前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/03/180023
大衆と選ばれる者 〜私たち、という理由で選ばれる自らに多くを課さない指導者
選ばれた少数者 〜貴族・エリート
オルテガのいう選ばれた少数者というのは、翻訳にもよりますが貴族とかエリートとか呼ばれます。しかしそれが制度的な階級の中で貴族やエリートである必要はないわけですね。自ら進んで要求を課し困難へ向かうような人のことを指しているわけです。さんまは別に偉い学校出たわけでもありませんし、じゃあNSCで首席ならエリートなのかといえば、多分関係なく実力の世界でしょう(でもゆりあん主席だったらしいけど)。ロザン宇治原は京大出身のインテリ芸人ですが、だからといってさんまのように扱ってもらえるわけではないですしね。
ともかくオルテガは選ばれた少数者についてはあまり説明してくれません。中心になるのは大衆の方です。そして大衆の描き方はとても豊かなのですが、その分私にうまく説明出来るか自信がありません。けど自分たちに引き寄せながらちょっと頑張ってみましょう。
私たち、という大衆
大衆とは世の中に満ちていて、自らになにも要求しない人々、とは前回までに書いたかと思います。それだけでなく、世に満ちている、つまり大多数であることによって自分たちが正しいと考えている、ともいいます。しかしその自分たちは具体的な誰を指すのかは不透明なままで、ただ私たち、というそれだけで正しいことを自分たちで認めてしまうそうです。昔たけしが漫才で言っていた、赤信号、みんなで渡れば怖くない、ってやつですね。みんな=私たちが一緒であることが正しい理由なのです。その中身が正しいかどうかは問題ではなくなっているわけですね。
自らに自閉する大衆の思想
そして大衆は思想というものも既に自分の中に持っているのだ、ともいいます。しかしそれはたとえばヘーゲルの思想とかダーウィンの思想とかいうものではありません。これは特筆される1人の人物によって築き上げられた思想です。いわば選ばれた少数者によって作り上げられた思想なわけですね。これは大抵アホみたいに難しいですが、そうした難しい思想を自分の中に取り入れるのもとても大変です。そうしたことが出来るのも、まぁオルテガ流に言えば選ばれた少数者のなせるものかもしれませんが、大衆はそんなことしません。では大衆は自らの思想をどこで得るのでしょうか。それは自分の中を探ってみて見つけた幾ばくかの思想らしきものを、自らの思想とするのだそうです。そしてそうした思想を完全なものとして外を見ないといいます。
ちょっと引用してみましょう(幸い文面を見つけた)。
こうした人間は、まず自分の中にいくばくかの思想を見出す。そして、それらの思想に満足し、自分を知的に完全なものとみなすことに決めてしまう。彼は、自分の外にあるものになんらの必要性も感じないのであるから、自分の思想の限られたレパートリーの中に決定的に住みついてしまうことになる。これが自己の閉塞のメカニズムである。
(オルテガ『大衆の反逆』ちくま学芸文庫版)
まぁそうした人がいるのは当たり前かもしれませんね。むしろそこらへんにすぐいそうですし、私だって自分(特に過去の)を振り返れば当てはまることこの上ありません。しかし個人としてこうした特徴をもっているだけならば、ただパーソナリティの問題として扱われるだけで終えられるかもしれません。
選ばれた大衆人 〜自らに多くを課さない指導者
しかし、大衆の特徴はこれらのことだけではなく、世に満ちていること、そして本来なら選ばれた少数者が座っているべき場所にも座ってしまっていることです。それはさんまのように芸やTVの世界だけでなく、政治や他の世界でも同じです。
たとえばとある政治家は自分の人生経験でなんでもわかる、と言い学者の本を読むことは時間の無駄、とやりこめたそうです。その人の人生経験はもしかしたらとても素晴らしいものなのかもしれませんが、それで世界の全てを尽くせるわけでは、さすがにありません。経験というものは波線(〜/世界)の中から点(・/個人の接点)をとってきて繋げた線(…→ー/経験)みたいなもので、点を重ねていくら線を引いても個人的な線が引けるだけにしかならないのです。それはAさんもBさんも同じように自分の中に持っていて、主観的なものです。主観的なものだからその人にとっては特権的な価値を持ちますが(だから尊重してあげないといけない)、だからといって世界の全てを尽くせるわけではないのです。
それはさんまがいくら芸人・TVタレントとしてならびのない一流であっても、料理人でもなければ科学者でないのと同じことです(小林秀雄は宿命って言い方してたかな)。そしておそらくさんまはそうしたことをわかっているから、自分の世界から外には出ないのかもしれません。自分が人気者だからといってそのままその人気を利用して政治家になって権力を持とうとは考えず、自分がよく知り力を存分にふるえる世界=芸能界から出ませんし、それも笑いの中におさめてしまいます(ただたけしはそれをさんまの教養のなさで弱点かも、と最近新著で書いたらしい)。おそらく紳助が引退しても政界に出ないのも似た理由かと思いますが(少なくともサンデープロジェクトの前日に怯えて逃げるくらいに彼我の差を感じた)、しかしタレントとして名を知られた人(もしくはタレント的な手法で名を売った人)が最近はよく政治家になります。まるで政界がタレントの新天地かのようですが、そこには全く別の学ぶべき領域が存在する別世界であることを忘れているような気もします(けどよそ者がバラエティに来ると厳しい洗礼を与え、玩具とならない限り生き残らせない)。理由はなんでしょうか。オルテガ流に言えば、その人は選ばれた少数者として自らに多くを課さない大衆でしかないからだ、ということになるでしょうか。しかし逆説的にその人は大衆によって選ばれた少数者になるのでした。そしてそのように選ばれるためには大衆の支持をとりつけなければならず、それが大衆を焚きつけることにしかならないのだとすれば、その人は選ばれた指導者=先導者であるはずなのに、煽動者(/先導者)にしかなっていないのかもしれませんね。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051
それにいくら自らに多く課しても限界というものがあります。たとえカントが歴史上最高峰の哲学者だったとしても、同時にニュートン力学を生み出すことはありません。それでもカントは天文学者としてラプラスに先駆け星雲説を唱え名を残したそうですが、それはカントが専門以外のことであっても貪欲に学んだからであり、自分に多くを課したからですね。それと比べてみるならば今日の政治家は自分の経験だけで未知の世界のことを学ばなくても平気だと思っている人がいることになります(そうじゃない人もたくさんいると思いたい)。そのくせ人には自分のやってることをよく知らない、勉強不足だ、というのは、大衆の思想が自分のことだとすれば、ただ相手に向かって自分のことをよく知らないからもっとよく知るようにしろ、といっていることだけなのかもしれません。いわば自己愛を相手に押し付けているようなものでしょうか。
話をもとに戻すと、学者の本といってもただ現代の学者が書いた本のことを指すわけではなく、現代の学者が土台としなければならない各分野の古典も当然含まれてしまいます。世界とは未知な領域を混沌としたものから、人の理解出来るように整理していったものです。私たちは世界を生の世界のまま理解するのではありません。誰かが整理した世界の姿から、世界を理解するのです(だから科学の進歩は人間の認識の進歩でもあるわけですね)。そのような理解しか人間の精神は出来ない仕組みのようです(それこそカント読んでみてね)。そうした整理を思想とか学問とかいう領域で行い、その成果を踏まえた上で世界の問題に対処していくしかないのです。それを行わないで自らの経験だけで理解でき対処出来ると考えるのは、目隠ししたまま裸で森の中を行くようなものです。しかしそうしたものを読むのはとても大変なことで、やっぱり自らへと課すものが多くなります。それをする必要がないと判断し、必要な要求を自らに課さない、ということは、つまりオルテガの言うような大衆人が、重要な政治指導者として存在しているわけです。
そしてそうした大衆人である政治指導者を、他の大衆たちは〝私たち〟として同じ者の代表として選挙で選んでいるわけです。
…なんだか自分で書いてて嫌になってきました。
次回のお話
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気になったら読んで欲しい本
オルテガ『大衆の反逆』
オルテガの本。今回は世界の名著です。
世界の名著はマンハイムの『イデオロギーとユートピア』と一緒になって収録されているのですが、オルテガの本が大衆論ならマンハイムの本はエリート論でもあります。正確には知識人論なんですが、オルテガの文脈から読めばオルテガがあまり説明しなかった選ばれた少数者について書いてあると考えてみるのもいいかもしれません。お得なセットですね。
ただマンハイムの知識人論はマルクス主義のブルジョアとプロレタリアという対立する二つの階級に対して第三の階級として、どちらにも属さない浮遊する知識人層というものを対置させるもので、直接オルテガのいう貴族やエリートと重なるものではありません。マンハイムは昔ルカーチという西欧マルクス主義の超大物と同窓だったらしく、マルクス主義とルカーチへの思想的対決としてこうした考えを生み出したそうです(たしかどこかの解説にそう書いてあったような気が)。全然違うアプローチですが、参考になるかもしれませんね。
カント『純粋理性批判』
カントの本。くそ難しいのですが、間違いなく西洋哲学史上最高の一冊です。光文社古典新訳文庫はかなりわかりやすいらしいというので載せてみました。私は他で読みました。
この本が重要なのは、人間がどうやって物事を理解するのかということを論理的(哲学的)に説明しきったことです。なぜ私たちが経験からしか精神になにかを得ることが出来ないのか、しかしどうして思考能力は経験を超えた問題を考えてしまうのか、ということを感性・悟性・理性という段階を経て書いてあります(この訳では悟性じゃなくて知性になってるらしいけど)。
ここから人間の精神は経験を超えたことに関しては確証を得ることが出来ないから、経験的世界のことだけに限れ、というわけで科学を基礎付けたとも言われます。しかし同時に私たちは物の現象しか理解できず物自体は理解できないということも書いてあり、人間の持つ認識能力をかなり限定していることもわかります。
とにかく難しいので私には説明出来ませんが、興味があれば読んでみるのもいいかもしれません。おそらく一生ものの読書になると思います。
ニュートン『プリンキピア』
カントが哲学上不朽の業績をあげたとしたら、科学における不朽の業績はニュートンです。言うまでもなくどちらも偉人で頭がいいわけですが、だからといって1人の人間に両方の本を書かせるわけにはいきませんでした。賢いということが、いくら歴史的な水準で高くとも、1人で出来ることは限りがある、ということをカントとニュートンを読み比べて考えてみるのも面白いかもしれません。
カントは読みましたが、ニュートンはいくらなんでも私の力が及びませんので読んでいません。1人で両方読むということも相当大変なことだと思います。
吉本隆明・糸井重里『悪人正機』
自分の領域から出ない、ということが結構すごいことだ、とはこの本の中で吉本隆明が言っていたことです。ここではタモリをそういう人として考えていますが、同じようにさんまにも当てはまる面があるように感じられたので上でも書いてしまいました。
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お話その161(No.0161)