日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

アキレスと亀(ゼノンのパラドックス) 〜いくら足が速くてもアキレスは亀に追いつけ ない?

 

アキレスと亀のパラドックス

理屈によってややこしくなりわからなくなる

玉ねぎの使い方が無数にあるのではなく、玉ねぎの使い方は料理にあるのであって、料理のバリエーションが無数にある、ということになりました。つまり玉ねぎの使い方は作った人にとって一つなわけです。

 

考えてみれば当たり前のことですね。でも案外関係のないことでは気づかなかったり誤魔化されたりしてしまうかもしれません。

 

ゼノンのパラドックスのお話

ちょっとここで有名な例を出してみましょう。

 

昔々、ギリシアにゼノンという哲学者がいました。この人はとても有名な「ゼノンのパラドックス」というものを考案したことで歴史に残っています。

 

それはどのようなものかといえば、アキレスという当時有名なとても足の速い人がいました。誰もこの人と一緒に走っても勝てません。

 

しかしゼノンは、いやアキレスは亀と競争しても亀を抜けない、と議論をふっかけました。

 

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どういうことでしょうか。

 

いくら足が早くてもアキレスは亀を追い抜かない?

まず亀がアキレスより少し先にいることにします。アキレスは足が速いから、遅い亀に対するハンデですね。そこでヨーイどん、と一緒にスタートします。すると普通ならば足の速いアキレスはすぐに亀を抜いてしまいます。これが実際というものでしょう。

 

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そこにゼノン先生は異を唱えます。いや、アキレスが亀のいる場所まで走ったら、亀はその時間の間にほんの少しだけ先に進んでいる。

 

またアキレスがその先にいる亀の場所まで走ったら、亀はさらに先へ進んでいる。

 

そしてまたアキレスが亀の場所まで走れば、またまた亀は先に進んでる。これは永遠に繰り返され、アキレスは亀を抜かすことができない。

 

こういうわけです。

 

【『ソクラテス以前哲学者断片集』/アリストテレス『形而上学』/ディオゲネス・ラエラティオス『ギリシア哲学者列伝』】
アリストテレス 形而上学 上 (岩波文庫)

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(たしかゼノンの議論についてはアリストテレスが批判的に書いていたと思うのですが、どこに書いてあったかは忘れました。多分この中のどれかだと思います)

 

アキレスと亀の競争の図解例

つまりアキレスをA、亀をBとしたら

 

  スタート時         AーーB

  時間1                    →→A→→B

  時間2                   →→→→→A→→B

  時間3                  →→→→→→→→A→→B 

 

となっている、と主張するわけですね。

ですが実際には

 

  時間1                  2                  3

          A→→→→→→→→→→→

                              B→→→

 

ぐらいになって、明らかにアキレスが勝つわけです。

 

これはゼノン先生、無茶苦茶な説明です、だって実際には間違いなく足の速いアキレスは亀を抜かしてしまうんですから。

 

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もしかしてゼノン先生、有名らしいけど、実はアホ? あんまりわけのわからないこと言ったもんだから歴史に残ったのでしょうか。

 

それがそういうわけでもなさそうなのでした。 

 

【山川偉也『ゼノン 4つの逆理 アキレスはなぜ亀に追いつけないか』】

(なんと、調べてみたらこんなおあつらえむきな本が出てました。こりゃ便利。私もそのうち読もうっと)

 

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お話その10(No.0010)

製作者の求める使い方と、想定される使い方 ~ひとつの道具/素材と可能性としての使用【おもしろい哲学】

 

色々な使い方とみんなひっくるめた使い方 〜玉ねぎは炒飯、カレー、スープ、丸焼き?

作り手の使い方は絶対的か?

カナヅチや玉ねぎの使い方であれば、作った人の決めたことに従っていてもいいかもしれません。たしかにカナヅチで人を叩いてはいけませんし、壁を叩いてもいけません。ちゃんと釘を打って欲しいところです。

 

ですが、玉ねぎはどうでしょう。玉ねぎの使い方って、炒飯かカレーですむものでしょうか。スープにいれてもいいですし、丸焼きにしたっていい気もします(XはAである Bである Cである Dである…)。

 

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となると玉ねぎの使い方って、作った人によってどう決められるんでしょうか。まさか炒飯には入れてカレーには入れるなとは言わないでしょう。

 

限定されていると思われる作り手の使い方

まぁ、逆ならあるかもしれません。うちの玉ねぎは水分が多いので炒飯に入れるとパラパラになりませんよ、とか(XはAに適していない よってXはAではない と Pは意味づける)。ですがそれでも栄養が欲しいから私は炒飯に玉ねぎ入れるんです、と使う側が決めたら、別に作った人は文句言わないでしょう(製作者PはXをAとしない が 使用者UはXをAとする この時UはPの意味づけと関係なくAとして使用できる)。この場合玉ねぎの使い方は作った人じゃなくて使う人にゆだねられているわけですね。

 

じゃあカナヅチではなぜダメなのか。

 

前にも少し考えたかもしれません。そう、たしか釘を打つことと人を叩くことが同じ価値ではない、と考えた気がします(XはAである と XはBである は等価ではない)。『カナヅチで釘を打つ、それとも…』でそんなこと書きましたね。玉ねぎの場合は逆で、炒飯に入れるかカレーに入れるかは同じ程度の価値だ、と考えたのでした(XはAである と XはBである は等価である)。

 

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作り手による使い方の想定は網羅されない

となると、玉ねぎは作った人が決める意味づけは沢山あるということになるのでしょうか。炒飯、カレー、スープ、丸焼きなどなど。これらがずらずらと並び、そのどれもが作った人の決めた使い方ということになるのでしょうか。

 

これもナンセンスな気がしますね。だって玉ねぎ農家の人は玉ねぎ料理のレシピを全て知っているわけではないからです(PはX(A B C…)を網羅しない)。そりゃ私たちよりはくわしいでしょう。でも料理人以上にくわしいとは考えにくいですね。また日本や有名な国の玉ねぎ料理は知ってても、聞いたこともない国の民族料理なんてまず知らないでしょう。有名でもインドの地方の郷土料理で使われる玉ねぎ、なんて、食文化を専門とする学者にでも聞かないときっと知らないと思います。

  

 

そうすると作った人の決める(もしくは想定する、でしょうか)玉ねぎの使い方というのは、個別的には知らなくていい、ということになります(PはXの意味づけA B C…に対して未知である)。これから作られる玉ねぎの創作料理なんてのも含めたら知りようもないですしね。

 

作り手が想定するのは大まかな使い方?

じゃあ玉ねぎを作った人の決める使い方とは一体なんでしょうか。

 

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そりゃ簡単ですね。料理に使って欲しいわけです。つまり玉ねぎの使い方は料理であって、その中に炒飯やカレーにスープと丸焼きも含まれているわけです(PにとってXはA B C… でなく A B C…を含むIである 即ち X I(A B C…)である)。個別的な使い方というのは、一つのもっと大きな枠組みの中で細分化されたものだ、ということになるのですね。

 

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お話その9(No.0009)

【まとめ】数学と科学の関係と歴史 ~数学によって理解される自然世界【13】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

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まとめ13 数学と科学の関係と歴史 ~数学によって理解される自然世界

このまとめの要旨

世界を本質的に捉えるためには数学がもっとも効果があって、その対象は自然世界に限られていたけれどあまりに大成功したために他の分野、すべてを含めて数学化して理解していこうとした、というようなお話のまとめ。

 

書いたものの一覧

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www.waka-rukana.com

世界を本質的に理解するためには数学を利用することが最もうまくいっていて、ではそのもともとはどこからくるのかな、ーというようなお話。

 

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数学による世界の本質的理解っていのはそうはいってもすべてにおいて行われるわけではなくて、とにかく自然世界において圧倒的に成功しました、ーというようなお話。

 

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あまりに数学による世界理解が自然世界において成功したので、他の分野、文学なんかでも同じようにして捉えてみましょう、とためしてみた、ーというようなお話。

 

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リスト(独 1789-1846)本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

フリードリッヒ・リスト(List, Friedrich)

 

 

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 経済論(李氏)(上下 サムプソン・エス・ローイド 訳, 大島貞益 重訳. 日本経済会, 明22)

国民経済学体系(谷口吉彦, 正木一夫 訳. 改造社, 昭13 → 改造文庫 上下 上 改造社, 昭和15 下 改造社, 昭和15  / 『政治経済学の国民的体系 』春秋社古典経済学叢書 正木一夫 訳. 春秋社, 1949 → 再販 春秋社, 1950 → 上下巻 勁草書房, 1965-1966 上巻 勁草書房, 1965 下巻  勁草書房, 1966 / 小林昇 訳. 岩波書店, 1970① )

ドイツ人の政治的経済的国民統一 : 政治経済学上の遺書(改造文庫 正木一夫 訳. 改造社, 1941

アメリカ経済学綱要 (改造文庫 正木一夫 訳. 改造社, 1942 → 未来社, 1966)

独逸語経済学教材(江草四郎 編. 有斐閣, 昭和17)

農地制度・零細経営および国外移住 (世界古典文庫 小林昇 訳. 日本評論社, 1949岩波書店, 1974① )

ドイツ統一論正木一夫 訳. 関書院出版, 1958

 

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価値とは製作者に従うものか ~作り手によって道具の使い方は決定される?【おもしろい哲学】

 

価値は従うものなのだろうか  〜作った人が認めるカナヅチの使い方

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 ◯◯してはいけない、という意味づけ

カナヅチを人を叩く道具と捉えてしまうのは困ったものです。ですからカナヅチは人を叩いてはいけません(XはBではない)、と定めてしまってもいいかもしれませんね。となるとカナヅチは人を叩くものではない、というように意味づけられるわけです(Xは-Bである)。

 

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これは見返してみると、今までとちょっと違う意味づけの仕方ですね。今まではカナヅチとは釘を打つ道具である(XはAである)、とか、人を叩く道具である(XはBである)、なんて意味づけられていました。玉ねぎでも思い返してみましょう。炒飯に入れるかカレーに入れるか(XはAかBである)が意味づけの違いでしたね。

 

 

 

これらは◯◯である、という形での意味づけでした。しかし今度は◯◯ではない、という意味づけの仕方になっています。つまり同じ物であっても、使われることに意味がある場合と、使ってはいけないことによって意味がある場合とにわかれているわけですね。使い道だけでものの価値を決めてはいけないわけです。

 

使い方は最初から決められている?

考えてみれば当たり前です。どんな商品を買っても説明書にはこのような使い方をしないでください、と書いてあります。禁止事項が決められているわけですね。それを守らず使用すると、壊れたり売ってる側でも責任は取れませんよ、と一線を引いているわけです(XはAであり、A以外として使用すればXを保証しない)。その線の内側が正しい、越えてしまうと正しくない、と提供側では決めている、ということになるでしょうか。だとすると道具の正しい使い方というのは、与える人によって決められていて、それにはずれると間違っているのかもしれません(提供者PはXをAとして認め Bとしては認めない よってAが正しい)。

 

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そう考えるとゲームの中でカナヅチを使ってゾンビを叩いてもどこもおかしくないですね。だってゲームを作っている人は、カナヅチをゲームの中でゾンビを叩くものとして提供しているわけです。ですからコントローラーを握る私たちはなんの気兼ねもなくカナヅチでゾンビをぶっ叩いてもかまわないわけです。

  

 

かわりにホームセンターで売っているカナヅチは、カナヅチ屋さん(って、あるんでしょうか)が釘を打つのに使うのが正しくて、人を叩くことなんて認めていないから間違っている、ということになります。

 

作り手によって使い方は決められている?

こう考えると少し気が楽になりますね。つまり作り手が正しいかどうかを決めているわけです。それに従えばよくって、従わなければ間違っているわけです(XはPによりAと意味づけられる よってPに従うことが正しい)。

 

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しかし、本当にそうなのでしょうか。実は面倒だからとやけに厳しく禁止していることってないでしょうか。他にも自分に都合がいいから認めているっていうこともないんでしょうか。

 

なんか沢山ありそうですね。

 

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お話その8(No.0008)