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『デビルマン』と群衆の表現
『デビルマン』に描かれる恐慌状態
群衆について書いてきましたが、ふと思い出す作品がありました。永井豪の『デビルマン』です。
【永井豪『デビルマン』】
(私が読んだのは文庫版。でも新編集版で、連載時のものとは違うらしい)
『デビルマン』は少年漫画の不朽の名作とされる傑作ですが、少年漫画と呼ばれるイメージから連想されやすい(かもしれない)活劇とは一線を画しています。たしかに悪魔と戦うデビルマンの姿が描かれているのですが、恐るべき迫力をもってせまってくるのは物語終盤に訪れる人々の恐慌状態です。そして『デビルマン』に描かれているこの恐慌状態こそ、群衆として現れる現象の、ある種極端だけど典型的な群衆の姿を表現したもののように思えてもくるのでした(以下ネタバレ)。
(その表現は作品のラストで描かれています)
『デビルマン』のあらすじ/概要
主人公の不動明は悪魔(=デーモン)と戦うために悪魔と人間の合体したデビルマンとなり戦っていきますが、終盤悪魔たちは無差別に人間と合体してデビルマンをあちこちで生み出してしまいます。それに怯えた人類は、同じ人間でありながら、もしかしたら悪魔と合体したデビルマンではないかと疑心暗鬼になります。それどころか悪魔は嘘がうまく人間にまぎれて隠れていると宣伝されもします。その結果あちこちで魔女狩りが行われ、悪魔、デビルマン、人間と問われることなく殺されていくのです。そして不動明もデビルマンであることが知られ人々から追われていきます。
ですが人々は不動明の存在だけでは満足しません。明と共にいた、幼なじみの家族たちも同じようにデビルマンではないのかと疑心暗鬼になります。明を追い出した幼なじみの両親は逃したと捕らえられ、残された子どもたちも疑われてしまいます。そして彼らの疑いは不安とともに高まり、集まって幼なじみの家へと襲撃するのでした。
暴徒と化した人々は不動明と関係する人間を見つけては全員を血祭りにあげていきます。その様子は凄惨の一言であり、虐殺でしかありません。しかし幼なじみたちを悪魔の一味と人々は思い込み意識を奪われています。冷静さなどどこにもなく、ただただ惨殺を行うのでした。
恐慌状態のセリフ
その時のセリフは次のようなものです。
牧村のオヤジと女房はつかまったぞ
だが娘とチビがのこってるぜ
チビと娘が!
悪魔の娘だぞ! 悪魔の夫婦の子どもらだ! 特攻隊がつれていかなくても 悪魔でないといいきれん
特攻隊がやらないならわれらの手で
町から追放するのか…
追放したらあとでしかえしをされるかもしれない
ただの娘と思うな! 悪魔でないとしても 悪魔の血がながれているにちがいない
悪魔のしもべだ
悪魔の使いだ
魔女だな
そう魔女だ
あんなかわいい顔をしているのに魔女なのか
だから魔女なんだ かわいい顔で心のみにくさをかくすのだ
追放しないでどうするんだ このままにはできないぞ
悪魔の血をすいだせば…
娘のからだを切りきざみ悪魔の血をすいだせば それで人間にもどるのか…⁉︎
こうして人々は不動明の幼なじみの家に、我が身を守るべく籠もっていた人間を全て殺してしまうのでした。
群衆の否定的な面を凝縮した表現
この時の人々在り方が、群衆の否定的な面を凝縮したもののようにも思えてきます。幼なじみたちがデビルマンであることにはどこにも確証はありません。しかし彼らはそれがあたかも事実であるかのように受け取ります。それだけでなく解決策として悪魔の血を吸い出せばいい、と勝手な解釈を生み出しており、それもまたどこにも根拠がありません。つまりデマなわけです。しかしそれがデマであるのか事実であるのかは、検証される間もなくそのような意思も時間もありません。なぜならば彼らは不安と恐怖に突き動かされているからです。
【オルポート『デマの心理学』】
そしてこうした不安や恐怖は集まった人々によって共有されていますが、それはお互いの不安や恐怖が感染しあっているようにも見え、どこに根拠があるのかもわからないものを信じたり虐殺をものともせずに向かっていく姿は自らで暗示をかけているようにも感じます。さらにそう叫ぶ人たちは暗闇の中目だけが描かれたりいくつも顔が並べらりたりして無個性と化しています。群衆の特徴であった没個性・感染・暗示がすべて含まれているように思えるのでした。
【ル・ボン『群衆心理』】
宣伝とデマ
また群衆を生み出すかのように思えた宣伝の様子も描かれています。それは不動明と共に悪魔と戦っていた飛鳥了が、なぜか寝返り悪魔根絶の声明を出すセリフです。ちょっとまた引用してみましょう。
親友:不動明のすがたをした悪魔は まだ人間としてくらしています
そして
いま あなたのとなりにいる人も悪魔にとりつかれた人間かもしれないのです
あなたの父のすがたをした悪魔 あなたの母のすがたをした悪魔 あなたの兄弟 あなたの子ども…
あなたの友人のすがたをした悪魔なのです! 考えてみてください となりにいる人はほんとうにその人か!
以前とかわったところはありませんか… 悪魔はウソがうまいのです…
悪魔は演技がうまいのです… 悪魔はそっくりになりすますのです さー さぐってくださいとなりの人を 見つけてください悪魔どもを…
そいつが悪魔の正体をあらわし あなたにキバをむいておそいかかってからではおそいのです
そのまえに…
あなた自身の手で殺すのだ!
【レーニン『宣伝・扇動』】
(ナチス/ヒトラーも行った宣伝の方法は、もとはマルクス主義によって行われたものでもあるそうです。これはレーニンによって書かれた関係あるものを集めたもののようです。私はまだ読んでません。なんかとても高いです)
またデマの元凶となったのは、悪魔の正体をつきとめたとするノーベル生理学者の研究発表でした。
悪魔の正体は人間だ!
人間の強い願望が自身の体細胞を変化させた!
現代社会生活の不満が増大した結果…そのやり場のない不満を別生物になることでみたそうとしたのだ!
(記者:するとそういった種類の人間は悪魔になる可能性があるわけですね)
さよう! その種の人間は悪魔になる以前に処分が必要!
殺せ!
現代社会に不満をもつ者を殺せ!
悪魔の因子を抹殺すれば悪魔は消える!
こうして暗示にかかりやすいとされる群衆の向かい先が指し示されてもいるわけです。
【シブタニ『流言と社会』】
【佐藤卓巳『流言のメディア史』/佐藤健二『流言飛語』】
【清水幾太郎『流言飛語』】
(流言について書かれたものを並べてみました。私が読んだことあるのは清水幾太郎のものだけです。
このような宣伝やデマも、かつてならメディアを抑えた人たちによって行われていましたが今やネットがメディアの中心になることによって誰でもが担い手になることが出来るようになりました。いわば寡占状態が解放されたのですが、当初期待された賢明な個人による情報発信とはかけ離れたものになってしまったようにも思えます。そうした中で宣伝やデマも善意もあればアノミーやルサンチマンの代償行為でもあり、愉快犯や本気で憤っている人もいてとても収拾のつくものではなくなっている可能性もあります。流言のメカニズムを知ることは伝えられる情報の真偽を見極めるだけでなく、自らもその担い手になってしまわないことを知るためのものでもあるかもしれませんね)
フィクションから学ぶ現実への対応
『デビルマン』は漫画でありフィクションです。しかし傑作であることは間違いない作品です。では何故傑作なのかといえば、現実や人間の真実を描くことに成功しているからだ、と考えてみることが出来るでしょう。
そして今の私たちが直面している状況や事態が『デビルマン』とどれほど近くて遠いのか、はかってみることも有意義なことであるかもしれません。せっかく表現でひとつの形が示されているのです。そこから学んで現実に現れてこないように気を配ってみるのも、フィクションを読む=批評としての役割なのかもしれませんね。
これからしばらく続くであろう世界中の毎日が『デビルマン』と遠いもので終わることを祈るしかありません。
次回のお話
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お話その196(No.0196)