一見同じように見えて違うもの 〜玉ねぎとカナヅチの使い方
となると一見同じように目えるものでも、実は違うということ。また一見違うように見えるものでも、実は同じということもあるわけです。
なにを当たり前のことを、とまた言われてしまいそうです。まぁ、その通りです。でもそれをわざわざここでは考えてみましょうね。申し訳ありませんね、そんなことばっかり。
玉ねぎとカナヅチの使い方の違いの場合
一見同じような似ているものを考えてみましょうか。
前回玉ねぎを炒飯に使うかカレーに使うか、カナヅチを釘を打つのに使うか人を叩くのに使うか、ということを屁理屈を述べて同じことのように説明してみました。どちらもXをAに使うかBに使うかであり、またXAとすればXBにはならない、という理屈でしたね。これはどちらも同じだから、どっちも同じ程度の問題といえる、と強弁してみるわけです。
しかし当然そんなことはありません。玉ねぎをカレーに使うかカナヅチを人を叩くのに使うかでは同じ程度の問題にするわけにはいきません。ということはこの2つの間にはXはAかBか、またXAとなればXBにはならない、といった以外の相違点があるわけです。答えは簡単です。人の命は玉ねぎと同じ価値ではない、というだけです。しかしこれが先ほどまでのX A Bの関係には入っていませんでした。
つまり本当なら、玉ねぎは炒飯に使うかカレーに使うかはどちらでもよい(XはAである と XはBである は等価である)、それは使う人が決めることである(XをAとするかBとするかは使用者Pが決める→P(XA or XB))、同じようにカナヅチを釘を打つ道具とするか人を叩く道具とするかは使う人が決める(XをAとするかBとするかは使用者Pが決める→P(XA or XB))、しかし玉ねぎと人とは同じ価値ではない(X1 と X2 は等価ではない→X1 ≠ X2)、よって玉ねぎとカナヅチの関係はP(XA or XB) = P(XA or XB)ではなく、P(X1A or X1B) ≠ P(X2A or X2B)であって全然違うのだ、ということになります。
整理すると確かに違うかも?(でも余計ややこしい?)
こうやって整理すれば確かに違うことがはっきりしますね。けれども玉ねぎと人の違いを区別せずに同じXで説明していれば、あたかも理屈の上では違いがないかのように錯覚させることができます。それもここではXとか A Bとか記号を使って説明しているから違いが明白になりますが(いや、こっちの方がややこしいかも…)、言葉だけでは区別がつきにくくなります。ましてや文章ではなく口頭で行われていればなおさらです。考える間もなく次々としゃべっていけばいいのですから、一々確かめている暇はありません。
こうして違うものでも一見同じように見せて、相手を誤魔化すことができてしまうのです。
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お話その5(No.0005)