日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

『ドラえもん』における子供が自分を投影するのび太の存在と、ズルとしっぺ返しにより充足願望から現実に引き戻される作品テーマの作中/読者構造による二重性 〜ドラえもんとのび太の関係と『ドラえもん』と読者の関係と重なる願いをかなえてくれる空想と現実

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.08

 

自我の投影先と具体性の関係 ~わたしを受け入れてくれるあなた。と『ドラえもん』の話

さてフィクションと自我の関係から、キャラクターと人間(具体的人物)との関係のお話にずれていってしまいましたがもう少し続けてみたいと思います。

 

自我の投影とその受け入れ先

自我の投影先としてのスターがなぜ自我の投影先となりえるかといえば、それは自分を受け入れてくれる存在のように思われるからです。もし自分に向かってぐじぐじ問題点ばかり指摘してくる人が身近にいたとして、その人物を戯画化したような人物がフィクションに現れたからといってその人に自我を投影させたりはしないでしょう。たとえ自分が他人に向かっては同じことをしていたとしても、やっぱり自我を投影させたりしないと思います(そうしたフィクションの人物は批評的なものとして表現されると思う)。自分を投影させるには、それ相応の受け入れ先に条件があるわけですね。

 

自我の投影先の条件? 〜具体性の欠如、自分と似ていること、憧れ、願望、欲望など…

そういえば藤子・F・不二雄は『ドラえもん』読んでる子供はみんなのび太を自分だと思って読んでる、とたしかNHKで放送されていたアーカイブかなにかで発言されていたのを見たような覚えがありますが、これも似たようなことかもしれません。この場合は自我の投影先になにかあったりなかったりすることよりも、自分と似ていることが条件となっているわけですね。

 

藤子・F・不二雄ドラえもん』】 

とはいえ自分と似ていることがどうしても必要なのかといえばそういうわけではないでしょう。長嶋茂雄に憧れても野球がそんなに上手いわけではありませんからね。これはまさに憧れ、願望が自我の投影先としての条件となっているのかもしれません。

 

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またここ数年流行っているやたらと主人公が強い作品であれば、憧れや願望というよりもそのまま欲望に近いのかもしれません(単にゲームで課金すると簡単に強くなるということを反映しているだけかもしれませんが)。ちょっとこの場合は自我の投影先としては少々みっともないような気もしてきますが、まぁ願望充足のためと捉えれば間違っているわけでもありません(フロイトも現実を埋め合わせるための空想は大変重要であると書いていたかと思います)。

 

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フロイト著作集3 文化・芸術論】 

(フロイトがどこでいっていたかは覚えてないのですが、多分この巻なんじゃないかと思うので載せておきます)

 

現実の具体性から離れたキャラクター 〜『ドラえもん』とのび太くんの現実

ともかくこうした自我の投影先となりうるフィクションやキャラクターは、あまり現実と重なりすぎてはいけない関係性があるのかもしれません。のび太くんに自分を投影させていたとして、そのダメなところを具体的に描いていればやはり嫌がって見なくなるかもしれませんしね。『ドラえもん』ではそんなのび太くんがズルして楽しようとしながらドラえもんを言いくるめてひみつ道具を出してもらうのですが、必ずしっぺ返しされて現実へと引き戻されます。その点において『ドラえもん』は批評的な作品と思われます。子供の素朴な充足願望を満たしながら、最後にもう一度現実へと戻されてしまうのです。実はドラえもんに助けてもらうことはある種の空想で、現実は変わっていないわけです。そしてそれは読んでいる子供たちにとっても同じで、のび太くんにはドラえもんがいるけど読者にはいないので、のび太くんが最後に現実に引き戻されてしまうように読者もドラえもんなしの現実の中で『ドラえもん』を読み終えた後にやっぱりいちから自分でやっていくことしかないことを暗示しているわけです。

 

瀬田貞二『幼い子の文学』】 

(『指輪物語』や『ナルニア国物語』の翻訳者である瀬田貞二が、子供の好む表現として行って帰ってくる、という構造があることを指摘した本。たとえばお母さんのスカートにいつも掴まっている小さな子が、ちょっと離れて気になるところにかけより、またすぐにお母さんの元に戻ってスカートを掴む、というもの。それは〝母親=ここ〟から〝気になるところ=どこか〟という往復運動をすることで子供は自分の世界を広げている、ということと同時に、〝ここ=現実〟から〝どこか=空想〟へと行って帰ってくることが子供の現実認識を強めていく、というようなことだったと思う。…ちょっと違ったかも。これを踏まえて『ドラえもん』を見直すと、上に書いたような解釈になりました。むしろ大人向けの方が妄想世界へといったまま帰ってこないことの方が多い気もしますね。

追記:この本とても面白かった覚えがあります)

 

【 浅野にいお『おやすみプンプン』】 

(自分のダメなところを延々描いてるのはこの作品とかなのかな。のび太くんと同じダメな主人公でも自我の投影方法は全然違うかと思います。まぁ作品の種類も全然違うのですから当たり前でしょうけど…私は最初の1、2冊だけ立ち読みしたことがある程度です。)

 

余談:『ドラえもん』と自主性

つい『ドラえもん』のお話になってしまいましたが、『ドラえもん』には昔から子供の自主性を損なうとか、なんでもドラえもんに叶えてもらおうとしてなにもしない、わがままな子供になるという批判があるので擁護してみたくもなったのでした。最近はそんなことも言われなくなった気もしますが、10年も前じゃなかったと思うのですがインドで『ドラえもん』が放送された時にも当地で放送の反対運動があったと新聞で読んだことがあるので、結構土地を問わず思われることは似ているのかもしれません。

 

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また話がズレてしまいました。なにが書きたかったのかわからなくなってしまいましたし、少し長くなったのでこの辺でやめておくことにします。とほほ…

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.15

 

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お話その206(No.0206)