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現実の中のからっぽさの効用 ~からっぽなものは現実に役立つ?
キャラクターがからっぽの存在だとすれば、まさにそれゆえに受け手の自我を投影出来てしまうわけですね。
現実とからっぽさ
しかし現実というのはむしろ嫌になっちゃうくらい具体的なものです。それなのにフィクションはからっぽなものですから、現実のやるせなさをフィクションに投影させて我が身を慰めてしまうのにとても役に立つわけです。おそらくフロイトが評価した空想の役割もこのようなものだったのではないでしょうか(忘れた)。
【フロイト著作集3 文化・芸術論】
現実を耐える代わりのもの
そういえばこのあたりの関係を大塚英志はわかりやすく説明していたことがあります。それは山田詠美の作品の批評を通してなのですが、恋人の黒人が連れ去られてしまい、彼が残していったスプーンを彼の代わりに大切に持っている、というラストシーンを指し、大切な当の本人(=恋人)は失われてしまったが、その代わりのものを大切に持つことによってこれからの現実を生きていくよすがにする、というものです。
【大塚英志『サブカルチャー文学論』】
(この本に書いてあったはず。面白いけど、分厚い。最後に石原慎太郎を批判し連載中止になったという伝説があります)
移行対象と不安と現実
こうした現実を生きていくための大切なものを大塚英志はウィニコットという精神分析家の移行対象という概念を使って説明しなおしていました。
【ウィニコット『遊ぶことと現実』】
(移行対象のことはこの本に書いてあるそうですが、残念ながら私はまだ読んでません)
移行対象というのは子供が小さい時肌身離さずずっともっているぬいぐるみのようなものを指す概念で、生まれもってからずっと慣れ親しんだ物を自分の分身のようにして、それを持っていることによって未知の周りの世界に対して起こる不安に耐えている、というものなんだそうです(読んでないから間違ってるかも…)。
例としてだされるのがスヌーピーに出てくるチャーリー・ブラウンがよく持っている布で、チャーリー・ブラウンはこの布を持っていると安心する、ということが描かれているそうです(スヌーピーよく知らないので間違っていたらごめんなさい)。
【ピーナッツ選集】
これは以前載せた瀬田貞二の『幼い子の文学』とも共通する観点かもしれません。この本に書いてあった〝生きて帰りし物語〟も、いわば子供が現実の不安をやりすごすためのものとしてありました。なんとなく似ている気もしますね(なんて、ウィニコットも瀬田貞二も大塚英志の批評から教えてもらったので、同じ観点で説明されていたなら似ていても当たり前かもしれませんね)。
【瀬田貞二『幼い子の文学』】
現実を上手く耐えやりすごすためのからっぽなものたち
こうした移行対象となるもの、それを持っていることによって安心するもの、これを物そのものではなく、記憶の中に留められるフィクションやキャラクターとして捉えるならば、このようなからっぽの存在であるものたちは案外自我の確立の難しい(と思われる)この時代で、実によく役割を果たし続けているのかもしれませんね。
そういえば20世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインは超難解な哲学上の問題を考えた後には、必ず映画館に入りどんな駄作であろうとも2時間しっかり見たそうです。それにつき合わされたお弟子さんは、まるで頭をからっぽにするために映画をシャワーのように浴びているようだった、と書いていました。レベルが違うお話ですが、なんとなく似ている気もしますね。
【マルコム『ウィトゲンシュタイン』】
(お弟子さんのウィトゲンシュタイン回想記。歴史的哲学者を日常のフィルターに通して面白く知ることが出来ます。哲学の難解さとは別に、ウィトゲンシュタイン先生はかなりヘンテコで面白い人物であります)
なんか今日は疲れていてうまく書けないのでこの辺でやめておくことにします。
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お話その209(No.0209)