前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/02/180053
表現者における少数者と大衆の対比例 〜人目につく表現者と見えぬ人々
人間を少数者と大衆にわけるのはなんだか偉そばってて気に食わない気もしてきますが、表舞台に出る人たちの質の問題として考えてみるとわかりやすいかもしれません。
知らない世界と偉い人
どの世界でもそうかと思いますが、傑作や名人というものがある一方で、どうしようもない駄作やヘボという人もいます。しかしどの分野でもいいのですが、自分の親しんでいて好きな世界を見回してみても、あれ、なんでこんな人がデカい顔して真ん中に座ってるのかな、と不思議に思うこともあるかと思います。
もしかしたら見ているこちら側ではよく知らなくて、本当は偉い人である可能性もあります。私は結構社会科学や人文科学が好きなのでデュルケームやオルテガという人がどう偉いのかは多少知っているつもりですが、知らない人からすればこの横文字の人はなにが偉いんだ、と思われることもあろうかと思います。ましてや以前二流の出世階段としての思想的所属、なんて書いたみたいに、自分を大きく見せるためにこうした人たちの名前を使って相手を驚かせようとしていたりしたら、ますます反発を感じていかがわしく感じられ嫌いになっていく気もします(一応私は気をつけてそうならないようにしているつもりですが、大丈夫かな…)。
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それと同じことが各分野でも行われ、TVを見てはこのコメンテーターは偉いのかと思い、新人俳優は本当に魅力的なのか疑問に感じ、映画の最新作は果たして全米は泣いたのかと首をひねり、流れてくる曲のどこがいいのかわからない、なんてこともあるかもしれません。知らなければ知らないほどそうした体験が起こる可能性が高まるわけですね。
熟知した世界と偉い人
しかし逆に長年親しんできた分野の中で、たとえ受け手としてだけであってもやはり誰が偉くて誰が人気あってもそれほどではない、ということははっきりするものもあると思います。
たとえば明石家さんまがお笑い芸人として桁外れの一流であることは、大抵誰でもわかるような気がします。そして毎年現れる一発屋芸人さんを同じ芸人だからといってさんまと地位を混同することは、お笑いを好きでなくてもまずないと思えます。もしかしたらその瞬間はさんまよりも見る頻度が多くなるかもしれませんが、だからといってさんま以上の芸人であると受け取る人はいないように思えます。これはTVという限られたチャンネル数でありながら、全国的に行き渡るメディアの中で誰もがお笑いを目にするから大抵は判断を間違わないのかもしれません。
逆によく知らないとこれがはっきりわからなくなってくるわけですね。ネットの有名人でも、ちょっと関心がはずれると知らない人もいるかもしれません。政治とか知識人とかになるともっとよくわからないので、誰が本当に偉いのかますますわからなくなってくるのだと思います(そこでTVやネットに出てくる人を代表的な人だと思ってしまう気がする)。
偉い人の持つ明確な高水準と自らへの要求
しかしさんまと一発屋芸人との間には明確な質の水準の差があるとも思えます。多分さんまのことを好きじゃない人でもそれは認めてくれるんじゃないかと思いますが、これはさんまがお笑いという分野において自らに熾烈な要求と義務を負い、徹底して磨いてきた、いわば選ばれた少数者として表舞台に立っている(立ち続けている)からだといえます(さんまのファン対応は誰にも真似できませんが、さんまはやり続けています。そういえば紳助はさんまはタレントの天才で、自分は同じ土俵で勝てないからヒールを選び話芸を磨く、と言ったそうです)。それに対してこれから出ていこうとする若手芸人の中には表舞台に立とうという意識はあるものの、さんまの何万分の一も自らに要求を課さない人もいる、と考えてみることが出来ます(もちろんこらから頑張ろうと一生懸命の人もいるでしょうし、努力を重ねる人もいるに違いません。そしてのちに大成するのはそうした人のはずです。でも時々ゲス芸人として注目される人もいますものね)。
手塚治虫も昔、最近の若い漫画家はみな上の世代がみんなやっちゃってるから自分たちの世代はやることがない、そんなことを言うけど、ぼくらがどれくらい叩かれてやってきたか知らない、せめてぼくくらいやれることをやってからそうしたことを言って欲しい、とどこかで書いていた覚えがあるのですが、これもまた同じことのような気がします。つまり新しく現れた人たちは先人の立っている場所を羨んで欲しがるのですが、そのための苦労は忘れ去られている、そんな逸話のような気がします。
なんかこう書くと若者批判みたいで嫌ですが、表現というちょっと特殊な世界の問題なので許してくださいね。なんといっても表現は本人が頑張ったからというだけでいいわけではなく、表現内容の良し悪しというものが出てきてしまいます。漫画家でも芸人でも見る方は面白いければいいのであって、そのための苦労というのは見てる側からすればどうでもいいといえます。そしてその面白さのためにさんまでも手塚治虫でも常人の及びのつかぬほどの要求を自らに課していると考えられるわけです。そして誰であってもそうした自らへの要求抜きにして明石家さんまや手塚治虫になろうと思うのは傲慢だ、というわけですね。ただ新人の方がそうした憧憬の思いを抱きやすいはずですから、こんな対比になってしまいました(若き方申し訳ない)。
目につかぬ世界で重要な席に座っている人の可能性
しかしお笑いはTVの中心になりましたので、かなり見る人たちの観点が肥えていてシビアかと思います。売れている人=表舞台に立ち続けている人は、やはりそれ相応の要求を自らに課した少数者だと考えることが出来ます。無論漫画でも同じですね。手塚治虫でも尾田栄一郎でも自らに過大な要求を課した少数者であると断じて間違いないでしょう。
ですが多くの人の目にさらされない分野では、それが適切な関係にあるのかわかりません。いわばさんまの地位に名の知れぬ若手芸人ぐらいの人が座っている可能性もあるかもしれないのです。そしてその世界をよく知っている人からすればその差ははっきりしているのに、多くの人がよく知らないためにまったく比較にならないような人がさんまや尾田栄一郎のような顔をして座っている。それが当たり前になっている世界だってあるかもしれない。
少数者と大衆の関係
オルテガのいう少数者と大衆の関係はこのようなものかもしれません。明らかに優れた能力を持つと考えられる人物は、それ相応の要求と義務を自らに課し自ら進んで困難に向かっていく、そうした人物のはずです。そしてさんまや尾田栄一郎が現在それぞれの分野で代表的な地位を築いているのと同じように、代表的な地位に座っている人は自らに高い要求を課している人だ、とみなされているはずなのだが、そうではない自らに要求しない人=大衆によって代表的な地位に座られている、ということなのだと思います。
そしてそれがお笑いや漫画なら嫌になれば見なければいいだけですむのですが、社会の重要なポストにおいても起こってくるのが大衆社会ということになるのだと思います。
なんかまた陰気なお話ですね。でも大衆とかの話になるとこんな調子にしかなりそうにありませんね。
次回のお話
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気になったら読んで欲しい本
オルテガ『大衆の反逆』
オルテガの本。今回は中公クラシックスにしてみました。翻訳はあとオルテガ著作集のものとで3つあるのかな。どれがいいのかはわかりませんが、私はちくま学芸文庫版で読みました。ちょっと訳語に違いがあり、選ばれた少数者のことをちくま学芸文庫版は貴族と呼び、中公クラシックス版はエリートと読んでいたかと思います。
ちなみにこの貴族/エリートがどんな存在なのか、ということはオルテガでは理念的に語られるだけのように思うのですが、中公クラシックスの元となった世界の名著ではマンハイムと一緒になって出されていて、マンハイムの本の内容はエリート論でもあるのでした。いい組み合わせのような気がします。世界の名著版は次にでも載せてみたいと思います。
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お話その160(No.0160)