- 大衆と選ばれた少数者と普通の人々 〜私たちの生活を支えるのは、選ばれた少数者としての普通の人々であるかもしれない
- 大衆と普通の人
- 選ばれた少数者(貴族/エリート)としての普通の人
- 戦後経済の担い手だった、優秀な労働者=選ばれた少数者としての普通の人々
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/31/200018
大衆と選ばれた少数者と普通の人々 〜私たちの生活を支えるのは、選ばれた少数者としての普通の人々であるかもしれない
【オルテガ『大衆の反逆』】
大衆と普通の人
オルテガの言う大衆が何者なのかは前回までに大体お話できたかと思いますが、それがあまりいいものではないことが感じられてきます。しかし大衆というものが、一般に言われるような当たり前に存在する普通の人であるかどうかも疑問といえば疑問です。オルテガの説明する大衆は、たしかにあちこちに存在している気がします。しかしだからといって身の回りを見渡してみて、オルテガ的な大衆人そのままの人ばかりかといえばそんな気もしません。そしてもしオルテガ的な大衆が一般的な普通の人だとすれば、こうした大衆的特徴を持ってない人の方が例外であるはずです。ですが直に接する人はむしろ大衆人そのままの人の方が珍しい気もします(私だけでしょうか?)。
この差や乖離をどう捉えればいいのかは、もしかしたらオルテガを読んでから考えていけばいい、面白い読後の課題なのかもしれませんが、ちょっとこれと似たようなことを話されていたのをTVで見た覚えがありますので書いてみたいと思います。
選ばれた少数者(貴族/エリート)としての普通の人
私がオルテガの『大衆の反逆』について書いている中、ブックマークで100分de名著で目にして大衆のことが気になっていた、とコメントをしてくださった方がいらっしゃいました(まだ見てくれてるかな/追記:ご覧になってくださったようです。わーい、ありがとうございます)。100分de名著とはNHKで放送されていた番組で、私もたまたま1、2回オルテガの回を見ていました。そこでは毎回取り上げられた人と本について専門家が説明してくれるのですが、たしかオルテガの時は中島岳志が説明していたかと思います。
【100de名著 オルテガ『大衆の反逆』】
そして中島岳志は大衆と貴族/エリートと呼ばれる選ばれた少数者の対比をして、むしろ普通の人の方こそが貴族/エリートと呼ばれる選ばれた少数者なのである、という解釈をされていました。
どういうことかと言うと、大衆というのがいわば自らに多くを課さず努力もせずに権利ばかり主張する存在であり、貴族/エリートが自らに多くを課して進んで困難に向かい義務を背負う存在であるとするならば、それははっきりと違う。しかし大衆と貴族/エリートというものは階級の差でもなく人間の差である。そしてごく普通に暮らしている人の方が、実は大衆としての特徴よりも貴族/エリートとしての特徴を有しているのではないか。自らに自惚れることなく、抑制の効いた生を送っていて、むしろ普通の人、庶民というものの方こそ大衆に対置される存在である。と、大体こんな感じだったかと思います(はっきりとは覚えていないので間違ってるかもしれない)。
私は中島岳志の解釈が好きです。庶民と大衆は違う存在(もしくは概念)だ、と最初に書いたかと思いますが、日本では吉本隆明が戦後自分の立場を築く際に大衆の原像という考え方を打ち出したことがあります。おそらく中島岳志の解釈も吉本隆明を引いている面があるのだと思いますが(違うのかな)、少なくとも状況や大勢に左右されることなく、自らの生活を自律したままに行い続ける、といった吉本的大衆の原像はオルテガ的大衆とは異なるように思えます。そして日本の戦後復興もこうした大衆ならぬ庶民の力によって成されたらしいことを目にした覚えもあります。
戦後経済の担い手だった、優秀な労働者=選ばれた少数者としての普通の人々
絓秀実は戦後日本経済が発展したのは、田舎から集団就職してやってきた金の卵たちが、労働者として出世の道もない中必死になって自分たちの領域で働いたから出来たのではないか、と書いていた気がしますし、池田信夫は、戦後の発展は優秀な日本の労働者に無能な経営者が乗っかったからだ、とブログで書いていた気がします(探したけど私が読んだページがどこかわからなかった。申し訳ない)。
【絓秀実『JUNKの逆襲』,『小ブル急進主義批評宣言』】
ここで言う優秀な労働者とは、戦後経済を支えた普通の人々であることは間違いありません。世界企業となった松下やトヨタも、そこで働く人々がいたから成り立ったわけですね。松下幸之助がいくら経営の神様でも、一人だけではどうしようもありません。優秀だけど自ら立つことなく神様についてきてくれる人もいて、そうした人の中から優れた人を神様が見抜くからその目も光ってくるわけですね。
そしてそうした普通の人=労働者がオルテガのような大衆人であれば優秀になるはずはない、と思われてきます。優秀であるためには、やはり自らに多くを課さなければなりません。となると、やはりかつての労働者たる普通の人々は大衆であるよりも選ばれた少数者=自らに多くを課し、努力をする人であったと言えるかもしれません。
もしかしたらこうした解釈は、現在という状況を過去から救うような癒しの物語でしかないのかもしれませんが、陰気で出口のないような大衆のお話に、ちょっとは添えてみたいと思いもするのでした。
次回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/02/07/200033
お話その171(No.0171)