前回のお話
デカルトの心身二元論と統一的な自然世界の機械論的世界観
フッサールの現象学のお話のついでに、ちょっと寄り道してデカルトの心身二元論についてほんの少しお話してみようかと思います。
身体と精神の哲学的分離
デカルトが近世/近代哲学の祖であることは有名ですけれども、同時に近代における身体と精神を分離させてしまった哲学者としても悪名高くなってしまっています。というのもデカルトは身体と精神を別のメカニズムによって動いていると考えて、その両者の結びつきを明確にすることなく終えてしまったからです。そのため後世今日においてもその問題は残されたままで、大きな混乱を残したと非難されたりするわけですね。
【デカルト『省察』『哲学原理』】
(デカルトがどこで心身の分離について説明していたのか覚えていませんので、哲学的な考察の本を載せておくことにしました。多分この中のどこかに書いてあるでしょう。うん)
しかしこれはデカルト先生にちと厳しい非難かと思ったりもします。というのもデカルトの時代に科学的な分析装置というものが道具だけでなく理論としても十分にあったわけではないからです。デカルト先生はコペルニコス以降の系譜として宇宙論も考えましたが、それはニュートンが現れるまではかなり有力なものだったそうです。つまりまだ物理学も確立されていなかった時代なんですね。
【ニュートン『自然哲学の数学的原理』】
(ニュートンによって物理法則が数学的に確立されたのはこの後のようです)
身体と自然の統一的メカニズム
そこでデカルト先生が考えたことは、身体=人体も自然と同じようなメカニズムによって動いている、ということです。これには少し注意が必要かもしれません。
というのも、コペルニコスの登場以降、天文学の分野では徐々にその宇宙の法則というものがわかりはじめていました。それまではアリストテレスの考えたように天上と地上とでは別の法則によって動いていたと思われていたものが、どうもそうではないらしいことがわかってきたようです。
それを大成したのがニュートンですが、ニュートンの自然哲学=物理学はアリストテレスを完全に排して宇宙=天上も地上も同じ物理法則で動くことを証明しました(どんな風にしてかは私にはわからない)。それは同時に自然界というものが単一のメカニズムによって動かされている、ということにもなります。
中世的思想に対して革命的だった統一的な自然の機械論的世界観
それは中世に考えられていたように神がいて、神によって世界が動かされている世界観とはまったく異なります。そうではなく自然は勝手に独自のメカニズムによって動いているわけです。神さま抜きに自動で動く世界は、そのため機械論的世界観と呼ぶことができます。そしてこの機械論(=自動で動く)によって動く世界は自然世界全般です。となると人間の身体もまた同じ自然世界の一部として機械論的に動いていくものとして考えることが出来ます。
【中世思想原典集成精選版3】
(この中に中世思想初期における自然哲学が入っていたと思います。比べてみると面白いかもしれませんね)
そうして身体を機械論的に捉えた時、どうしても残されてしまうのが精神というものです。なにせ人間には心ってものがありますからね。いくら身体が機械のように自動で動いても、心は違うぞ、っと思ってしまうというものです。そこでデカルトによる身体の機械論的理解と精神の自由との問題が結びつくことなく、デカルト哲学のみならず近代思想全体にまで及ぶ問題のように思われたようでした。
でもそんな昔に完全に説明しろっていう方が無茶な気もしますけどね。
次回のお話
お話その279(No.0279)