日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

製作者の求める使い方と、想定される使い方 ~ひとつの道具/素材と可能性としての使用【おもしろい哲学】

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色々な使い方とみんなひっくるめた使い方 〜玉ねぎは炒飯、カレー、スープ、丸焼き?

作り手の使い方は絶対的か?

カナヅチや玉ねぎの使い方であれば、作った人の決めたことに従っていてもいいかもしれません。たしかにカナヅチで人を叩いてはいけませんし、壁を叩いてもいけません。ちゃんと釘を打って欲しいところです。

 

ですが、玉ねぎはどうでしょう。玉ねぎの使い方って、炒飯かカレーですむものでしょうか。スープにいれてもいいですし、丸焼きにしたっていい気もします(XはAである Bである Cである Dである…)。

 

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となると玉ねぎの使い方って、作った人によってどう決められるんでしょうか。まさか炒飯には入れてカレーには入れるなとは言わないでしょう。

 

限定されていると思われる作り手の使い方

まぁ、逆ならあるかもしれません。うちの玉ねぎは水分が多いので炒飯に入れるとパラパラになりませんよ、とか(XはAに適していない よってXはAではない と Pは意味づける)。ですがそれでも栄養が欲しいから私は炒飯に玉ねぎ入れるんです、と使う側が決めたら、別に作った人は文句言わないでしょう(製作者PはXをAとしない が 使用者UはXをAとする この時UはPの意味づけと関係なくAとして使用できる)。この場合玉ねぎの使い方は作った人じゃなくて使う人にゆだねられているわけですね。

 

じゃあカナヅチではなぜダメなのか。

 

前にも少し考えたかもしれません。そう、たしか釘を打つことと人を叩くことが同じ価値ではない、と考えた気がします(XはAである と XはBである は等価ではない)。『カナヅチで釘を打つ、それとも…』でそんなこと書きましたね。玉ねぎの場合は逆で、炒飯に入れるかカレーに入れるかは同じ程度の価値だ、と考えたのでした(XはAである と XはBである は等価である)。

 

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作り手による使い方の想定は網羅されない

となると、玉ねぎは作った人が決める意味づけは沢山あるということになるのでしょうか。炒飯、カレー、スープ、丸焼きなどなど。これらがずらずらと並び、そのどれもが作った人の決めた使い方ということになるのでしょうか。

 

これもナンセンスな気がしますね。だって玉ねぎ農家の人は玉ねぎ料理のレシピを全て知っているわけではないからです(PはX(A B C…)を網羅しない)。そりゃ私たちよりはくわしいでしょう。でも料理人以上にくわしいとは考えにくいですね。また日本や有名な国の玉ねぎ料理は知ってても、聞いたこともない国の民族料理なんてまず知らないでしょう。有名でもインドの地方の郷土料理で使われる玉ねぎ、なんて、食文化を専門とする学者にでも聞かないときっと知らないと思います。

  

 

そうすると作った人の決める(もしくは想定する、でしょうか)玉ねぎの使い方というのは、個別的には知らなくていい、ということになります(PはXの意味づけA B C…に対して未知である)。これから作られる玉ねぎの創作料理なんてのも含めたら知りようもないですしね。

 

作り手が想定するのは大まかな使い方?

じゃあ玉ねぎを作った人の決める使い方とは一体なんでしょうか。

 

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そりゃ簡単ですね。料理に使って欲しいわけです。つまり玉ねぎの使い方は料理であって、その中に炒飯やカレーにスープと丸焼きも含まれているわけです(PにとってXはA B C… でなく A B C…を含むIである 即ち X I(A B C…)である)。個別的な使い方というのは、一つのもっと大きな枠組みの中で細分化されたものだ、ということになるのですね。

 

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お話その9(No.0009)