同じことと違うこと 〜カナヅチで釘を打つ、それとも…
あるものはそのままであるもの?
それともう一つ考えてみましょう。
玉ねぎは玉ねぎとして、炒飯やカレーと関係なく玉ねぎなのでしょうか。
何言ってんだ、と思われるかもしれません。だって玉ねぎは玉ねぎなんですもの。しかし玉ねぎを炒飯に入れるものとか、カレーの材料としてしか考えなければ、玉ねぎは単独で玉ねぎとして捉えてもらえないかもしれません。必ず炒飯やカレーと結びついてしか考えてもらえないかもしれず、玉ねぎは玉ねぎというだけでは意味をなさないかもしれないのです。
使い方で意味が変わってくる道具 〜カナヅチの場合
もちろん炒飯やカレーと関係なく玉ねぎは玉ねぎのままです。しかしカナヅチを考えてみましょう。カナヅチは釘を打つ道具だ(XはAである)、とまぁ、当たり前に考えてみましょう。多分こうした受け取り方に反発する人はいないでしょう。もしかしたら大工さんにとってはもっと違う受け取り方があるかもしれませんし、また大工さんでも人によっては考えが違って対立することもあるかもしれません。ですがここではとりあえずこの受け取り方は認めてくれるものとしておきましょうか。
さて、しかし街中で暴れて人を殺しちゃったりする人がカナヅチを持ったとします。その人はカナヅチを釘を打つ道具だと思ってくれるでしょうか。多分、潜在的には釘を打つ道具とカナヅチを捉えてくれるかもしれません(XはAである)。けど今から実際に行うことは全く違うことでしょう(XはAである が XはAとして使用されない)。その人にとってカナヅチは人を叩く道具であって、人殺しのための道具になります。そして人を叩くものとしてカナヅチを意識していることでしょう(XはBである)。
ここでも元にあるものは同じでも、その意味は使われ方によって変わっていることになります(XはAである と XはBである は使用者Pにより決まる)。
道具として使われるものと正統性
ただ玉ねぎの時と違って、カナヅチを人を叩くためのものだと考えて意味づけしてしまうのは間違ったやり方だ、とは思うのではないでしょうか。玉ねぎを炒飯に入れるのかカレーに入れるのかは単なる選択の一つでしかないように思いますが(XはAである と XはBである は等価である)、カナヅチを釘を打つ道具なのか人を叩く道具なのかということは単なる選択と受け取るわけにはいきません(XはAである と XはBである は等価ではない)。なぜなら炒飯にするかカレーにするかといった気軽さでカナヅチの使い方を変えてしまうわけにはいかないからです。
つまり釘を打つのと人を叩くのとでは重要度で全く違うのです。それも決定的に違い、一方は取り返しのつかない結果が生じます。
同じように取り返しがつかないけど、同じではない?
しかし、さらに意地悪に考えてみましょう。玉ねぎだってカレーにした後では炒飯にするわけにはいかないじゃないか(XをBとするとXはXBとなる)。ここでも取り返しのつかない結果が生じてるじゃないか(XはXBとなることでXAとなる可能性を失う)。
その通りですね。しかし玉ねぎが使い物にならなくなるのと、人の命が奪われてしまうことは同じ程度の問題とは感じとれません(特定の[XはAである と XはBである] と 特定の[XはAである と XはBである] は一致しない)。となると一見同じような理屈で成り立っている理解が、それだけではない条件によって区別されていることになります。しかしそれを抜かしてしまえば全然違うものが同じに見えてしまう、もしくは言いくるめられてしまう可能性があるわけです。
言ってることはわかるけど、なんか違う、というやつですね。
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違うものでも同じに見えてしまう ~よく似ていることでも整理すると違ってくる【おもしろい哲学】 - 日々是〆〆吟味
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原因と結果と意味 ~将来はわからない。未来の可能性と現在の選択と起こったことの必然性【おもしろい哲学】 - 日々是〆〆吟味
お話その4(No.0004)