日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

人が集まる群衆と群衆化される事によって群れる人に起こる群集心理への変化 ~具体的に集まった人々の集団とは異なる、群集心理を持つ現象へと変貌した我を忘れた群れる人【ル・ボン『群衆心理』】 

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/04/24/170037

 

人々の集まりとしての群衆と、群衆化することにより変化する群衆心理 ~人が直接集まってなくても群衆なの?群衆の問題は人が群れ集まることよりも、それにより変化する心理が問題だ、ということらしい

群衆とは具体的に集まった人々のことだろうか?

 

オルテガ『大衆の反逆』】 

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消費者であることによって群衆と化してしまう、なんて書いてみましたが、よく考えたらおかしな話です。大衆ならよくわからん有象無象でありどこの誰ともわからない社会現象かもしれませんからそんなこともありえそうですが、群衆ってもっと具体的に集まった人のことじゃなかったんでしょうか。やっぱり私の書いてみたことは間違っていたのかもしれませんが、ル・ボンを読むと思っていたことと少し違うことが書いてもありました。

 

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多数の個人が、偶然により合ったからといって、組織された群衆の性質をおびるものではない。千人ばかりの個人が、何らはっきりした目的もなく、たまたまある広場に集まったからといって、少しも群衆的心理を構成するわけではない。

 

意識的個性の消滅、感情や観念の同一方向への転換、これは、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴であるが、多数の個人が同一場所に同時に存在せねばならぬことを必ずしも意味しない。離ればなれになっている数千個の個人でも、あるときには、例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある。

 

【ル・ボン『群衆心理』】 

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ただ人が集まった群衆という形ではなく、群衆となることによって起こる心理の変化(=群衆心理)が問題だ

これを読みますと、別に群衆は具体的に人が集まっていなくてもかまわないようにも思えてきます。さらに続けてル・ボンは

 

そのときたまたま個人が集合しさえすれば、ただちに彼等の行動は、群衆の行為に特有な形式をおびるであろう。歴史上ある時期には、六人ばかりの人間でも心理的群衆を構成することがあるし、これに反し幾百人の個人が偶然集まっても、それを構成し得ないこともあろう。また他面、一国民全体が、これといって眼に立つ集団をなさなくても、何らかの影響を受けて、群衆となることが往々ある。

 

と言います。

 

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つまりル・ボンは群衆という人の集まりだけを問題としているわけではないわけですね。そうではなく、群衆という形が生まれた時点で起こってくる心理的変化を問題にしているわけです。そのため群衆論ではなく『群衆心理』となるわけなのでしょうね。

 

国民単位で影響を与えるものと広告/宣伝と群衆化

これを見ますと、なにも群衆とは具体的な人間の集まりを指すだけではなさそうです。特に最後の、一国民全体が、これといって眼に立つ集団をなさなくても、何らかの影響を受けて、群衆となることが往々ある、というのは、なんとなく今の私たちの生きている世界とよく似ている気もしてきます。

 

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一国民全体、というのは、とりあえず日本人とかフランス人みたいなもんだと思っておきましょうか。そして何らかの影響、というものを広告による宣伝と捉えてみましょう。すると広告/宣伝を日常的に浴び続けている私たちが群衆化していくことも、なんとなく言えないこともないんじゃないかな、と思えてきます(違うかも…)。

 

吉本隆明共同幻想論』】 

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フィクション/メディアによって作り上げられもする人々の意識

群衆とは違いますが、国家を形成するための国民が生まれるためには文学が必要だった、という考え方もあります。大きな単位をまとめていくためにはある種のフィクションがその繋ぎになったりするわけですが(愛校心とか社風とか)、その最も大きな単位が日本人らしさ、といったようなものなわけですね。別に日本人全員が勤勉で礼儀正しいわけではありませんが、そういうフィクションを共有することでお互いに近い存在であるように感じ結びつきが生まれるわけです(だから逆に結びつきのため嘘八百のフィクションが捏造されたりもする)。

 

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』】 

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https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/18/200043

 

【ホブズボーム『創られた伝統』】 

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https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/09/190028

 

 

つまり文学というフィクション/メディアによって、その範囲の人々はある種(国民として)の形を作り上げていく、というわけですね。広告や宣伝もそれと同じように国家単位の範囲で人々に影響を与えているはずです。それはもしかしたら文学と似たような形で人々の意識を何某かの仕方で作り上げていくのかもしれません。そしてそれが群衆っていうことになるのかな、という勝手な推測です(ちなみになんで文学なんかが研究されているのかといえば、こうして人々の意識に影響を与えてなにか別物へと作り上げていく役割を果たすものとして、そっくりそのままの状態で残り、かつ古来からいつの時代でもずっとあり続ける媒体でもあるからかもしれませんね。ついでに言うと、教養っていうのは、社会から与えられるこうしたものによって自然形成された自己意識を、自らの意思によって作り替えていくものとしてあるのだ、とも言えるかもしれません)。

 

ヘーゲル精神現象学』】 

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(自らの精神を作り上げていく壮大な哲学的ロマン)

 

群衆心理の応用としての広告/宣伝による群衆化の個人的仮説

もちろんル・ボンはそんなこと直接言っているわけではありませんから、私なりに応用して身の回りに当てはめてみただけなのかもしれませんけれどね。こちらももちろん私が間違っている可能性も大有りですから直接ル・ボン先生を読んで判断してもらえればいいのですが、そうして読んだものを通して自分なりに当てはめて考えてみることも、古典的書物を読む際の楽しみであったり利益だったりするかと思います。学者や思想家だって、新しい理論や概念を生み出す時は、こうして古典から汲んで生み出すわけですからね。素人だって自分なりに真似事して個人的に役立てたって悪くないでしょう。知識人がこうした古典を読むことを勧めるのも、読んだだけでなくそれを通して自分で考えることを期待しているはずですし、そうでないと四角四面に書いてある通りにしか受け取らなければとんでもない教条主義者にしかならなくなってしまいます。マルクス主義が生命を失ったのも、そうした教条主義者が主導権を握り、修正主義者を切り捨てたからかもしれませんしね(そういえば小室直樹ブラックマンデーの頃、ケインズが現れてくるまで主流派経済学は市場に任せておけばどうにかなる、としか言えず悪くなる状況をただ指を加えて見ているしかなかった、って書いてたことあったなぁ)。

 

【ベルンシュタイン『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』】 

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https://www.waka-rukana.com/entry/Bernstein

 

ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』】 

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なんか最後は自分なりの考えをした自己弁護みたいになってしまいましたが、長くなってしまいましたしこのあたりで終えておくことにします。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/01/170051

 

 

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お話その194(No.0194)