イメージと具体性のありか 〜具体性はどこにある?
資本主義と生産と消費
さて、資本主義の運動はとどまることを知りません。事実上他の選択肢はありませんので、なんとか上手くいくように制御していくくらいが精一杯のようです。で、その一つに生産から消費への転換があったみたいですね。商品はじゃんじゃん生産しますが売れないと恐慌に陥ってしまうかもしれませんから、消費を喚起しなければなりません。つまり宣伝や広告によって購買意欲を持ってもらわなければならないのでした。これが消費によって回る経済ですね(多分)。
イメージと実体
ただ、この場合商品は商品そのものというよりも、商品に結びついたイメージによって購買意欲を持ってもらうものでした(他にも方法あるみたいですけどね)。しかしこの方法、消費を喚起するにはいいのですが、考えてみますと商品の質を吟味しないでイメージだけで買ってしまっていますので、下手をすると問題が出てきそうですよね。いいイメージを振りまいて非常に質の悪いものを売ってしまうことだって出来るわけです。悪徳商法の類はこれで、ガンが治るとかこれだけで痩せるとか、時々問題になってニュースで流れます。これはつまり、もともとそんな価値のない商品に強いイメージを結びつけているわけですね。いわゆる誇大広告です。
しかし商品を買うだけならそれでいいのですが、他の重要ごとだとそれですまないこともありますよね。いえ商品でもあまりに高額だと困ってしまいます。パンケーキやタピオカミルクティーを美味しそうにイメージさせてくれるくらいなら期待はずれでも、ちぇ、と言ってすませられますが、欠陥住宅ではそれですみません。それは購入し直せるような金額ではないからです。つまり取り返しのつかないものはイメージのままに動いては危険になる可能性が高くなります。
政治とイメージと共感
そして取り返しのつかないものの典型が政治的決定ですね。たとえばある政治家が戦争して領土取り戻せ、と発言して煽動していますが(当時)、私たちの耳に入ってくるのはこれくらいの発言で、どうやって戦争して、どうやって戦争を終結して、どうやって他の国からその行為を認めてもらうか、というところまでは入ってきません。つまりこの発言の段階では商品に対するイメージと一緒で、イメージだけが私たちに届けられていることになります。
でも、もしかしたらこの政治家のいうことに納得する人もいるかもしれません。相手は勝手に占拠して我が物顔でいるわけです。理はこちらにあり、というわけですね。ですから戦争しかけても相手が悪い、ということです。ですがそれはそれだけの話で、どうやって戦争して勝利し納得させるかは考慮に入ってないかと思います。つまり受け手もイメージで賛同しているわけですね。合い通じるのは、なんだこのやろう、という相手に対する反発です。この反発を共感しているわけです。そして共感で結びついてイメージを共有しているわけですから、細かい話はいらないのです。わかりあっているのですね、双方において。いわば以心伝心でしょうか。
具体性と専門家とその範囲
一方商品の品質や詳しい情報になるものは専門家に頼むしかありません。私たちは炊飯器を作ることが出来ないように、戦争もやったことありませんからね。炊飯器のことは炊飯器作った人に聞くのが1番な気がしますが、戦争となると自衛隊の人に聞いてみるのがいいのでしょうか。
しかし太平洋戦争で従軍した人の話を聞いたからと言って、戦争に勝てるかどうかはわかりませんね。戦争の現場を教えてもらえるでしょうが、勝てるかどうかはわかりません。いやいや、戦争だけならいいのですが、その後に手にした領土を国際社会に認めてもらわなければなりませんから、それは自衛隊の人に聞いてもお門違いになってしまいます。
こうなってくると、戦争で領土を取り戻せ、という発言によって起こってくる範囲はとても広くなってきます。戦争で取り返した領土を国際社会で認めてもらえるなら、そもそも戦争しなくても国際社会で認めてもらえるんじゃないでしょうか。いや、それが無理だから戦争だ、というのでは、領土を取り戻した後に国際社会で認めてもらうことが何故出来るのでしょうか。武力でとったものが正当性を持つのであれば、相手はすでに正当性を持ってしまっています。それに武力でとったもん勝ちなら戦争を否定する理由などありません。軍拡競争で勝ったものが世界の支配者ですが、多分それが決まる前に強大な軍事力のぶつかりあいによって世界の方が焦土と化すでしょう。となるとやはり戦争はさけなければならないように思えますが、そこを無理して戦争して奪い返しても、また交渉は残されたままになります。そりゃ、相手が戦争のどさくさに奪い取っていったからだ、とこちらは言いますが、いや、戦争で勝ち得た正当な領土だ、とあちらはいいます。これが反対になるわけで、戦争で取り返しても同じ状態のままです。
なんか物騒なたとえになってしまいましたが、ひとつのイメージの背景にはイメージだけしか理解しない私たちには思いもよらない関係が潜んでいる、というわけですね。炊飯器を作るには専門的な技術と知識が必要なはずですし、それはなにも商品だけでなくても同じはずです。しかしそうしたイメージの背景については、消費社会にならされきって、頭のてっぺんまでイメージに浸かってしまっている私たちには中々想像しにくいのでした。いわば炊飯器を見て機械としてどういう仕組みで成り立っているか理解するようなものなのかもしれません。それが出来るのは技術屋、つまり専門家ですね。
そしてこうしたイメージ中心で回る消費社会は、経済以外でも同じようにイメージ中心で動いてしまい、色々と問題も出てくるようです。
気になったら読んで欲しい本
ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』
消費社会や世界の記号化についてボードリヤールはとても有名なのですが、読んでもよくわからないような書き方をされています。
そんなボードリヤールですが、この本はそうした社会観を戦争に応用したものです。湾岸戦争は戦争として事実起こっているのだか、それがニュースによって伝えられる時、あたかも戦争映画のようにスペクタルとして届けられてしまう。その結果視聴者たる国民は、戦争ではなく戦争映画のように目の前の映像を消費してしまい、事実としての戦争は忘れ去られてしまう。いや、忘れ去られる以前に、視聴者にとっては戦争自体が存在していないに等しい。結果、湾岸戦争は起こらなかった、というわけです。
世の中のすべてがイメージ化してしまい、現実そのものがヴァーチャルなものとなってあらゆるものが消費していくための対象となる、というわけなのですが、ほとんど現在の姿そのものです。これを3〜40年前に書いているわけですから、あまり教養や専門書を馬鹿にするのもよくないと思います。といいますか、本当はだからこそ馬鹿にしてなにも知らせずに言うこと聞いてもらいたいのかもしれませんね。
なんて、こんなこと書いておきながら、この本まだ読んでないんですけどね。いけないなぁ。
大岡昇平『俘虜記』
ついでに従軍して捕虜となった記録文学としてこの本を載せておきましょうか。ボードリヤールの言っていることと対極にある具体性でしょうね。しかしこの具体性が転倒してイメージに飲み込まれてしまうのが現在で、消費社会というものなのかもしれません。興味あれば読み比べてみると面白いかもしれませんね。
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お話その122(No.0122)