前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020.07.13
社会の中の〝私〟の小説 〜具体的なものに満ちた私小説
社会を描くことと社会なるものの理解
社会を描くことは難しいですが、しかし私たちはみな社会に巻き込まれて存在しています。社会なるものがどれほど私たちに理解されているものなのかは別として(またそもそも社会なるものが人間に完全に理解できるものなのかも別として)、間違いなく社会なるものと接し続けているわけです。
【ルーマン『社会の社会』】
それなのに社会なんてものが一体なんなのかわからない、というのは不思議な気もしますが、しかし身体だって自分の臓器がどこにあるのかなんて、ただ自分の身体を手探りしたってわからないんじゃないでしょうか。いや、俺は知ってるぞ、心臓は左だ、みたいに言うこともできますが、それは知識として確かなものが確立されたものを学んだからそう言えるわけで、それも人体を解剖することが禁忌でなくなり医学として一般化した知識として蓄積されているから学ぶことが出来るわけです。その前ではガレノスの理論通りにしかお医者さんは患者を診てなくて随分問題があったようなことも時々読んだりもしますしね。つまり身体についてはもう十分な知識の蓄積があるのに対して、社会についてはまだ十分ではない可能性もあります。だから社会については常に接している(それこそ身体のように)にもかかわらずよくわからない、また身体と同じように常に接しているにもかかわらずそれだけでは理解出来なくても不思議はないわけです(私たちはこうして蓄積された知識を通して事実や現実を知るわけですね)。
【ガレノス『身体諸部分の用途について』】
(なんとこんな本まで翻訳が。すごいなぁ)
よくわからなくても雁字搦めに絡めとられている社会なるもの
さて、そんなよくわからない社会ですが、そうはいっても私たちが雁字搦めに絡めとられていることには変わりありません。病気だって原因不明だろうと当人を蝕んでいくのと同じことですね。そしてそこで蝕まれたり雁字搦めにされている状態は社会なるものに対する明晰な知識や理解などなくても我が身ひとつで感じることが出来ます。
社会の中の〝私〟としての私小説
そしてそんな〝私〟を中心にして表現を作り上げることも不可能ではありません。いわゆる私小説というものですが、これこそ真の芸術である、という観点を持つ人もいます(でも反対する人の方が多いような気もする)。というのも生きているこの私に起こってくるものを直接にその当人によって描くことが出来るからです。
【小谷野敦『私小説のすすめ』】
(私小説贔屓の比較文学者による文字通り私小説のすすめ。著者自身もこの後私小説を書き出し芥川賞の候補にまでなる。
追記:まさか著者ご自身の小谷野先生からコメントいただきました。私の勘違いですでに私小説の作品は発表されていました。申し訳ない限りです。その作品はこちら)
【中村光夫『風俗小説論』】
(有名な私小説批判の書。薄いんで読みやすい。再刊されたようで手に入りやすくなりました。昔は古い新潮文庫に入ってた)
具体的なものに満ちた私小説
そしてこうした私小説にまでいたれば、表現はからっぽなものであるどころか具体的なものしか存在しないような表現になります。というのもすべて自らを素材にして描かれているので、そこにあるものは具体的なものでしかないからです。
【島尾敏雄『死の棘』】
(私小説の極北と評される私小説。浮気した旦那さんに対する奥さんの執拗な追及が見どころでしょうか。浮気不倫ばかりの文春砲の昨今、その後の生活の様子がどのようになるのか、一度この作品を通して目にしてみると面白いかもしれません)
代わりにからっぽなものとは異なり大変読むのに苦労します。特に優れた私小説となれば切れば血が出るようなものを指すと言われていますので、読み進めることすら苦痛になってくるようなものです。からっぽな作品が憩いと癒しの表現とすれば、具体的なものに満ちた私小説は辟易としながら不愉快さに負けず読み進めていくようなものかもしれません。当然そうした表現は市場原理の中では淘汰されてしまいますが、それは同時に大衆的表現世界の中で具体的な苦悩に生きる者の姿も覆い隠してしまうことにもつながってくるのでした。
なかなか難しい問題ですね。
次回のお話
お話その216(No.0216)