前回のお話
現代における懐疑主義のエポケー/判断停止を用いる新たな哲学である現象学
平静を求めるための懐疑主義のエポケー/判断停止
古代の懐疑主義というものは特定の真理を奉じて、これぞ絶対に正しき境地なり、とでもいうものを否定するものでした。いわば真理の立場を相対化することによって、真理への認識自体を宙ぶらりんにすることによって心の平静を得ようとするものです。
【アナス,バーンズ『古代懐疑主義入門』】
この時懐疑主義が取る方法というものがエポケー=判断停止と呼ばれるもので、つまりなにか問題がある場合、ああでもない、こうでもない、といって判断を括弧に入れてしまう方法ですね。なんだか無責任なような気もしますが、ああだこうだとうるさい世の中においてはたしかに自分の心を守るためのひとつの方法であるかもしれません。
現代におけるエポケー/判断停止と現象学
しかしこのエポケー/判断停止。実は現代思想においても重要な役割を果たしていたりします。デカルトからカントに至る近代認識論の系譜とは別に、20世紀における偉大な哲学一派に多大な影響を与えてひとつの学問的立場を築くことに貢献しました。それが現象学というものです。
【竹田青嗣『現象学入門』】
(現象学の入門はこれがいいそうです。私も読んだのですが、さらさらと読める感じがして楽しい本でした。竹田青嗣の本は大体同じようにさらさら読めて楽しいです。ただ書いてあったことを私はもう忘れてしまいました…)
現象学というものはフッサールという偉い哲学者が考えたものなのですが、一見するとなんとも不思議な哲学のように思われます。というのも、人間の体験というもの自体を学問の基礎に据えようとしたからです。
ちょっと意味がわからないような気がしますね。まぁその話は次回にでも置いておいて、今回はエポケー/判断停止がどのように現象学において利用されるかということだけ書いてみたいと思います。
体験を純粋に取り出すための手段としてのエポケー/判断停止
人間は体験というものを誰しも必ず持っている、という風に考えることが出来るかと思うのですが、この体験というものは、実は結構偏見に満ちて我々に捉えられているかもしれません。
たとえば目の前にケーキがあれば美味しそう、と思うかもしれませんし、たまたまバラエティ番組でも見た後でパイ投げしてたら一度やってみたい、なんて思うこともあるかもしれません。お腹空いてなければ見向きもしないかもしれませんし、実はチョコレートケーキが好きなのでショートケーキはあんまり嬉しくなかったりするかもしれません。
事実としては目の前にケーキがある、ということですし、また得ている体験も目の前にケーキがあるということなのですけれど、その時々のその人の状況によってその体験はちょっと偏向して捉えられているとも考えられます。それは裏返して捉えてみるならば、体験を体験そのものとして捉えることに失敗している、ということにもなるかもしれません。
そのため現象学では目の前にケーキがある、という体験を、その体験そのものとして取り出すために一旦他の関係性をその体験から取り上げてしまうような真似を求めます。それを古代懐疑主義にならってエポケー/判断停止と呼び、体験を体験そのままに取り出して吟味することを現象学は行おうとするのでした。
【フッサール『イデーン』】
(で、こちらがフッサールの現象学の本。私は一部だけ訳した岩波文庫のものを昔読んだ覚えがあります。難しくてよくわかりませんでした。悲しい)
なんだか自分でも説明していてよくわからなくなってくるのでした。まぁ私がよく理解してないからということもあるのですが、なんとも難しい方法の哲学のようでした。
お話その275(No.0275)