前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/04/21/170028
群衆の特徴や手段と、消費経済における広告/宣伝 ~私たちは消費者だから群衆になっちゃうの!?
消費者としての群衆
現代における群衆は消費者として現れる、なんて書いてみましたが、別に物を売るのに宣伝や広告が必要だとしても、なにも群衆とやらにならなくてもいいような気もします。もうちょっと考えてみましょうか。
群衆の特徴 〜自己喪失・感染・暗示
群衆の特徴に我を失って周りに感染され暗示にかかりやすくなる、というものがあります。いわば個人が失われてしまうといった状態で、それは個人でいれば教養深く賢明な人物であっても、ひとたび群衆の中に入り込んでしまえば逃れられなくなるような特徴としてル・ボンは述べます。
【ル・ボン『群衆心理』】
群衆の説得方法 〜断言・反復・感染
しかしそれだけでなく、ル・ボンは群衆の指導者とその説得方法として次のようにも言います。
群衆の精神に、思想や信念ー例えば、近代の社会理論のようなーを沁みこませる場合、指導者たちの用いる方法は、種々様々である。指導者たちは主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反復と感染である。これらの作用は、かなり緩慢であるが、その効果には、永続性がある。
およそ推理や論証をまぬかれた無条件な断言こそ、群衆の精神にある思想を沁みこませる確実な手段となる。断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ。あらゆる時代の宗教書にせよ法典にせよら常に単純な断言の方法を用いたのである。何らかの政治上の立場を擁護すべく求められている政治家とか、広告で製品を宣伝する産業家は、断言の価値を心得ているのだ。
つまり群衆を説得するためには断言して反復させることによって感染させていけ、というわけですね。そしてそうしたやり方は政治家によって行われてるだけでなく、広告で製品を宣伝する産業家も同じである、ということがはっきりと言葉にもされているようです(今見直して気づいた)。
政治と群衆的手段
群衆への説得、と言いますが、言い方を変えれば指導や操作といえないこともありません。政治の場であれば、本来個々人がよく考えて判断するべき民主主義において、群衆的手段が取られることは御法度のようにも思います。少なくとも民主主義より衆愚政治へと堕落させるやり方でしょう。ですが思い返してみれば小泉純一郎元総理はワンフレーズ・ポリティクスなんて呼ばれていましたから、群衆的手段そのままなやり方だったわけですね。推理や論証をまぬかれた無条件な断言なんて、そのままの説明にも思えてきます。そして橋下徹元維持代表や安倍総理になると、敵対した相手に群衆的手段を行い自らの立ち位置をよく見せるように演出してるんですね(まぁ野党も同じなのかもしれませんが、上記の人たちは権力を握りながらやっていることと、群衆的手段ばかりが洗練されているところが違うのかもしれません。それは自らの意を通す政治的手腕の証明かもしれませんし、有権者を群衆としてハナから馬鹿にしてるのかもしれません)。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051
【大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』】
消費経済における広告/宣伝と群衆的手段
まぁどちらにせよ政治で群衆的手段ばかりを使われると社会が衰退していくと思われるのでやめてほしいですが、もうひとつのポイントである広告としての宣伝はやめるわけにはいきません。というのも私たちの生きている経済状況はすでに消費経済だからです。必要なものはあふれ、広告による宣伝によって消費のための欲望を生み出さなければなりません。そのためには広告によって宣伝しなければならないのですが、その時もまた群衆的手段によって宣伝されます。つまり断言・反復・感染です。
TVCMと群衆的手段の特徴 〜断言・反復・感染
適当に広告や宣伝を思い返してみても、これらはきっちり踏まえられているように思います。ネットが出てくるつい最近まで、広告の王様はTVCMだったかと思いますが、TVCMでも記憶に残るものはたくさんあったはずです。しかし一度目にしただけで記憶に残るわけではありません。何度も繰り返し見るから記憶に残るわけです。
TVCMの場合各TV番組の間に流れるわけですが、それぞれのCMは大体15秒か30秒くらいかと思います。その時間内に商品の十分な説明など不可能です。自然イメージを結びつけることによって消費者に訴えかけることになりますが、同時にCM独特のセリフも入ります。このセリフもまた短い時間に入れ込むことは難しいはずで、こちらも自然断言のようなセリフになっていることが多いかもしれません。
またTVCMはある一定期間中流され続けます。それもスポンサーとしてつく大企業の場合、各局各番組でCMを流すことになります。そうして流されるCMも同じ期間は同じものが流れます。当然何回も何回も繰り返し見ることになりますので、反復して消費者はそのメッセージを受け取ることになります。
さらにまた口コミの価値もあります。記憶に残るCMはインパクトがあったり面白かったりするわけですね。たとえば最初ソフトバンクのCMで犬のお父さんが出てきた時は印象に残ったわけです。最近だとどんべいのCMで吉岡里帆扮するどんぎつねさんがいなくなって星野源だけになってしまいました。今までいたのにどうした、とちょっと話題にしたくもなります。となると人と人との間で広まっていき、そのCMの効果は感染されていきます。
【広告を知るための百冊の本】
ネット社会と群衆の関係
TVの頃のCMでも十分群衆的手段によって広告が作られていることがよくわかる気がしますね(もちろん私が見当違いしてる可能性もある)。これがネットの登場によって変化したかといえば、なにも変わっておらずむしろ加速されたのではないでしょうか。少なくとも感染の要素はTVなどとは桁違いに強くなったと思います。断言もTwitterなどの短文形式であればより強くなるかもしれませんし、そもそ長文が嫌われるネット文化では満足な推理や論証も難しい気もします。いえ、あってもほとんどの人は読まないかもしれません。ネット上に高度な推理や論証があったとしても読む人が絶対的に少ないとしたら事実上ないのと大差ないかもしれません。そしてTwitterで拡散されるということは感染されるだけでなくあちこちで繰り返し見ることになるとすれば、反復も十分行われていることになります。
資本主義システムと広告/宣伝と群衆
こうなってくると広告だけでなくネット状況の発展もまた群衆的状況を生み出すうえで大きく役割を果たしているのかもしれません。ネットの登場と共に世界中でかつてあった(と期待される)民主主義政治が瓦解しているのは、こんなところにも理由があるのかもしれませんね(今書きながらそんなこと思ってきた)。しかしそれよりも前に消費者として広告に慣れ親しんでいることもまた、群衆的状況に我々が皆放り込まれていることになっているのではないかと思います。そして広告を必要とする消費経済は、資本主義のシステムが動く限りは絶対なくならないはずです。資本主義とは絶えず商品を生産するシステムだからです(と、マルクスが言っていたような気がする)。商品が余れば恐慌になり、絶大な経済的被害が起こります。それを避けるためには余った生産品である商品は買ってもらわなければならず、そのためには広告による宣伝が必要です。そして広告による宣伝は群衆心理を操作する技術によって洗練されており、消費者として生きなければならない私たちは常に群衆として巻き込まれていることになるわけです。
【ボードリヤール『消費社会の神話と構造』】
なんか前回と同じような内容にもなってしまいましたが、またこれ以上混乱しないうちに終えることにしたいと思います。
次回のお話
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お話その193(No.0193)