日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

古典となる本を読むことにより新しい価値を生み出す書物と批評による人類の思想的営為 〜世界の現状維持は衰退を意味し、書物と批評と思想による現実の変革

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/06/01/200057

 

フィクションと本と読むこと、思想と現実 ~人は読むことによって何かを生み出す

フィクションと自我の関係をお話しようと思っていたのですが、しばらく書いていないうちになにを書こうとしてたのか忘れてしまいました。それでこんな話するつもりだったのかなぁ、と思い返しながら書いてみたいと思います(またズレていくかも…)。

 

フィクションは必要か?

フィクションというのは一見すると必要なのか必要ないのかよかわからなくなる気もします。たとえば今みたいに景気が悪いと金にならない文化は切り捨てろ、みたいなこと暗黙にとはいえ声が上がっているようにも感じます。民主党時代の事業仕分けとか、今大学等科学分野での補助金が減らされているのも同じ認識の枠組みの中での出来事かもしれませんね。それらはどうやってお金になるのか、お金を与える決定権を持つ人たちや支持している人たちにはわからないわけです。多分。

 

漫画や小説は必要か?

しかしそれは補助金云々の社会的な領域だけではありませんね。たとえばひと昔前には漫画ばかり読むんじゃありません、なんてお母さんに怒られたもんです。小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』を書き出した最初の頃の憤りは漫画の社会的地位が大変低いことにもありました(今では信じられませんね)。じゃあ漫画に対してなにが偉いかと思われていたかといえばおそらくは文学であったでしょう。それも批評込みで、具体的に言えば夏目漱石小林秀雄が偉かったわけです(実際偉いし今でも偉いけど)。

 

夏目漱石吾輩は猫である』/小林秀雄『読書について』/小林よしのりゴーマニズム宣言』】 

しかし小説ももっと昔は偉くありませんでした。小林よしのりが最初仲良くって『ゴー宣』にもよく出ていた呉智英柳田國男の話をひいて昔の教養程度を説明していたことがあります。

 

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柳田國男のお弟子さんが勉強もせずに本を読んでいた。それは小説で、それを見た柳田はそんなもん読んでないで寸暇を惜しんで勉強しろ、と叱ったと言う。だがその小説はアナトール・フランスの作品であり、しかも翻訳ではなく原著のフランス語であったと思われる。今であればそれ自体が硬派な勉強である。それを遊びと捉えたのが当時のエリート層の教養程度である(大体こんな感じのお話)。

 

呉智英『読書家の新技術』】 

(たしかこの本の中でこうした話が書かれていたかと思います)

 

びっくりしちゃいますね。

 

まぁ呉智英も今時そんな真似出来ない、と半世紀近くも前に言ってますから(と思って見直してみたら、別にそんなことは書いてなかった。ただ読書は時代とともに変わる、と書いていた)、令和の今日この頃ではもっと無理でしょう。しかしポイントは同じとも言えます。漫画であれ小説であれ、フィクション=作り話には価値を求めないという態度です。

 

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似たようなことは文学者側でも言ったりします。サルトルは第三諸国で飢えた子供の前では文学は無力だ、と言ったそうです。これもやっぱりフィクションというものがなにか社会的に力のない、無力な存在であると感じ取られているのだと思います。そして実際フィクションがいかに生み出されていても物理的になにかが変わるわけではありません。

 

サルトル『嘔吐』】 

(サルトルがどこで言ってるのか知らないので、サルトルの一番有名な小説載せてみることにしました。独学者と呼ばれる狂気のお勉強執念者がとても魅力的です)

 

人はパン(=物質的なもの)のみに生きるにあらず

しかしこれも人類の歴史の最初の時点で批判されているとも言えます。イエスは人はパンのみに生きるにあらず、と言いましたが、これは先の価値観を逆転させたものだとも言えるかもしれません。パン、つまり物質的なもの(食べ物、道具、お金…)によって人は確かに生きているし、それ抜きにしては多くの人も養っていけない。しかし人間は物質的な存在だけではない。精神的な存在でもある。そして人間というものは物質的(=パン)のみて生きていくことは出来ない。精神的(=この場合は神の言葉だろうか?)なものもなければ生きていけないのだ。こういうところでしょうか。

 

新約聖書】 

 

しかし精神的なもの、といっても難しいものです。イエスの伝える言葉はなんとなくすごそうです。それに比べると小説は創作であってもそんなにすごいのかな、なんて思わないでもありません。

 

書物と批評と人類の思想的営為

しかしイエスの言葉(新約聖書)も含めて聖書は西洋の歴史の中で常に言及され研究され、そこから新しい思想や自己認識を生み出してもきました。いわば聖書を対象として千年以上批評してきたわけです(旧約聖書はある種の民話集とも言えますし)。それと同じように近代では文学を対象として批評をしてきました。いわばやってることは同じなのです。正典とみなされるテクストを前にして、真剣に読むことによって目の前の現実を乗り越えるような考えを生み出していくわけです。

 

【中世思想原典集成 精選版】 

(平凡社ライブラリー版だから7冊に収めてますが、原本は全20巻! ひぇ〜。しかもその大半は完訳ではなく部分訳でそもそもヨーロッパ諸語でも翻訳されていないものもあるとか…すごいアンソロジーだ)

 

そういえばリチャーズという批評家はニュー・クリティシズムという流派を生み出すきっかけともなった『文芸批評の原理』という本の冒頭で面白いことを言っています。それはどの時代においても文学の批評は当時を代表とする知性の持ち主が行った、というものです。これは確かで古代ギリシアでもアリストテレスギリシア悲劇を分析して今日まで使える『詩学』を書いていますし、近世でもレッシングが『ラオコーン』なんて小説と絵画を対比した面白いもの書いてますし、ヘーゲルも『美学』の中で小説を取り扱っていたかと思います(ヘーゲルは読んでないのでよく知らない。また中世はどうだったのかも知らない。聖書だけで世俗の読み物は認めてなかったかもしれない。しかしアウグスティヌスもアンセルムスもトマス・アクィナスも当然聖書はとことん読んでて、過去の聖人の書いたものもしこたま読んでる)。

 

【リチャーズ『文芸批評の原理』/アリストテレス詩学』/レッシング『ラオコオン』/ヘーゲル『美学講義』】 

アウグスティヌス『告白』/アンセルムス『モノロギオン』/トマス・アクィナス神学大全』】 

 

思想と現実の現状維持と変革

こうしてみると、文学と批評はセットであり、そこから現実を乗り越えていくアイデアや考えを生み出してきた、ということがひとつの歴史として行われてきた、ということが浮かんできそうです。これはパン=物質的なものだけを相手にしていては得られない態度です。またパン=物質的なものだけを求めるのであれば現実など変える必要ありません。社会的地位にある人物は既得権益(もしくは一度手に入れたもの)を得続けるために下層は変わらず下層であって欲しいですし、そのため経済的階級を固定化させるために歴史的起源、社会的機能を理由に階級を社会的に固定化させることを求めるでしょう。そしてその下にいる人たちはそれが当たり前だと思ってくれることこそ社会の維持にもパン=物質的なものを求めるのにも効率的です。しかしいわばイエスはそうした固定化に対して普遍的な基準で否と唱えたのであり、それはやはりパン=物質的ではない別のものを求めたから得られたわけです。

 

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…と、やっぱりすっかり話がズレてしまいましたので、ますます脱線しないうちに今回はこれくらいにしておこうかと思います。あれ〜、おっかしいなぁ。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020.06.08

 

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お話その204(No.0204)