現在時間がなくリンク切れのままとなっております。申し訳ありません。
まとめ50 自我とその代わりとフィクション ~投影させるからっぽなものと似ている具体的なもの
このまとめの要旨
自我とその代わりになるであろう代替者を描くフィクション、そしてそんなからっぽな作品に対して真逆となる具体性に満ちた作品の在り方、などについて書いたもののまとめ。
書いたものの一覧
明確な自我というものを確立することが難しいとしたら、そんな自我の代わりをどこかに求めているのかもしれませんね、ーというようなお話。
そんな自我の代替者は自分にとって理想的な在り方をしている対象に求めるのかもしれません、ーというようなお話。
また自我の代替者はフィクションの中にも求められるけど、逆にそうしたフィクションを徹底的に読むことによってまた新たなものを生み出すことの力にもなってくるかもしれませんね、ーというようなお話。
自我の代替者、もしくは投影先としてのキャラクターはからっぽであるからこそ投影出来る、具体的だと見たくない側面まで見てしまうから没入出来ないらしい、ーというようなお話。
自分を受け入れてくれる存在として『ドラえもん』があるかと思えるけど、『ドラえもん』はどちらかといえば現実の虚しさを突きつけてくるような作品ではないでしょうか、ーというようなお話。
そして自分を無批判に受け入れてくれるのはまさにキャラクターがからっぽであるがゆえに可能なのだ、ーというようなお話。
そんなからっぽの存在は記号論でいうところのゼロ記号っていうものなのかもしれないね、ーというようなお話。
そしてからっぽな存在は世知辛い現代社会においてそれなりに生きていくための知恵のひとつなのかもしれませんね、ーというようなお話。
そんなからっぽさってなんだか日本らしい特徴のようにも思えないこともありませんね、ーというようなお話。
また日本のアニメや漫画が世界に届くのも、こうしたからっぽさが受けてたりする可能性もあるのでしょうか、ーというようなお話。
しかし具体的な作品を書こうとも、すでに書くべきものはすべて書かれているのかもしれず、ならすでにあるものを組み合わせて作品を作っていくという確信犯的な態度もあります、ーというようなお話。
逆に具体的なもので固めようとしたら、この私である自我を中心としたものを対象にして作品を作るって方法もありますね、ーというようなお話。
でもそんな私ってどんなもの、といえば、周りの諸関係にがんじからめに絡めとられた存在のひとつとしてそうある、ーというようなお話。
ならその諸関係そのものを描こうとしても、社会そのものを描くことは大変難しい、ーというようなお話。
そしてそんな社会の中に存在しているのが作家としての私なのであって、それゆえ私を中心にして作品を描くことも可能なのだ、ーというようなお話。
ただだからといってやみくもに自分のことばかり書いてたらいいかといえばそうではなく、自分の中にある諸関係との葛藤などとしっかり向き合わなければ表現にならないのでは、ーというようなお話。