日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

社会を描くことの困難と表現における娯楽と芸術 ~社会表現における純文学と通俗小説の微妙な関係と正統性の錯覚

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.08

 

社会を描こうとすることと通俗性? 〜問題も難しいがエンターテイメントになりすぎてもしまうものなのだろうか?

社会を丸ごと描くことなど可能なの?

社会を丸ごと表現出来れば、確かに具体的なものとなる諸関係を描ききることも可能な気がしますね。でも我々の生きている現実の社会も全貌を捉えることは困難極まる(もしかしたら不可能?)かもしれないのに、作家=個人で社会すべてを捉えるだけでなく表現することなど可能なことなのでしょうか。

 

社会表現と純文学と通俗小説

この辺りは難しい問題ですね。そのためバルザックの偉大さは偉大さとして、その後を追ったゾラやドストエフスキーといったこれまた偉大な作家たちののち、こうした社会を描こうとする作品はどちらかといえば純文学というよりミステリみたいな娯楽作品の方が扱っている様子です(ミステリが社会を描くのは犯罪を描くためにはその社会背景や階級性を含めなくてはいけないから、なんてどこかで読んだ覚えもあります)。

 

【クラカウアー『探偵小説の哲学』】 

(ミステリ=探偵小説が世に現れたころの分析らしいんですが、関係ありそうなので載せてみました。私は読んでいません)

 

f:id:waka-rukana:20200806205803j:plain

 

またドストエフスキーなんて通俗作家だ、なんてことを久米正雄という昔の作家が言ったそうですし、なんでもナボコフも同じようなことを書いたそうです。ゾラなんかも蓮實重彦はドレフェス事件があったから有名なだけ、とか、バルザックも山形浩生が元祖大衆小説で面白い、とか書いていたような気もします。

 

【小谷野敦『久米正雄伝』/ナボコフ『ナボコフのロシア文学講義』】 

(久米正雄の話は小谷野敦の本で知りました。この本は読んでませんが他でよくこの話題を書かれています。おあつらえむきな評伝もありますので載せておきます。またナボコフはこの本でドストエフスキーをこきおろしたそうです。こちらもまだ読んでません)

 

 

 

ドストエフスキーの世界性 | DSJ Journal | DSJ Official website

(こんなところにロシア文学者同士の面白い対談が。最後の方で高村薫がなにかとてつもないものになっている、と話されてますが、その高村薫も最初はミステリ作家でしたので、案外バルザック→ドストエフスキー→ミステリ/犯罪小説→???…という流れにもなっているのでしょうか)

 

純文学作家と通俗作家?

しかしバルザックやドストエフスキーが通俗作家なんて言われたら困ってしまいますね。じゃ、なにが純文学なんじゃい、と頭がこんがらがってしまいます。ただ上のリンク先に述べられているように、確かにドストエフスキーは娼婦と殺人者と聖書みたいなメロドラマ顔負けの組み合わせで小説書くような真似をしていますので、そうした非難もしようと思えば出来ないこともないようです(なるほど)。

 

【ドストエフスキー『罪と罰』】 

(ナボコフが批判した組み合わせの小説はこちら。でもリンク先で沼野先生が、そんなところから力を引き出すのがドストエフスキーの凄さ、とも述べられていて、それもなるほどぉ〜と思ってしまう私なのでした)

 

f:id:waka-rukana:20200810004927j:plain

 

エンターテイメントの元ネタと正統性の錯覚問題

まぁドストエフスキーたちが通俗作家なのかどうかはこの際どうでもいいのです。そんな難しいこと私には対処できません。ただ社会そのものを描こうとしても、どことなく通俗作品=娯楽作品/エンターテイメントのようになってしまう、ということはあるのかもしれませんね。特に昔ならともかく、今は文学の権威は地に落ち他の娯楽分野が先行世代でもあった文学からネタを使いまくっている状況です。そうなってくるとせっかくの文学作品も、ウケたヒット作の元ネタのようにしか見えなくなってくる側面もあるのかもしれません。TVでフジモンやザキヤマが他人のネタパクリまくっているうちに、元ネタの人の方がフジモンやザキヤマをパクってると思われるものでしょうか。

 

f:id:waka-rukana:20200807165900p:plain

 

【宮下あきら『魁!!男塾』】 

(そういや『男塾』の初期でも『白鯨』をネタにした回あったなあ)

 

社会と通俗作品と具体的なものとからっぽなもののゆくえ

しかしでは社会を作品の中で描くと娯楽ものになってしまうとすれば、それはからっぽなものである構造/類型的なものと近寄ってしまうのでしょうか。それでは社会を通して具体的なものを捉えようとした意気込みはどこへいってしまうのでしょう。またなんで具体的なものを捉えるための社会との対決が娯楽っぽくなったりするのでしょうか。

 

なんだか不思議なことばかりです。

 

ちょっと長くなったし疲れてきたのでこの辺りで仕切り直すことにします。また次回〜。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.15

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

お話その215(No.0215)

私の存在意義となる表現と諸関係の織物となる意味 ~世界の中の自分を表現する作品世界の密度としての架空世界と現実社会の模倣世界

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.06

 

がんじがらめに絡めとられた諸関係と作品世界 ~〝私〟はいったいどこに存在しているの?

具体的なもの=諸関係の束の中心みたいな作品?

からっぽ=構造/類型的な作品に対し、具体的なもの=諸関係の束の中心たる実存、なんて対比を行ってみましたが、そうしたものの作品化といえばどのようなものでしょうか。

 

【ハイデガー『存在と時間』】 

がんじがらめに絡めとられた諸関係と、その表現

それはがんじがらめに絡めとられた諸関係そのものを表現するものになりますね。しかしそんな関係、中々自覚して取り出すことなど出来ないような気もします。少なくともとても難しそうな予感がします。

 

f:id:waka-rukana:20200807155013j:plain

 

いちから創られた作品世界とは?

もしそうした作品をいちから創り上げていこうとすれば、作品世界そのものをいちから創り上げなくてはいけないかもしれません。そんなこと可能なのでしょうか。

 

f:id:waka-rukana:20200812001522j:plain

 

トールキンと架空世界

しかし一応そうした例はないわけではありません。昔、映画化されて再度有名になった『指輪物語』という作品がありますが、これはオックスフォード大学で中世を専門とする学者だったトールキンが、その学知を傾けて創作した〝中つ国〟という架空世界が舞台となっています。しかしトールキンの作品は確かにいちから世界を創り上げたようなものですが、普通ファンタジーとして判断されます。〝この私〟を取り巻く諸関係を、世界をいちから創り上げてから作品化したからといって実存的な作品になるわけではないわけですね。

 

【トールキン『指輪物語』】 

バルザックと現実のフランス社会

他にも元祖小説とでも言えるかもしれないバルザックの作品群があります。これは当時のフランスを舞台としていて、そこに登場する膨大な登場人物が絡み合うとんでもない作品です。ひとくくりに『人間喜劇』と呼ばれますが、それは19世紀フランスという社会そのものを描こうとした壮大な作品です。そして社会そのものを丸ごと描こうとしたことにより、社会=諸関係の絡まりを作品の中にも埋め込まれることになりました。

 

【バルザック『従妹ベット』】 

(『人間喜劇』の中の大傑作のひとつ。もちろん私は『人間喜劇』すべてを読んではいません)

ファンタジー的架空世界と現実社会の模倣世界

こうなってくると世界をいちから創り上げるということもファンタジー的な虚構とは少し今が異なってきそうです。ファンタジー世界は架空の世界ですが、バルザックの世界は現実のフランスの模倣でもあります。模倣、と書くとなんとなく大したことなさそうな気もしてきますが、そもそも社会自体がどんなもんか人間に十分理解できているのかもわかりません。そんな社会を創作の中で模倣しようとすることは、私たちの生きているこの世界を模倣しようとしていることに他ならず、また全貌を捉えることすら叶わぬかもしれぬ対象をなんとかしてひとつかみにしようとしていることかもしれません。つまり作家という個人によって、可能な限り世界を認識しようという試みなのかもしれませんね。そしてそうやってつかもうとした世界の姿は、個人の中でひとつの世界を創り上げていくことと似てくるかもしれません。

 

f:id:waka-rukana:20200808005619j:plain

 

こうした社会=世界との格闘を個人=作家の手で行うことも、ひとつの具体的なものとしての作品になるのかもしれませんね。

 

….また話がズレていってしまった。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.13

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

お話その214(No.0214)

私の居場所の存在しない表層的な理解を示す構造/類型的世界 ~フィクションにおける表現のパターン認識から転用された現実認識より行われる人間に対する類型的理解による無理解と無神経な人の態度

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.01

 

〝私〟の在り方と構造/類型的世界 ~苦しむのはこの私だから?

構造や類型的でない具体的な作品?

からっぽなものではない具体的なものに満ちた作品とはどのようなものでしょうか。なかなか話が先に進みませんが今回も続けてみましょう。

 

からっぽなもので出来た作品とは、前回も少しだけ書いてみたように構造や類型で出来上がった作品、ということになります。これらはその構造や類型が維持されたまま上辺だけ変えれば新しい作品になる、そういうものですね。代わりに展開や人物も予想されやすく安心して読み進めることが出来る作品です。

 

【プロップ『昔話の形態学』/東浩紀『動物化するポストモダン』】 

ではこうしたからっぽ=構造や類型ではないものとはなんでしょうか。それは具体的に存在してしまっている私たちそれぞれの在り方だ、ということも出来るかと思います。

 

f:id:waka-rukana:20200810004927j:plain

 

いじめとその構造/類型的現象

たとえばある人がいじめられているとします。そのいじめられ方が専門のケースワーカーなどから見れば典型的なやり方でなされたものと映るとします。するとその人がいじめられていることはありきたりな構造的な現象であるかもしれません。

 

【山口昌男『いじめの記号論』】 

(こんなタイトルの本もある。けどあまりいじめとは関係ないかな。私はこの元となった新書版で読んだことがあります)

 

またそのいじめられ方は他人から見ればつまらないもので、もっとはっきり意思表示をしめせ、とか、そんなことじゃこれからやっていけないぞ、とか言われるものかもしれません。しかしいじめられている当の本人である人にはそんな簡単には割り切って対処出来るものとは受け止められません。

 

唯一無二の〝この私〟に起こってくる出来事

これは何故かといいますと、そこで起こっている出来事や現象はいくら構造的/類型的なものであっても、いじめられているこの私には唯一無二の出来事や現象であり、外から見れば単純に思える事柄も当の本人を中心として複雑な諸関係によって成り立っているからこうなるわけです。

 

【柄谷行人『探究2』】 

(柄谷行人が他者と共に考えた単独者という考え方がありますが、それこそ〝この私〟を意味するもののような気もします)

 

問題の起こる現象 〜構造の拡大と縮小

たとえばその人をいじめているのがクラスの親分であって、ある有力な家柄の子供だとします。しかしそんな相手にいじめているということを発言出来ないとします。その背景を知らなければ簡単に意思表示をしめせと言うことも可能です。しかしもしその通りに意思表示をしめせば、有力者と関係ある人々がいじめられている当の本人を有力者の子供を貶めようとしている、と非難されることもあります。

 

f:id:waka-rukana:20200806205105j:plain

 

また教師等にいじめっこのことを実名をあげて告発することもあるかもしれません。しかし教師の側で有力者に配慮してその告発を握り潰すこともないわけではありません。

 

さらにまたこれがいじめとしての出来事である、と自分と無関係として切り離していても、同じように大人の世界で有力者そのものからいじめられてしまうこともあります。特に権利や経済関係を踏まえれば容易に起こってきます。こう捉えてみるならば、子供の世界で起こっているいじめと大人の世界で起こってくる利害闘争の問題は、似たような問題構造を有していると考えることも出来るかもしれません。そしてこの時いじめであろうが利害闘争であろうが構造的なものとして現れてきたとしても、その中で問題の焦点となってしまった当の本人にとっては耐えられないような具体的な問題=苦しみとなってきます。そしてこうした利害関係に巻き込まれた時、いじめられっこに対して発言したのと同じようにして自分に言い聞かせか問題解決に乗り出す人はまれでしょう。それは子供の世界のいじめに対しては構造/類型的に捉えているのに対し、自分の周りで起こってしまった出来事に対して具体的なものとして捉えるからです(もし自分に起こってきたこうした問題を他人事=客観的に捉えて対処していける人は大変偉いと思います)。

 

【阿部和重『シンセミア』】 

(複雑に絡み合う人間関係と権力構造が描かれている名作小説。つまらないちょっとした出来事と街を覆う歴史的な蓄積が交差してぐっちゃぐちゃ)

 

 

 

諸関係の束と問題=苦しみ

そしてこの問題=苦しみはどこから生まれてくるのか、といえば、自分を中心とした諸関係の束から起こってくるわけです。そしてこの諸関係の束は文字通り絡まった糸束のようにこんがらがっていてその都度その都度解きほぐしていかなければならないものとしてあります(有力者を説得するだけでなく、その利害関係を見抜いて把握し、そもそもその利害関係から自分が狙われないように位置を移動するだけでなく、また新たな利害関係において標的とされないように利害関係が起こってくる関係性を調整し続け、また有力者周辺の関係者からも悪影響を与えられないから観察する、などといった多様な対応を終わることなく続けなければいけない)。

 

f:id:waka-rukana:20200808011149j:plain

 

実存としての具体性

こうした諸関係の束は構造や類型によって還元することは出来ません。その起こってくる出来事や現象は構造的であったり類型的であったりするかもしれませんが、起こってしまった出来事や現象はその都度違う具体性に満たされてしまっています。いわば万華鏡のようなもので、そこにあるものは同じものでしかないのに、そこに映ってくる光景はひとつとして同じものはないわけです。そしてこうした具体的なものを解決していくということは大変な労力と徒労と思われるほどの根気のいる長い時間が必要となってしまいます。

 

【ハイデガー『存在と時間』】 

(実存主義の原点。でもハイデガーは自分はそんなもんと違うぞ、と言ったとかなんとか)

 

こうした具体的な諸関係の束の中心としてのこの私としての在り方を実存と読んでみるならば、からっぽな作品が構造/類型的な作品とすると具体的な作品は実存的な作品となるのかもしれませんね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.08

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

お話その213(No.0213)

【まとめ】フィクション(表現、創作)におけるからっぽなものと具体的なもの【51】

 

現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。

 

f:id:waka-rukana:20200729165757j:plain

まとめ51 フィクション(表現、創作)におけるからっぽなものと具体的なもの

このまとめの要旨

自我の投影先としてのからっぽなものと、逆に具体的なものとしての作品の在り方について書いてみたもののまとめ。なんだか自我と作品との話がごちゃごちゃしてるかも?

 

書いたものの一覧

f:id:waka-rukana:20200729164637j:plain

www.waka-rukana.com

からっぽなものが具体性を欠いた存在であるがゆえに、自我の投影先としては喜ばれる、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

からっぽな存在は記号論でいうゼロ記号っていうものと似ているのかもしれないね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

幼児が常に抱いているようなぬいぐるみのようなものを移行対象と呼び、成長に必要なある段階だ、と考えたそうだけど、からっぽなものの役に立つ様子はそれと似たようなものかな、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

でもそもそもからっぽなものって日本の文化の在り方と似ているのかもしれないね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

そして日本の文化として世界に届くのもは、案外こうしたからっぽなものを日本的と思われて喜ばれているのかもしれないね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

からっぽなものばかりが作品じゃないけど、じゃあ新しく書くものが残されているのかといえば残されてないのだから、すでにあるものを組み合わせて新しくしちゃおう、という考え方もあるみたい、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

からっぽなものと反対の具体的なものって、この私が感じて逃れられないようなものかもしれなくって、それって構造的でも類型的でもないよね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

でもそんな私ってどこにいるの、と思いつつ、でもそんな私はまず社会に絡めとられて存在してるはず、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

じゃあ社会そのものを描こうとするととても難しくなって大変で、なかなか成功しないようですね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

そもそも社会ってよくわからないかもしれないのにどうやって捉えたらいいんだろう、と思い返してみれば、この私はそんな社会に絡めとられているんだから、自分を題材にしてみればいいのかもね、ーというようなお話。

 

www.waka-rukana.com

かといってただ私が苦しいんだよぉ、と叫んなからって表現になるわけではなく、自分の中の社会との関係と格闘する様子こそ表現になるのかもしれないね、ーというようなお話。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 PVアクセスランキング にほんブログ村

ロールズ(米 1921-2002) 本【著作(翻訳)ブックリスト一覧/リンク(Amazon)】

ジョン・ロールズ(Rawls, John)

 

ロールズ著作リンク一覧

 

公正としての正義(田中成明 編訳. 木鐸社, 1979)

正義論(矢島鈞次 監訳. 紀伊国屋書店, 1979 →川本隆史, 福間聡, 神島裕子 訳. 紀伊國屋書店, 2010 )

人権について : オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ (スティーヴン・シュート, スーザン・ハーリー 編, 中島吉弘, 松田まゆみ 共訳. みすず書房, 1998)

公正としての正義再説(エリン・ケリー 編, 田中成明, 亀本洋, 平井亮輔 訳. 岩波書店, 2004 →岩波現代文庫 2020)

ロールズ哲学史講義(バーバラ・ハーマン 編, 坂部恵 監訳, 久保田顕二, 下野正俊, 山根雄一郎 訳. みすず書房 上  20052005)

万民の法(中山竜一 訳. 岩波書店, 2006)

ロールズ政治哲学史講義 (サミュエル・フリーマン 編, 齋藤純一, 佐藤正志, 山岡龍一, 谷澤正嗣, 高山裕二, 小田川大典 訳. 岩波書店 1 2011 2 2011 → 岩波現代文庫 1 2020 2 2020)

 

ロールズ著作一覧

 

公正としての正義
正義論
人権について 
公正としての正義再説
ロールズ哲学史講義 上下
万民の法
ロールズ政治哲学史講義 上下

 

Wikipedia

ja.wikipedia.org