- 大衆と群衆の違いはどのあたりにあるのだろうか 〜似てるようで違うような…
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大衆と群衆の違いはどのあたりにあるのだろうか 〜似てるようで違うような…
簡単に群衆について書いてみましたが、書いているうちに以前見た大衆と群衆がどう違うのかわからなくなってきました。一応大衆は正体不明な社会的な現象で、どこの誰だがわからない有象無象であるが、群衆は具体的に集まった人々の群れ、というように理解できそうに思っていたのですが、群衆もまた具体的に集まっている必要なく現れるというのであれば、その差も大きくないように思えてきます。
ル・ボンは次のようにも言います。
意識的個性の消滅、感情や観念の同一方向への転換、これは、組織されつつある群衆に見られる最初の特徴であるが、多数の個人が同一場所に同時に存在せねばならぬことを必ずしも意味しない。離ればなれになっている数千個の個人でも、あるときには、例えば国家の大事件のような、ある強烈な感動を受けると、心理的群衆の性質を具えることがある。
そこで力不足かもしれませんが、一応私なりに大衆と群衆がどこが似ててどこがちがうのか考えてみたいと思います。
1.具体的な人間を指すものではない。
おそらくは大衆も群衆もどこかの誰かということではないかと思います。
たとえばお隣の佐藤さんは佐藤さんであって、大衆でも群衆でもないわけです。それは田中さんが佐藤さんに対して具体的にどんな人物であるのか大体把握することが可能であり、佐藤さんがもしいかに愚かで嫌な人物だったとしてもそれは佐藤さん個人の人格に帰するものと考えられるからです。
佐藤さんや田中さんは具体的な特定の人物です。そのため同じ性別、同じ年齢、同じ特徴を持っていようと交換不可能な存在です。お互いに独立したひとつの人間、人格であり、決して他の何者かによって侵されたり変更されたりするような存在ではありません。こうした他と独立した具体的な人間存在のことを柄谷行人は単独者と呼びましたが、その意味で大衆や群衆は単独者を指すものとは異なります。
【柄谷行人『探究』】
2.社会的な現象である。
一方大衆や群衆は現象であると私には考えられます。
大衆も群衆も具体的な人間存在=単独者を指しませんが、そうした単独者多数を包括した人々の現れ方を指していると感じます。それは具体的な誰かではなく、どこの誰だかわからないけれど確かにそのような形で現れているように思われるものであり、しかもそれらはただ人が集まれば現れてくるものではなく社会の在り方の結果必然的に現れてくるもののように思えます。そのため大衆や群衆は社会的な現象であると考えてみます。
【デュルケーム『社会学的方法の基準』】
3.社会的な現象を規定する概念である。
大衆や群衆が社会的な現象であるとすれば、その現象に対してどのような意味や現れ方をするのかを分析・理解しようとしたものがオルテガの『大衆の反逆』やル・ボンの『群衆心理』であると考えることが出来ます。そのため大衆や群衆というものは、そうした分析を通して形作られたひとつの概念であると考えてみることも出来ます。つまり大衆や群衆というものは社会的な現象として私たちの前に現れているのですが、それがなんであるのか理解できるように説明したものが大衆なり群衆なりといった概念となるわけです。現象(事実)/概念(理解)という関係にあるわけですね。
【ドゥルーズ/ガタリ『哲学とは何か』】
4.集団的な人間存在の在り方によって現れてくる。
大衆も群衆も社会的な現象であるとして、その現れ方は共に人間の集団から起こってくることは共通していると考えられます。大衆も群衆も個人心理ではなく、集団心理の一種であるように思いますが、その心性は大衆なり群衆なりの中にいることによって起こってきます。そのため人々の集まった、集団的な現象でもあるということになります。
【ホーマンズ『ヒューマン・グループ』】
5.集団から個々人へと影響を与える。
そして社会的な現象であると同時に集団的な現象でもある大衆や群衆は、その中に巻き込まれてしまうことによって個人としての独立性が侵され集団的な現れ方に影響される、と考えられていると思います。個人のままであればそのような判断や行動をとらなくても、影響されてしまうことによって大衆なり群衆なりの特徴そのままを現してしまう関係にある、と考えられている気もします。大衆であれ群衆であれ、個人であれば判断されるであろう合理性からかけ離れています。しかしそれは集団的な社会現象であるそれらによって、理性によって判断される(と期待される)個人を失わせてしまうからだといえます。つまり大衆や群衆は集団的な現象であることによって、個人を埋没させてしまう現象なのだ、と考えてみます。
【ミード『精神・自我・社会』】
6.群衆は我を忘れさせ、相互感染し暗示にかかった状態になる。
そうした社会現象であるうちの群衆は、特に集団埋没的な現象かもしれません。個々人は賢明であったとしても、群衆に巻き込まれることによってそうした個人的特性を失わせてしまうからです。その結果群衆の場合お互いに感情が感染しあってしまい、集団的な暗示にかかりやすくなってしまうと言います。しかし暗示をかける指揮者の役割を果たす存在はあり得るわけで、完全に無軌道というわけでもなさそうです。
【ル・ボン『群衆心理』】
7.大衆は人間類型的であり、経済システムの変化により都市へと大移動したことにより現れた。
一方大衆は集団的な特徴というよりも人間類型に近いかもしれません。大衆と対置される概念は貴族/エリートとして自らに多くを課す者を想定されますが、それに比べ大衆は数を頼みとすることによって自分たちの正当性を押し通し、にもかかわらず何事も努力しないままで結果だけ得られると考えているようなものと規定されています。これは群衆に比べそうした状況におかれると現れてくるというものではありません。そうではなく、現代の問題として大衆なるものが現れ主導権を握った、と分析されています。すなわち本来資格のない者が責任ある場所を占めるようになった、というわけですね。
【オルテガ『大衆の反逆』】
そしてそうした大衆が現れてきた原因が、経済システムの変化によって起こった人間の都市への大移動ではないか、と考えられます。それまでは土地が経済システムの中心であり、生活様式もそれに沿ったような共同体として価値観も含めて人々を規定していました。それが都市へと移動し切り離されてしまうことにより根無し草の状態となり、近代人は大衆化したと考えてみるわけです。これは群衆の現れ方とは違うはずです。
【神島二郎『近代日本の精神構造』】
8.大衆も群衆も人間精神を退化させる。
しかし共通する点として、大衆も群衆もその状態に陥ると本来の精神状態から後退した水準に落ちてしまう、ということが考えられるかと思います。
群衆は感染と暗示ですが、大衆はそもそも自らに大くを課さない無責任な存在として仮定されています。またオルテガもル・ボンも自らの分析した対象を野蛮人のように捉えていた面もありました。少なくとも2人は文明人として必要とされる状態とは異なる状態に陥ると考えていたようにも思えてきます。
【レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』】
拙いかもかしれませんが、とりあえずこのような形でまとめてみました(ちょっとついでに関係ありそうな本もムリヤリ載せてみました)。間違っているかもしれませんし、オルテガやル・ボンの意を汲めていないかもしれませんので出来れば直接読んでもらえれば嬉しいのですが、長くなってしまいましたし力尽きてもしまいましたので今回はこれくらいで終えることにします。あぁやっぱり力不足だった…
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お話その197(No.0197)