前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/04/03/170015
群衆という問題と対処策の難問 〜これは解決出来るような問題なのだろうか
群衆の特徴
ル・ボンによる群衆の特徴を述べてみましたが、簡単に言えば集団に身を任せ、そのために精神的に互いに感染されやすく、暗示によって動いてしまう、ということになるでしょうか。いわば理性的な判断や行動が出来なくなってしまう、ということでしょうね。
【ル・ボン『群衆心理』】
群衆化の問題
これが問題なのはよくわかる気がします。だって催眠術にかかっているようなものだ、と言われてしまえば、どんな人でも群衆化させてしまえば意のままに操ってしまえることになりますからね。そしてル・ボンはこんなことも書いています。
人間は群衆の一員となるという事実だけで、文明の段階をいくつもくだってしまうのである。それは、孤立していたときには、恐らく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。
つまりどれたけ個人でしっかりしていても、群衆に巻き込まれてしまえばそのような判断や行動は不可能になる、ということなのかと思います。
群衆に対置されるものはあるか 〜大衆における貴族/エリートに類するもの
もしそうだとすれば、一体どうすればいいのでしょうか。オルテガが大衆を問題とした時、明確ではないものの大衆に対峙する概念や存在として貴族/エリートというものを置くことができました。それは大衆が数を頼みに自分たちの正統性を疑いもせず、責任も持たずに好き勝手してしまう有象無象に対し、自らに多くを課し責任をとっていく者、というひとつの人間の理念=理想像でもありました。それは理念であるために実現した人物がいるかどうかはわかりませんが、少なくとも大衆に対峙させるものとして頭の中では想像することができました。そしてこうした理念をもって実在する大衆現象と向き合っていく方法もないわけではありません。
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/03/180023
【オルテガ『大衆の反逆』】
ですがル・ボンのいう群衆は巻き込まれてしまえばどんな人間でも群衆化してしまう、そのような存在のようです。となると、どうやって群衆の問題点から逃れればいいのでしょうか。それともみながみな全員で群衆と化してしまえば、そんなこと思わないですむもんなんでしょうか(ビートたけしの、赤信号、みんなで渡れば怖くない、みたいに?)。
オルテガのいうような貴族/エリートは責任や努力によって多少は補えそうですが、群衆はこの貴族/エリート(もちろん階級的貴族/エリートではなく、真の貴族/エリート)ですら群衆として巻き込むことによって同一化していくかもしれません。恐らくは群衆とは個人というものを失わせていく、そうした現象です。上の引用でもル・ボンは教養のある人であっても野蛮人と化してしまう、と述べています。教養のある、もしくは優秀であるか否か、ということは大衆化の問題であったかもしれませんが、群衆の場合はそんなこと関係ないのかもしれません。その人がどんな人か、ではなく個人でいられないことが問題としてあるのかもしれません。
対処策なき難問か?
考えられる対処策としては群衆に巻き込まれないように離れていること、近づかないことが考えられますが、もし群衆化が当たり前で日常化した状態であるとするならば、群衆から離れることによってアノミーと化してしまう危険性もまた出てくるかもしれません。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/31/180014
【デュルケーム『自殺論』】
(アノミーについてはこちら。簡単に言うと人々の共有している価値観と切り離され孤立化すると、自殺してしまうような混乱状態に陥る、といったようなもの。群衆が日常化しているとしたら、群衆から離れることが共有された価値観から孤立してアノミーになっちゃうかもしれませんね、というお話をしてみたわけです)
大衆の時と同じような難問(哲学的にア・ポリアなんて呼ばれたりもします。解決できない、ジレンマに陥った問題のことを指したりします)なのかもしれませんね。ただ大衆の場合は歴史的な人々の移動が共同体から引き剥がして大衆化させましたが、どうも群衆はちょっと違う成り行きがあるのかもしれませんね。
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/01/180054
【アリストテレス『形而上学』】
(難問/ア・ポリアはアリストテレスが使った言葉なのですが、いわば観察可能な自然現象を超えた、思索によってしか捉えることが出来ないにもかかわらず、その思索によって必ず思考のジレンマに陥ってしまうような問題のことを指すようです。哲学はこうした解決不可能な問題に対して、いかにして考えていくか、というような営みでもあるわけですね。そしてアリストテレスによってこうした哲学の形が整えられた側面もあるようです。
ですから哲学の問題がよくわからなくても当たり前といえば当たり前なのです。しかし困ったことに解決可能な問題を取り扱う自然科学のうち、最も自然科学的な物理学であっても突き詰めると解決不可能な領域に入り込まざるを得ず、時として科学でありながら哲学に迷い込んでしまい変な哲学になってしまう科学もあるそうです。ですが物理学のあまりの高水準に対し、哲学の思索に頼ったやり方は素朴にすぎるように見え、共に同じ問題を扱わざるを得なくてもまったく会話が成り立たずすれ違うばかりでもあるそうです。難しいですね)
次回のお話
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お話その189(No.0189)