前回のお話
キャラクターと人間とからっぽさと自我の投影 ~わかってくれるのは、からっぽだから?
フィクションと自我の話がなかなか先に進みません。すこしでも進めるように頑張ろう。
というわけで、自我を投影させるスターであってもメディア等を通して知っているのであり、具体性を欠いた存在として投影していて、実のところ虚構のキャラクターとさほど変わらないように捉えてるのではないか、また実在の人物であってもキャラクターであっても、現実にまとわりついてくる具体性がない方が自我は投影させやすいのではないか、というようなことを書きたかったのだと思います(書いてるうちにわけわからなくなってきた)。
具体性と人間
こうした具体性は人間として避けるわけにはいかない諸関係ですね。そのため実在の人物から具体性を切り離すことは出来ないはずです。無理矢理ないようにして、アイドルはトイレいかない(今なら政治意見をもっちゃいけない、でしょうか?)、みたいに言われちゃうわけですが、そもそも生身の人間にそんなこと求めるのは酷なことかもしれませんね。
【ハイデガー『存在と時間』/サルトル『存在と無』】
不滅としてのキャラクター
それと比べてキャラクターは完全な虚構ですからそんな諸関係はありません。なんならキャラクター生みの親がいなくなっても、別の人によって描かれていくことはいくらでもあることです(長谷川町子も臼井義人も亡くなったが『サザエさん』も『クレヨンしんちゃん』もアニメは続けられ、サザエさんもしんのすけも生き続けている。矢島晶子は去り藤原啓治も亡くなってしまったが、しんのすけやひろしは活躍し続ける)。
【小池一夫『キャラクターはこう動かす』/長谷川町子『サザエさん』/臼井義人『クレヨンしんちゃん』】
人間からキャラクターへ?
そんなわけで世の中が情報上位の世界へと変貌していくに従って、自我の投影先が実在の人物をスターとすることから虚構のキャラクターへと変わっていっているのかもしれません(でも男女共にアイドル強いからそんなことないのかも…それともますますの人物のキャラクター化か進んでいるからなのかな)。そしてそれはキャラクターこそ中身のないからっぽの存在であり、受け手となる人々を存分に没入させることが出来るからなのかもしれません。
キティちゃんと口の表現と見る人の感情 〜からっぽであることの効果
たとえばキティちゃんは公式には口を描かないそうですが、それは口がないことによって見ている人にとってキティちゃんの表情が笑っているか泣いているか、変わって見えるからだそうです。これはキティちゃんというキャラクターから中身をなくしからっぽにすることによって可能となる方法と思えますね。
からっぽとしての日本文化
そしてどうもこうしたからっぽの存在というものが日本らしさの文化なんだそうです。
【三島由紀夫『文化防衛論』】
そう考えますとキティちゃんが生まれたのも案外日本的文化の嫡流かもしれず、また昨今のアニメ・漫画文化の世界的評価も日本文化の輸出としてそう間違った理解でもないのかもしれませんし、キャラクターに自我を投影させて自分の自我を確立させないのも古くからある日本的態度の延長線にあるのかもしれませんね、なんね真偽の定かではない与太話とつながってしまったところで今回のお話を終えてみようかと思います。なんか疲れててまとまりでそうにありません。急に暑くなってきましたしね…ふぅ。
次回のお話
お話その207(No.0207)