日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

群衆の自我喪失と指導者/カリスマへの自我代替と自我の感染 ~指導者/カリスマの暗示と群衆への感染と自我の投射【フロイト】

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/13/200036

 

群衆の自我の喪失とそのゆくえ ~我を忘れて誰かに自我を求めちゃう!? 

フロイトと群衆

フロイトは群衆についてどう考えたのでしょうか。記憶を頼りながらちょっとお話してみましょうね。

 

【フロイト著作集】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

(たしかフロイトが群衆について書いてたのはこの巻だったんじゃないかと思うのですが、間違ってるかもしれません)

 

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群衆と自我喪失

群衆っていうのはル・ボンが述べた限りでは個人を喪失してしまう現象のようです。そこではどんな賢明な人でも個別性を失い群衆心理に染められてしまうことになります。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

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フロイトはこの群衆を自我の喪失というように捉えたようです。ここでいう自我がちょっと難しくて私にはよくわからないのですが、まぁとりあえず自分というものを確固として築いて持っているようなもんだと思っておきましょう(ちゃんとした理解はフロイトに聞いてね)。そして人間はもともと身近な人間(親や兄弟や友人)によって自我形成されていくのであって、そんな大人数を相手にして自分の精神を作り上げているわけではない、そのため大勢の群衆なんてもんに出くわすといくら作り上げた明確な自我であってもいきなり対処したりすることはできないわけです。いわば驚いてパニックになって、どうしていいか分からなくなってしまう、というわけなのでしょうね。これが自我の喪失とでもいうものなんでしょう。

 

群衆の持つ自我のゆくえ

それが群衆においてはそれぞれの人間ずつが、同じ状態になるわけです。それぞれ自我が弱まっている状態の中で、どこで自分を持たせることになるのでしょうか。

 

 

本来自我というものが人間の基本的な精神の機能のひとつであるとしたら、それが失われたままでは人間の精神はうまく動かないことになります。群衆はたしかに個人としての人間よりは知的に劣るとル・ボンは述べていたはずですが、しかし人間としての機能まで失ってしまうわけではないでしょう。となるならば群衆化することによって失われた自我は、どこかにその代わりを求めなければなりません。

 

 

それが群衆を操る役割の人へと投射させられている、というのです。

 

指導者の暗示と自我の感染

ル・ボンの時も説明されていましたが、群衆は暗示にかかりやすい状態にあります。そのため古来より指導者となる人間は政治だろうが宗教だろうがこの群衆の特性を無自覚的にでもよく理解し利用していた、と言います。それは言い換えてみるならば、群衆に対する指導者が暗示をかけている人間になる、ということにもなります。

 

この暗示をかける者、この人は群衆ではありません。群衆から1人抜けた人です。そうした人は群衆と共にいながら自我を失った人ではありません。そうではなく、自らの自我を群衆に感染させていく者になるわけです。

 

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その結果自我を失った群衆は自らの自我の代わりとして指導者の自我を受け入れることになる、というのです。いわば群衆は自我を失うことによって、指導者の自我へと感染していくわけです。その時指導者が群衆に感染させるために自らの感情や自我を表現することが必要です。そのため群衆を相手にした場合、内容より表現=パフォーマンスの方が重要になってくるのですね。

 

指導者に対する自我の投射

そしてまた、群衆の側でも自らの自我を指導者となる人物へと投射していきます。指導者にとって群衆は自らを拡大していくための媒介となりますが、群衆の側では自らの喪失した自我を埋めるものとして指導者が働きます。結果群衆側では自我の代替物として指導者が求められ、指導者側では自らの拡大のために群衆が必要とされます。

 

この関係はもちろん、政治や思想、宗教といったものだけには限りません。もっと私たちの日常の中にありふれたものとしてあります。で、次にそれを書けたらいいなぁ、というあたりで終わっておこうかと思います。

 

 

…なんかフロイトの話からまたそれちゃった気がします。要は群衆って自我が弱体化してて、その代わりに群衆の対象となる指導者に自我を投射して、その結果指導者の自我が群衆全体に感染させていく、っていうことだったと思うんですけど…困ったな。気になった方はフロイト読んでね。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/18/200021

 

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 お話その199(No.0199)

フロイトの無意識の捉え方と人間精神の理性や感情の不合理と社会の不条理/不合理の類似性 ~よくわからないものに突き動かされる人間の精神と社会の動き

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/06/170000

 

フロイトの無意識の捉え方と人間精神の理性・不合理と社会の不合理の類似性 ~よくわからないものに突き動かされる人間の精神

ル・ボンとル・ボン以外の群衆理解

ル・ボンの『群衆心理』を斜めに見ながら群衆についてちょぼちょぼ書いてきてみましたが、別に群衆についてはル・ボンだけが説明したわけではありません。ル・ボンの考えた後をひいて新しく考えた人もいました。そこでル・ボンについては不十分かもしれませんがこの辺りにして少し先に進んでみたいと思います(といってもお話出来るのは私の知っている程度の範囲にしかなりませんから大したことはないんですけど)。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

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フロイトと無意識

ル・ボンの後に群衆について考えた人にフロイトがいます。フロイトはとても有名な人で、思想界隈について詳しくなくても誰でも知っているような偉い人です。アインシュタインみたいな感じでしょうか。しかしアインシュタインの相対性理論よりかはフロイトの精神分析の方がなんとなく内容を知られているかもしれませんね。

 

【フロイト『精神分析学入門』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

(フロイトの考え方をフロイト自身が簡単に説明したもの。結構今の私たちの考え方となっているものもあるので、読むと面白いかもしれません)

 

フロイトの理論はわかりやすすぎるくらいわかりやすいように読めるところと、さっぱりわけがわからないところとがあって、ある意味とても難しい考え方です。それに時代によって理論の修正もされていて、初期の頃と説明や理解が変わっているところもあったりします。そのうえフロイトの理論が革命的であったがゆえに、今となっては当たり前になってしまった考え方もあって、なぜそんなものをいちいち説明しているのか現在の読者からはわかりにくくなっていたりするところもあったりします(私だけ?)。

 

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一番有名なのは無意識という考え方(概念)を定めたことかもしれませんね。無意識という考え方は一般にも広まり、私たちも平気で無意識でやっちゃって、なんて言ったりもしています。ただこの無意識という考え方を生み出す肝となったのは自我についての考え方と性についての考え方の合わさったものだったと思います(フロイトの本は本棚の奥にあって引っ張り出さないので、失礼ながら記憶で書くしかありません。申し訳ない)。

 

【フロイト『自我論集』『エロス論集』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

(フロイトが自我や性について書いたものはこちら。『精神分析学入門』と違って専門的で難しさが跳ね上がってしまいます。先読まない方がいいと思います)

 

こうした自我や無意識という考え方でフロイトが捉えようとしたものは、なにも精神病だけではありません。そうではなく精神病を発症する元々の精神、人間の精神というものについて鋭い視線を投げかけたのでした。そしてそれはなにもフロイトや心理学というものだけが行ったわけではなく、近代哲学そのものが人間という存在を新しく定めていった側面があるからでした。フロイトはその流れに連なる者として現代で考えたわけですね。

 

明晰な精神=理性と、不合理な精神=無意識、の思想史

 

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簡単にだけ説明しますと、近代哲学は人間を明晰な精神をもった理性的な存在だ、と考えました。それは近代以前の中世を暗黒時代と呼んだことに対する反動でもあります。ルネッサンスはそうした態度をとったようですね。つまり中世はキリスト教/神学によって支配されていた無知蒙昧な時代であったが、自分たちはアリストテレスに連なる真の哲学に結びついた時代の人間である、というわけです。それは前の時代を否定することによって自分たちの時代を立派なものと判断した、と捉えてみることも出来ます(なんかオルテガみたい)。そして無知蒙昧な中世の人間観に対して理性により適切かつ合理的に判断できる人間観へと転換していくわけです。ある意味では進歩的な態度ですね。

 

【アリストテレス『形而上学』】 

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【ペーター『文芸復興』】 

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それがデカルトからカントにいたる流れだとしたら、基本的に人間は感情や不合理なことに対して理性を用いることによって合理的に判断出来る、と考えられたわけです。しかしその理性を中心とする合理的な判断の底に、無意識というわけのわからない領域を定めて不合理的なものに人間の精神は突き動かされている、ともう一度人間観を転換したのがフロイトなわけです。フロイトが特別患者を治すことの出来なかったと言われながらも、思想史的に重要なのはこの点において間違いありません。ついでにいうと精神分析も心理学や治療技法というより哲学的な観点から捉えた方がいいのかもしれませんね(でもお医者さんはなんて言うかなぁ)。

 

【デカルト『方法序説』】 

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(自我という考え方はデカルトからはじまります。でもフロイトにまでいたるとデカルトの時と意味が違ってきているような気もするけど…)

【カント『純粋理性批判』】 

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(で、人間の精神のうち理性というものの可能な範囲を徹底的に考えたもの。くそ難しいので説明は私には重荷過ぎます)

 

社会の不合理と人間の理性・不合理

もひとつついでに言いますと、こうした理性的な人間観に対して疑いの眼差しを向けて批判しているのがル・ボンやオルテガの書いたものだとも言えます。オルテガは大衆に対し貴族/エリートを対置させたくらいですからゴリゴリの理性主義者だと思いますが、しかし本来そうした理性的人間観によって担われるものとして定められていた様々な社会的制度が現実には中々上手くいきません。それはなんでなのか、といえば、やはり人間は理性的なだけではなく不合理的に動くからなのではないか、という観点も生まれてきて当然です。それを社会相手に行ったのがル・ボンやオルテガであり、人間存在そのものにまで向けたのがフロイトだと捉えてみることも出来ます。

 

【オルテガ『大衆の反逆』】 

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【パレート『一般社会学提要』】 

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(社会がいかに不合理に動いているか、ということを残基という概念を使って説明したもの。見方によっては残基って社会的無意識みたいなものかもしれませんね)

 

そしてそんなフロイトが自身の理論を踏まえた上で群衆(直接群衆と書いていたか忘れた)について考えたものがあるのですが、長くなってしまいましたので今回はこれで終わることにします。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/15/200056

 

 

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 お話その198(No.0198)

大衆と群衆の違いと類似の8つの特徴一応まとめ 〜具体的な人間ではなく社会的現象かつ概念であり、集団であることから個々人へと影響し個人を失わせる

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/04/170034

 

大衆についてのまとめはこちら

www.waka-rukana.com

 群衆についてのまとめはこちら

www.waka-rukana.com

 

大衆と群衆の違いはどのあたりにあるのだろうか 〜似てるようで違うような…

簡単に群衆について書いてみましたが、書いているうちに以前見た大衆と群衆がどう違うのかわからなくなってきました。一応大衆は正体不明な社会的な現象で、どこの誰だがわからない有象無象であるが、群衆は具体的に集まった人々の群れ、というように理解できそうに思っていたのですが、群衆もまた具体的に集まっている必要なく現れるというのであれば、その差も大きくないように思えてきます。

 

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ル・ボンは次のようにも言います。

 

意識的個性の消滅、感情や観念の同一方向への転換、これは、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴であるが、多数の個人が同一場所に同時に存在せねばならぬことを必ずしも意味しない。離ればなれになっている数千個の個人でも、あるときには、例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある。

 

そこで力不足かもしれませんが、一応私なりに大衆と群衆がどこが似ててどこがちがうのか考えてみたいと思います。

 

1.具体的な人間を指すものではない。

 

おそらくは大衆も群衆もどこかの誰かということではないかと思います。

 

たとえばお隣の佐藤さんは佐藤さんであって、大衆でも群衆でもないわけです。それは田中さんが佐藤さんに対して具体的にどんな人物であるのか大体把握することが可能であり、佐藤さんがもしいかに愚かで嫌な人物だったとしてもそれは佐藤さん個人の人格に帰するものと考えられるからです。

 

佐藤さんや田中さんは具体的な特定の人物です。そのため同じ性別、同じ年齢、同じ特徴を持っていようと交換不可能な存在です。お互いに独立したひとつの人間、人格であり、決して他の何者かによって侵されたり変更されたりするような存在ではありません。こうした他と独立した具体的な人間存在のことを柄谷行人は単独者と呼びましたが、その意味で大衆や群衆は単独者を指すものとは異なります。

 

【柄谷行人『探究』】 

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2.社会的な現象である。

 

一方大衆や群衆は現象であると私には考えられます。

 

大衆も群衆も具体的な人間存在=単独者を指しませんが、そうした単独者多数を包括した人々の現れ方を指していると感じます。それは具体的な誰かではなく、どこの誰だかわからないけれど確かにそのような形で現れているように思われるものであり、しかもそれらはただ人が集まれば現れてくるものではなく社会の在り方の結果必然的に現れてくるもののように思えます。そのため大衆や群衆は社会的な現象であると考えてみます。

 

【デュルケーム『社会学的方法の基準』】 

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3.社会的な現象を規定する概念である。

 

大衆や群衆が社会的な現象であるとすれば、その現象に対してどのような意味や現れ方をするのかを分析・理解しようとしたものがオルテガの『大衆の反逆』やル・ボンの『群衆心理』であると考えることが出来ます。そのため大衆や群衆というものは、そうした分析を通して形作られたひとつの概念であると考えてみることも出来ます。つまり大衆や群衆というものは社会的な現象として私たちの前に現れているのですが、それがなんであるのか理解できるように説明したものが大衆なり群衆なりといった概念となるわけです。現象(事実)/概念(理解)という関係にあるわけですね。

 

【ドゥルーズ/ガタリ『哲学とは何か』】 

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4.集団的な人間存在の在り方によって現れてくる。

 

大衆も群衆も社会的な現象であるとして、その現れ方は共に人間の集団から起こってくることは共通していると考えられます。大衆も群衆も個人心理ではなく、集団心理の一種であるように思いますが、その心性は大衆なり群衆なりの中にいることによって起こってきます。そのため人々の集まった、集団的な現象でもあるということになります。

 

【ホーマンズ『ヒューマン・グループ』】 

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5.集団から個々人へと影響を与える。

 

そして社会的な現象であると同時に集団的な現象でもある大衆や群衆は、その中に巻き込まれてしまうことによって個人としての独立性が侵され集団的な現れ方に影響される、と考えられていると思います。個人のままであればそのような判断や行動をとらなくても、影響されてしまうことによって大衆なり群衆なりの特徴そのままを現してしまう関係にある、と考えられている気もします。大衆であれ群衆であれ、個人であれば判断されるであろう合理性からかけ離れています。しかしそれは集団的な社会現象であるそれらによって、理性によって判断される(と期待される)個人を失わせてしまうからだといえます。つまり大衆や群衆は集団的な現象であることによって、個人を埋没させてしまう現象なのだ、と考えてみます。

 

【ミード『精神・自我・社会』】 

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6.群衆は我を忘れさせ、相互感染し暗示にかかった状態になる。

 

そうした社会現象であるうちの群衆は、特に集団埋没的な現象かもしれません。個々人は賢明であったとしても、群衆に巻き込まれることによってそうした個人的特性を失わせてしまうからです。その結果群衆の場合お互いに感情が感染しあってしまい、集団的な暗示にかかりやすくなってしまうと言います。しかし暗示をかける指揮者の役割を果たす存在はあり得るわけで、完全に無軌道というわけでもなさそうです。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

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7.大衆は人間類型的であり、経済システムの変化により都市へと大移動したことにより現れた。

 

一方大衆は集団的な特徴というよりも人間類型に近いかもしれません。大衆と対置される概念は貴族/エリートとして自らに多くを課す者を想定されますが、それに比べ大衆は数を頼みとすることによって自分たちの正当性を押し通し、にもかかわらず何事も努力しないままで結果だけ得られると考えているようなものと規定されています。これは群衆に比べそうした状況におかれると現れてくるというものではありません。そうではなく、現代の問題として大衆なるものが現れ主導権を握った、と分析されています。すなわち本来資格のない者が責任ある場所を占めるようになった、というわけですね。

 

【オルテガ『大衆の反逆』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

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そしてそうした大衆が現れてきた原因が、経済システムの変化によって起こった人間の都市への大移動ではないか、と考えられます。それまでは土地が経済システムの中心であり、生活様式もそれに沿ったような共同体として価値観も含めて人々を規定していました。それが都市へと移動し切り離されてしまうことにより根無し草の状態となり、近代人は大衆化したと考えてみるわけです。これは群衆の現れ方とは違うはずです。

 

【神島二郎『近代日本の精神構造』】 

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8.大衆も群衆も人間精神を退化させる。

 

しかし共通する点として、大衆も群衆もその状態に陥ると本来の精神状態から後退した水準に落ちてしまう、ということが考えられるかと思います。

 

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群衆は感染と暗示ですが、大衆はそもそも自らに大くを課さない無責任な存在として仮定されています。またオルテガもル・ボンも自らの分析した対象を野蛮人のように捉えていた面もありました。少なくとも2人は文明人として必要とされる状態とは異なる状態に陥ると考えていたようにも思えてきます。

 

【レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

拙いかもかしれませんが、とりあえずこのような形でまとめてみました(ちょっとついでに関係ありそうな本もムリヤリ載せてみました)。間違っているかもしれませんし、オルテガやル・ボンの意を汲めていないかもしれませんので出来れば直接読んでもらえれば嬉しいのですが、長くなってしまいましたし力尽きてもしまいましたので今回はこれくらいで終えることにします。あぁやっぱり力不足だった…

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/13/200036

 

 

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 お話その197(No.0197)

『デビルマン』(漫画版ラスト/永井豪)に見る人々の群衆化の例 〜没個性・感染・暗示と宣伝/デマの表現から見られる美樹の死と虐殺…漫画の中の描写は現実と異なるか

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/01/170051

 

『デビルマン』と群衆の表現

『デビルマン』に描かれる恐慌状態

群衆について書いてきましたが、ふと思い出す作品がありました。永井豪の『デビルマン』です。

 

【永井豪『デビルマン』】 

(私が読んだのは文庫版。でも新編集版で、連載時のものとは違うらしい)

 

『デビルマン』は少年漫画の不朽の名作とされる傑作ですが、少年漫画と呼ばれるイメージから連想されやすい(かもしれない)活劇とは一線を画しています。たしかに悪魔と戦うデビルマンの姿が描かれているのですが、恐るべき迫力をもってせまってくるのは物語終盤に訪れる人々の恐慌状態です。そして『デビルマン』に描かれているこの恐慌状態こそ、群衆として現れる現象の、ある種極端だけど典型的な群衆の姿を表現したもののように思えてもくるのでした(以下ネタバレ)。 

 

(その表現は作品のラストで描かれています)

 

『デビルマン』のあらすじ/概要

主人公の不動明は悪魔(=デーモン)と戦うために悪魔と人間の合体したデビルマンとなり戦っていきますが、終盤悪魔たちは無差別に人間と合体してデビルマンをあちこちで生み出してしまいます。それに怯えた人類は、同じ人間でありながら、もしかしたら悪魔と合体したデビルマンではないかと疑心暗鬼になります。それどころか悪魔は嘘がうまく人間にまぎれて隠れていると宣伝されもします。その結果あちこちで魔女狩りが行われ、悪魔、デビルマン、人間と問われることなく殺されていくのです。そして不動明もデビルマンであることが知られ人々から追われていきます。

 

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ですが人々は不動明の存在だけでは満足しません。明と共にいた、幼なじみの家族たちも同じようにデビルマンではないのかと疑心暗鬼になります。明を追い出した幼なじみの両親は逃したと捕らえられ、残された子どもたちも疑われてしまいます。そして彼らの疑いは不安とともに高まり、集まって幼なじみの家へと襲撃するのでした。

 

暴徒と化した人々は不動明と関係する人間を見つけては全員を血祭りにあげていきます。その様子は凄惨の一言であり、虐殺でしかありません。しかし幼なじみたちを悪魔の一味と人々は思い込み意識を奪われています。冷静さなどどこにもなく、ただただ惨殺を行うのでした。

 

恐慌状態のセリフ

その時のセリフは次のようなものです。

 

牧村のオヤジと女房はつかまったぞ

 

だが娘とチビがのこってるぜ

 

チビと娘が!

 

悪魔の娘だぞ! 悪魔の夫婦の子どもらだ! 特攻隊がつれていかなくても 悪魔でないといいきれん

 

特攻隊がやらないならわれらの手で

 

町から追放するのか…

 

追放したらあとでしかえしをされるかもしれない

 

ただの娘と思うな! 悪魔でないとしても 悪魔の血がながれているにちがいない

 

悪魔のしもべだ

 

悪魔の使いだ

 

魔女だな

 

そう魔女だ

 

あんなかわいい顔をしているのに魔女なのか

 

だから魔女なんだ かわいい顔で心のみにくさをかくすのだ

 

追放しないでどうするんだ このままにはできないぞ

 

悪魔の血をすいだせば…

 

娘のからだを切りきざみ悪魔の血をすいだせば それで人間にもどるのか…⁉︎

 

こうして人々は不動明の幼なじみの家に、我が身を守るべく籠もっていた人間を全て殺してしまうのでした。

 

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群衆の否定的な面を凝縮した表現

この時の人々在り方が、群衆の否定的な面を凝縮したもののようにも思えてきます。幼なじみたちがデビルマンであることにはどこにも確証はありません。しかし彼らはそれがあたかも事実であるかのように受け取ります。それだけでなく解決策として悪魔の血を吸い出せばいい、と勝手な解釈を生み出しており、それもまたどこにも根拠がありません。つまりデマなわけです。しかしそれがデマであるのか事実であるのかは、検証される間もなくそのような意思も時間もありません。なぜならば彼らは不安と恐怖に突き動かされているからです。

 

【オルポート『デマの心理学』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

そしてこうした不安や恐怖は集まった人々によって共有されていますが、それはお互いの不安や恐怖が感染しあっているようにも見え、どこに根拠があるのかもわからないものを信じたり虐殺をものともせずに向かっていく姿は自らで暗示をかけているようにも感じます。さらにそう叫ぶ人たちは暗闇の中目だけが描かれたりいくつも顔が並べらりたりして無個性と化しています。群衆の特徴であった没個性・感染・暗示がすべて含まれているように思えるのでした。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

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宣伝とデマ

また群衆を生み出すかのように思えた宣伝の様子も描かれています。それは不動明と共に悪魔と戦っていた飛鳥了が、なぜか寝返り悪魔根絶の声明を出すセリフです。ちょっとまた引用してみましょう。

 

親友:不動明のすがたをした悪魔は まだ人間としてくらしています

 

そして

 

いま あなたのとなりにいる人も悪魔にとりつかれた人間かもしれないのです

 

あなたの父のすがたをした悪魔 あなたの母のすがたをした悪魔 あなたの兄弟 あなたの子ども…

 

あなたの友人のすがたをした悪魔なのです! 考えてみてください となりにいる人はほんとうにその人か!

 

以前とかわったところはありませんか… 悪魔はウソがうまいのです…

 

悪魔は演技がうまいのです… 悪魔はそっくりになりすますのです さー さぐってくださいとなりの人を 見つけてください悪魔どもを… 

 

そいつが悪魔の正体をあらわし あなたにキバをむいておそいかかってからではおそいのです

 

そのまえに…

 

あなた自身の手で殺すのだ!

 

【レーニン『宣伝・扇動』】 

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(ナチス/ヒトラーも行った宣伝の方法は、もとはマルクス主義によって行われたものでもあるそうです。これはレーニンによって書かれた関係あるものを集めたもののようです。私はまだ読んでません。なんかとても高いです)

 

またデマの元凶となったのは、悪魔の正体をつきとめたとするノーベル生理学者の研究発表でした。

 

悪魔の正体は人間だ!

 

人間の強い願望が自身の体細胞を変化させた! 

 

現代社会生活の不満が増大した結果…そのやり場のない不満を別生物になることでみたそうとしたのだ!

 

(記者:するとそういった種類の人間は悪魔になる可能性があるわけですね)

 

さよう! その種の人間は悪魔になる以前に処分が必要!

 

殺せ!

 

現代社会に不満をもつ者を殺せ!

 

悪魔の因子を抹殺すれば悪魔は消える!

 

こうして暗示にかかりやすいとされる群衆の向かい先が指し示されてもいるわけです。

 

【シブタニ『流言と社会』】 

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【佐藤卓巳『流言のメディア史』/佐藤健二『流言飛語』】 

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【清水幾太郎『流言飛語』】 

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(流言について書かれたものを並べてみました。私が読んだことあるのは清水幾太郎のものだけです。

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このような宣伝やデマも、かつてならメディアを抑えた人たちによって行われていましたが今やネットがメディアの中心になることによって誰でもが担い手になることが出来るようになりました。いわば寡占状態が解放されたのですが、当初期待された賢明な個人による情報発信とはかけ離れたものになってしまったようにも思えます。そうした中で宣伝やデマも善意もあればアノミーやルサンチマンの代償行為でもあり、愉快犯や本気で憤っている人もいてとても収拾のつくものではなくなっている可能性もあります。流言のメカニズムを知ることは伝えられる情報の真偽を見極めるだけでなく、自らもその担い手になってしまわないことを知るためのものでもあるかもしれませんね)

 

フィクションから学ぶ現実への対応

『デビルマン』は漫画でありフィクションです。しかし傑作であることは間違いない作品です。では何故傑作なのかといえば、現実や人間の真実を描くことに成功しているからだ、と考えてみることが出来るでしょう。

 

そして今の私たちが直面している状況や事態が『デビルマン』とどれほど近くて遠いのか、はかってみることも有意義なことであるかもしれません。せっかく表現でひとつの形が示されているのです。そこから学んで現実に現れてこないように気を配ってみるのも、フィクションを読む=批評としての役割なのかもしれませんね。

 

これからしばらく続くであろう世界中の毎日が『デビルマン』と遠いもので終わることを祈るしかありません。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/06/170000

 

 

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お話その196(No.0196)

コロナウイルスとは我々を群衆と化し世界の歴史を変える要因となるのだろうか ~自然/社会的な国家の大事件と群衆による歴史的変化

  

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/04/28/170000

 

コロナウイルスという国家の大事件と、群衆化とその先 〜私たちは今、群衆と化しているのだろうか?

国家の大事件と群衆

群衆が具体的に集まっている人々のことを指さなくてもいいのだとしたら、ますます大衆との違いがわからなくなってくるような気もしますが、それと同時にもうひとつル・ボンは気になることも書いていました。

 

意識的個性の消滅、感情や観念の同一方向への転換、これは、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴であるが、多数の個人が同一場所に同時に存在せねばならぬことを必ずしも意味しない。離ればなれになっている数千個の個人でも、あるときには、例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

 

 

ここで今回注目してみたいのは、国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある、という一文です。

 

社会的な大事変と、自然的な大事変

ついこの間まではこのような言葉の指すものは戦争や革命のような、まず普段目にしない状況が思い浮かばれました。いわば歴史的事変として国家の大事件が起こってるわけですが、それらは社会/歴史的な大事変といえるかもしれません。しかし今は自然要因によって普段起こらないような大事変に直面していることになります。

 

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自然的大事変によって変わる社会

自然要因の大事変も歴史上なかったわけではないようです。ペストやスペイン風邪の流行によって社会が混乱の極みに陥ったらしいことは、今回のコロナウイルスについて色々書かれている中で教えてももらいました。

 

テクノロジーが権力に 仏経済学者ジャック・アタリ氏 コロナと世界(1) - 日本経済新聞

(有料記事で全文読めません。私は新聞で読みました)

 

【アタリ『1492 西欧文明の世界支配』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

(ジャック・アタリの本。読んでいませんが、関係ありそうなので載せてみました)

 

ジャック・アタリによれば、そうした疫病によって西洋社会そのものが変容したそうです。中世的な教会支配の世界から、患者を隔離する組織へと権力が移り、ウイルス対策の出来る医学へとさらに移って、科学による世界へと変わっていった、ということです(うろ覚え。紙面にはもっと細かく具体的に書いてあった)。

 

群衆により変わる歴史

そのため今回のコロナウイルスも新たな世界へと移行していく可能性もあるようなことを書かれていました。そしてまたル・ボンはこのようにも書いていました。

 

群衆は、容易にある信仰、ある思想の勝利のためには身を殺すにいたるし、名誉光栄のためには熱狂するし、十字軍時代のように異教徒の手から神の墓を解放するためには、あるいは一七九三年におけるように国土を防衛するためには、ほとんど食糧や武器がなくても誘いの手にのるのである。これは、もちろん、やや無意識的な英雄行為ではある。しかし、歴史がつくられるのは、このような英雄的行為によるのである。もし単に、冷静に考えぬかれた偉大な行為のみが民族の名誉になるべきものとすれば、このような行為で、世界の歴史に記録されるものは、まずないといってよいであろう。

 

つまり歴史は偉大な個人ではなく、群衆によってつくられている、ということなのかもしれません。

 

アタリの指摘が現在にも当てはまるのか、ル・ボンの認識が今日も含まれるのか、それはわかりません。ただ各々の思想家による考えが、今日の私たちの状況を引き寄せて考えてみることも不可能ではないことはうなずいてもいいのかもしれません。

 

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それどころかコロナウイルスの問題は国家どころではなく世界的な規模で影響が出ています。一国でも群衆により大変化が起こるのだとすれば、世界規模の騒動ではどうなるのか未知数です。それも経済危機のような社会的な要因ではなく、ウイルスによる自然的要因によるものです。根本的な解決にはどうしても物理的な水準で解決されてくれないといけないようにも思えてきます(ウイルス死滅させるとか、人口の大半に免疫が出来るとか。しかもその後でまた経済/社会的な危機が来ると予想される)。

 

私たちは今、群衆と化しているのだろうか?

そうした状況を踏まえて、今私たちは群衆と化しているのでしょうか。それともちゃんと個人として状況を理解し、判断しているのでしょうか。

 

ル・ボンは群衆の一般的特徴と題された第一章の末尾でこう述べます。

 

前述の観察から次のように結論しよう。すなわち、群衆は知能の点では単独の人間よりも常に劣る、と。しかし、感情や、この感情に刺激されてひき起こされる行為から見れば、群衆は事情次第で、単独の個人よりも優ることも、また劣ることもある。すべては、群衆に対する暗示の仕方如何にかかっている。

 

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暗示の行方とリーダーシップ

私たちがすでに群衆と化しているとしたら、あとはそこに与えられる暗示により方向性が決まってくることになります。そしてもしこうした大勢の人を引っ張っていくものが理念化されるとしたら、それはリーダーシップというものになるのかもしれません。権力や恣意性による暗示によって動いてしまうのではなく、適切に動いていくための暗示が与えられるのか、また群衆と化していながらも個人をたもちながら冷静に判断できるのか、それらは現状わからないのかもしれませんが、せめて過去にこうした理論や認識があるのですから、それらから距離をはかってさほど大きく間違えないようにしたいと願ってしまいます。

 

【マグレガー『リーダーシップ』】 

【ひかりTVブック(電子書籍)】

(古典的経営学者によるリーダーシップ論らしいのですが、私は読んでいません。関係ありそうなので載せてみました)

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/11/063002

 

このままでは、コロナ自粛は「国民が勝手にやったこと」にされてしまう(平河 エリ) | 現代ビジネス | 講談社(5/7)

 

…なんか陰気な内容になってしまいました。
 
次回のお話

 

 

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お話その195(No.0195)