが、そこには全く別の学ぶべき領域が存在する別世界であることを忘れているような気もします(けどよそ者がバラエティに来ると厳しい洗礼を与え、玩具とならない限り生き残らせない)。理由はなんでしょうか。オルテガ流に言えば、その人は選ばれた少数者として自らに多くを課さない大衆でしかないからだ、ということになるでしょうか。しかし逆説的にその人は大衆によって選ばれた少数者になるのでした。そしてそのように選ばれるためには大衆の支持をとりつけなければならず、それが大衆を焚きつけることにしかならないのだとすれば、その人は選ばれた指導者=先導者であるはずなのに、煽動者(/先導者)にしかなっていないのかもしれませんね。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

 

それにいくら自らに多く課しても限界というものがあります。たとえカントが歴史上最高峰の哲学者だったとしても、同時にニュートン力学を生み出すことはありません。それでもカントは天文学者としてラプラスに先駆け星雲説を唱え名を残したそうですが、それはカントが専門以外のことであっても貪欲に学んだからであり、自分に多くを課したからですね。それと比べてみるならば今日の政治家は自分の経験だけで未知の世界のことを学ばなくても平気だと思っている人がいることになります(そうじゃない人もたくさんいると思いたい)。そのくせ人には自分のやってることをよく知らない、勉強不足だ、というのは、大衆の思想が自分のことだとすれば、ただ相手に向かって自分のことをよく知らないからもっとよく知るようにしろ、といっていることだけなのかもしれません。いわば自己愛を相手に押し付けているようなものでしょうか。

 

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話をもとに戻すと、学者の本といってもただ現代の学者が書いた本のことを指すわけではなく、現代の学者が土台としなければならない各分野の古典も当然含まれてしまいます。世界とは未知な領域を混沌としたものから、人の理解出来るように整理していったものです。私たちは世界を生の世界のまま理解するのではありません。誰かが整理した世界の姿から、世界を理解するのです(だから科学の進歩は人間の認識の進歩でもあるわけですね)。そのような理解しか人間の精神は出来ない仕組みのようです(それこそカント読んでみてね)。そうした整理を思想とか学問とかいう領域で行い、その成果を踏まえた上で世界の問題に対処していくしかないのです。それを行わないで自らの経験だけで理解でき対処出来ると考えるのは、目隠ししたまま裸で森の中を行くようなものです。しかしそうしたものを読むのはとても大変なことで、やっぱり自らへと課すものが多くなります。それをする必要がないと判断し、必要な要求を自らに課さない、ということは、つまりオルテガの言うような大衆人が、重要な政治指導者として存在しているわけです。

 

そしてそうした大衆人である政治指導者を、他の大衆たちは〝私たち〟として同じ者の代表として選挙で選んでいるわけです。

 

…なんだか自分で書いてて嫌になってきました。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/08/180021

 

気になったら読んで欲しい本

オルテガ『大衆の反逆』 

世界の名著はマンハイムの『イデオロギーユートピア』と一緒になって収録されているのですが、オルテガの本が大衆論ならマンハイムの本はエリート論でもあります。正確には知識人論なんですが、オルテガの文脈から読めばオルテガがあまり説明しなかった選ばれた少数者について書いてあると考えてみるのもいいかもしれません。お得なセットですね。

ただマンハイムの知識人論はマルクス主義ブルジョアとプロレタリアという対立する二つの階級に対して第三の階級として、どちらにも属さない浮遊する知識人層というものを対置させるもので、直接オルテガのいう貴族やエリートと重なるものではありません。マンハイムは昔ルカーチという西欧マルクス主義の超大物と同窓だったらしく、マルクス主義ルカーチへの思想的対決としてこうした考えを生み出したそうです(たしかどこかの解説にそう書いてあったような気が)。全然違うアプローチですが、参考になるかもしれませんね。

カント『純粋理性批判』 

カントの本。くそ難しいのですが、間違いなく西洋哲学史上最高の一冊です。光文社古典新訳文庫はかなりわかりやすいらしいというので載せてみました。私は他で読みました。

この本が重要なのは、人間がどうやって物事を理解するのかということを論理的(哲学的)に説明しきったことです。なぜ私たちが経験からしか精神になにかを得ることが出来ないのか、しかしどうして思考能力は経験を超えた問題を考えてしまうのか、ということを感性・悟性・理性という段階を経て書いてあります(この訳では悟性じゃなくて知性になってるらしいけど)。

ここから人間の精神は経験を超えたことに関しては確証を得ることが出来ないから、経験的世界のことだけに限れ、というわけで科学を基礎付けたとも言われます。しかし同時に私たちは物の現象しか理解できず物自体は理解できないということも書いてあり、人間の持つ認識能力をかなり限定していることもわかります。

とにかく難しいので私には説明出来ませんが、興味があれば読んでみるのもいいかもしれません。おそらく一生ものの読書になると思います。

 

ニュートン『プリンキピア』 

カントが哲学上不朽の業績をあげたとしたら、科学における不朽の業績はニュートンです。言うまでもなくどちらも偉人で頭がいいわけですが、だからといって1人の人間に両方の本を書かせるわけにはいきませんでした。賢いということが、いくら歴史的な水準で高くとも、1人で出来ることは限りがある、ということをカントとニュートンを読み比べて考えてみるのも面白いかもしれません。

カントは読みましたが、ニュートンはいくらなんでも私の力が及びませんので読んでいません。1人で両方読むということも相当大変なことだと思います。

吉本隆明糸井重里悪人正機』 

自分の領域から出ない、ということが結構すごいことだ、とはこの本の中で吉本隆明が言っていたことです。ここではタモリをそういう人として考えていますが、同じようにさんまにも当てはまる面があるように感じられたので上でも書いてしまいました。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/08/180021

前回の内容

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お話その161(No.0161)

【まとめ】戦争とイメージ ~戦争と物語/アニメの関係と文学の抵抗【31】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

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まとめ31

このまとめの要旨

消費社会になってイメージ上位の世の中になった時、戦争も含めてイメージ上位になっちゃったようにも見えるけど、そんなことと関係しそうなお話のまとめ。

 

書いたものの一覧

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9.11の際飛行機がツインタワーに突っ込んだ様子がどうしても映画のワンシーンのように見えてしまい、現実も映画のように推移するのではないかという期待をどこかでもってしまっていたのではないか、という批評家の分析の紹介、ーというようなお話。

 

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現実がこのようにイメージ化してしまうことに対し、フィクションの方でもどのようにしてそんな現実に対抗しているのかな、ーというようなお話。

 

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日本が参加した戦争を『ガンダム』を例にして、初代をとりあえず太平洋戦争と結びつけて、じゃあイラン・イラク戦争の時の『ガンダム』はどう違ったのかな、ーというようなお話。

 

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その中でキャラクターの描き方がどう違っていたのかな、ーというようなお話。

 

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そして具体的な描き方と類型的な描き方との違いがあるかもね、ーというようなお話。

 

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で、戦時中に文学者たちがどんな形で戦時協力を無視することによって抵抗していたか、ーというようなお話。

 

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