前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/04/07/170055
群衆の特徴と共同体的特徴の類似の可能性 〜群衆って村人みたいなもん? これらは似ているのだろうか…
近代的現象としての大衆と、共同体的とも思える群衆
大衆が現れてきた理由に、近代に起こった人間の歴史的な大移動が考えられるような気がしました。かつては農業が富の源泉で経済の中心であり人々は土地と共に生きていたのに、生産中心の経済システムに変わって大量生産のため分業化が起こり都市に人間を集めることによって、本来生きていた村=共同体の価値観から引き剥がされ根無草としての大衆が現れてきた、というものですね。
【オルテガ『大衆の反逆』】
(大衆を分析したオルテガの本。ただオルテガはこうした推移で大衆が生まれたとは書いてなかったような気がします。もしかしたら私の勝手な勘違いかも…)
【アダム・スミス『国富論』】
(そしてアダム・スミスは分業によってこそ生産を増やすことができて、生産中心の経済に変わっていったことを確か書いていたと思います。そのため『国富論』の冒頭は分業についてから書き始められています。私は多分こうした他の色々な本に書いてあることから、上のような考えを持ったのかもしれません)
それに比べると群衆はこうした経済システムや生活様式の変化とは異なる理由によって生まれてきたようにも思います。群衆はフランス革命の原動力のひとつにもなったので近世/近代的な現象のように思えてきますが、人が集まって個人が失われてしまうのであれば、むしろ共同体に生きた時代にありそうな現象の気もしてきます。
群衆の特徴と共同体的日本社会の特徴の類似 〜群衆と空気を読む
たとえば日本では近代的自我が弱く、空気に流されてしまう、という批判は昔からあります。日本の近代化が中途半端だとは明治時代から言われていたかもしれません(漱石や鷗外の日本近代化批判はどんなだったっけ…?)。そして戦後は日本の近代化未だならず、といったところで、土着的な価値観のもと合理的判断が阻害されるのでなんとか乗り越えましょう、というお話だったと思います。この土着的な価値観こそ共同体的な価値観であり、日本という国は第二の村としてあって近代国家として完備されていない、というのが神島二郎の考えだったような覚えもあります。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019
【『夏目漱石全集』『森鷗外全集』】
【神島二郎『近代日本の精神構造』】
(近代国家というものは本来ひとつの合理化されたシステムなのだが、日本では田舎の秀才が中央に出て政治・経済といった社会の中枢をとりしきり、その際村の価値観をそのまま国に広げて作り上げ、結果日本は合理的国家としてではなく第二の村として成り立った、というようなものだったと思います。説明に自信ありませんので、よければ手に取ってみてください)
なんとなぁくですが、群衆の同調性や個人の喪失とか、日本的な空気を読むってことと似てるような気もしてきます。もちろん全然違うのかもしれません。ですがもし群衆が大衆のように近代社会的なものではなく共同体的なものであるとすれば、日本の村(=共同体)的価値観のため空気を読んでしまうんだぞ、という問題と重なってくる面もあるのかもしれません。
【丸山眞男『超国家主義の論理と心理』】
(日本において空気を読むことを恐らく最初に問題とした本。その後丸山眞男は日本の古層にまでその原因の探求を進めていくそうですが、私はそこまで読めていません)
文明の段階を落とす群衆というもの
そういえばル・ボンは群衆についてこのようにも書いています。
人間は群衆の一員となるという事実だけで、文明の段階をいくつもくだってしまうのである。それは、孤立していたときには、恐らく教養のある人であったろうが、群衆に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ。原始人のような、自然さと激しさと凶暴さを具え、また熱狂的な行動や英雄的な行動に出る。
群衆が悪いだけでなく立派なすごいこともする、というわけですが、それが文明の段階を落とし原始人みたいな状態になる、というわけでもあります。少なくとも近代文明特有に現れてくるというよりも、むしろそれ以前の時代の現れ方として近いようにも思えてきます。となると群衆が都市民としてより共同体の一員として似てくる、というのは私の勝手な考えとはいえもしかしたら何かしらの関係もあるのかもしれません。
【ル・ボン『群衆心理』】
(そしてル・ボンが群衆について書いているのがこの本なのですが、丸山眞男と比べてみるのも面白いかもしれません。似てるのか、違うのか、どっちなんでしょ?)
祭りと群衆
たとえば村には大抵祭りがあります。祭りの最中に起こってくる熱狂は、群衆的特徴と似ているような気もします。大勢が集まり神輿を担いだり踊ったりしている中、ひとり冷めた状態でいることも難しいでしょうし、冷めていればその場に止まり続けているのも難しいかもしれません。これがよその村の祭りならともかく、死ぬまで居続ける村であれば、下手に拒絶すれば文字通り村八分にされてしまう可能性もあります。逃れにくい関係性にあるのも、なんとなく似ている気もしてきます(とはいえ根拠はないので、ル・ボン先生の言うこと聞いてみてください)。
【ベルセ『祭りと叛乱』】
(こんな本もあります。ただ私は読んでいません。とあるブックガイドに載っていたのを思い出し、載せてみした)
ただル・ボンのいう群衆は、文明化された近代ヨーロッパであっても、こうした野蛮人/原始人化させてしまう働きや特徴を持っているがゆえに特筆するべき現象である、というように受け取ってみることも出来る気もしてきます。
まぁ私にははっきり似てるとも違うとも証明出来る能力はありませんので、なんとなく共同体的な在り方と似てるような気がするなぁ〜、というだけのお話として、今回は終わることにしたいと思います。
次回のお話
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お話その190(No.0190)