日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

個人主義とは私とあなたは別の人という前提としての理解 ~当たり前とみなされる個人主義の輸入概念ゆえの未成熟と集団主義の残滓

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前回のお話

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個人主義としての私とあなた 〜集団主義から離れた個人主義という当たり前

私とあなたの感じることは同じとは限らない

さて、〝この私〟の苦しみが自分自身にしかわからないものだとして、それは原理的なものであって間違いないことなのでしょうか。事実としてはその通りだと思います。というのも自分自身で知るようにして他人のこと(特に心とか内面とか、周りの具体的な関係とか)を知ることは出来ません。一個のりんごを見ても私はただ美味しそうと思うだけかもしれませんが、画家はその赤を目に留めるかもしれません。それと同じように人と人とは同じものを前にしていても同じように感じるとは限りません。そのりんごを食べてみたとしても、相手が自分と同じように味わっているかも、実のところ確かめようがないわけです(もしかしたら虫歯で味なんてわかんないかもしれないし、満腹で食べたくもなくて美味しいとも感じないかもしれない)。同じものを食べた味覚でも共通して受け取ることが出来ないのならば、物事の価値に関わることなどほとんどなにもお互いに理解できていないのかもしれませんね。

 

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柄谷行人『探究』】 

(この場合の他者は柄谷行人の言うような、異なる規則を持つ者、というのは少し違うでしょうか。それとも感覚というものもひとつの規則であり、それが異なる者として他者とみなせるものでしょうか。はたまた完全に断絶された者としての他者となるでしょうか)

 

私たちは個人であることが当たり前と思っている

しかしではなぜこのような考え方が成り立つかといえば、私たちが個人で成り立っていると考えているからです。言い方を変えると私たちは個人として存在していたり生きていることを当たり前のこととして疑いすらもっていない、というわけですね。そしてそれはある意味では当然なのですが、かといって当たり前というわけでもありません。

 

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たとえば逆に自分という存在を集団や組織、もう少し大きく社会や国家に尽くすような考え方だって出来ます。しかしそれは今日の私たちには当たり前とは思われません。中にはネトウヨの人のように日本というものに尽くすのがいいと思われる方もいるかもしれませんが、それと同じようにして会社に尽くせという社長の言うことは聞かないでしょう。多分嫌がるでしょうし、ブラック企業であると捉えるような気がします。しかし日本という国家や国と企業というものは、個人を超えながら身を尽くす対象として、少なくとも個人の側から見れば同じような関係性を持っているようにも見えます。だから戦中は国に尽くして死ねと言えたのであり、戦後は同じ感性を企業に尽くすことへと転換させることが出来ていたのかもしれませんね(そしてかつては集団主義が当たり前と思われていたように、今は個人主義が当たり前のように思われるように変わっていったわけですね。これが社会の変化のひとつかもしれません)。

 

個人主義の未成熟と集団主義

しかしこれはよく言われるように日本の個人主義の確立が未成熟だからだ、というような捉え方も出来るわけです。いわば日本人は戦中の時点でこのような集団埋没的な在り方に慣れていたわけで、それを国家から企業へと向きを変えた、しかしそれでは結局本質的なことはなにも変わってないのでまた有事があった際には元の木阿弥になってしまう、というわけで個人主義の確立、もしくは近代的自我の確立が求められたのが戦後思想の出発だったのかもしれません(よく知らない)。

 

丸山眞男『日本の思想』】 

(こうした関係はなに読めばいいのかな? なんとなく丸山眞男のこの本がいいような気がしますけど、内容結構忘れちゃったので自信はありません。けど有名だし新書で比較的簡単に止めるため、読んでも損はないと思い載せておきます)

戦後思想の努力としての当たり前の個人主義と、輸入概念としてのなじみにくさ

そんなわけでこうした個人主義の確立を求めて戦後の思想家たちが頑張ってくれたおかげで、一応なんとか個人主義というものが当たり前に感じられるような気もしてきました(実際どうかはわからないけど)。ただ、じゃあ本当に個人主義なり近代的自我なりが確立されるほどに社会が成熟したのかといえば、なんかそんなわけでもないような気がします。その結果個人や近代的自我というものがわからないままに、ただ集団として持っていた紐帯だけが断ち切られたのかもしれません。そしてそこから個人や近代的自我の立ち現れてくる道筋が現れてこなければならないはずなのですが、困ったことにいつもの輸入概念でもある個人や自我といったものは、肌感覚ですぐわかるほどに日本人にはなじんでいないのかもしれません。

 

作田啓一個人主義の運命』】 

(こういう本もあります。なにかのブックリストに載っていたのを思い出し、ぴったりなような気がしましたので載せてみました。私は未読ですが、読んでみたい本ですね)

 

 

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そのため私たちは私たちとして感じられた共感が失われ、個人と個人として他者との間で遮断した関係性しか感じられなくなってしまったのかもしれませんね。

 

…う〜ん、また話がズレていった…

 

次回のお話

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 お話その221(No.0221)