前回のお話
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大衆と群衆 〜これらは違う考え方らしい
大衆の話から吉本隆明の大衆の原像(庶民?)に話がうつって、そのまま余談になり脱線しつつありまして、なにを書こうとしてたのかすっかり忘れてしまったのですが、とりあえずこうだったかなぁ、となんとか大衆から続きのお話を書いてみようかと思います。
といってもオルテガのいう大衆については大体書いてしまいましたので、他の似たような考え方のお話です。
生活様式の変化と大衆
オルテガが大衆について書いたのは20世紀初頭でした。もう資本主義の運動は活発化していて、世界中がかつての生活様式から大きく変化していった頃なのだと思います(詳しくは知らない)。少なくとも富の源泉が土地であり、多くの人が土地に縛りつけられ(しかし土地とともに)生きていたのが、富の源泉が生産中心となり都市部へと大移動したことにより大衆が生まれたのだと私には思われるのですが、それを最初に辛辣に批判的に分析したのがオルテガ先生なわけですね。
【オルテガ『大衆の反逆』】
(これがオルテガによる大衆分析の書。今読んでも問題や状況に大きく差がないことに驚かされるかと思います)
【テュルゴー『富に関する省察』】
(アダム・スミス以前の、重農主義と呼ばれた経済学者の本。この中で富の源泉は土地、という考え方を披露されていたかと思います。これが分業による生産に変わって現れたのがアダム・スミスの経済学なのでしょうね)
有象無象の人の群れ、大衆
ここでオルテガは大衆の分析をしていて色々なことを書いているのですが、その冒頭に今やヨーロッパは有象無象の人の群れであふれている(大意)、といったことを述べています。つまりそれまでは人というのはそんなどこにでもいたわけではないようです。多分自分たちの居場所というのはある程度決まっていて、そこからは出なかったり、出ても行き先というものも決まっていたのかもしれませんね。たとえば大学は大昔なら本当のエリート(ただし階級的な意味でのエリート。オルテガは真に優れた選ばれた少数者としてエリートという言葉を使うので、わけて考えないといけない)しかいけませんでしたが、最近は就職がないから高校卒業したらとりあえず行かされる場所になってしまいました。自然大学生というだけで権威があった明治時代のような社会環境とはその場所の意味が変わってきてしまいます。昔は大学もそんなになかったし、その中に人もあふれてはなかったわけですね。しかし今はあふれています。こういうことでしょうか(少子化で減ってるけど、それはまた別の問題かな)。
【ドーア『学歴社会 新しい文明病』】
(戦後日本の学歴社会化を分析した本。面白そうなんですが、ぱらぱらとめくっただけで私は読んでいません)
大衆以前の人の群れ、群衆
こうした人の群れの変化によって社会も変わってきたのですが、しかしこうした人の群れの変化を大衆と呼ぶとしたら、その前にもう一つ人の群れによる大きな変化がありました。それが大衆ならぬ群衆というものです。次からそんなお話が出来たらいいな、と思っています。
【ル・ボン『群衆心理』】
(オルテガが大衆を分析したように、群衆を最初に分析した本。なんでもル・ボンはお医者さんだったそうですが、様々な分野で本をたくさん書いたそうです。その中で古典的な地位を占めているのがこの本になるそうです)
次回のお話
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お話その185(No.0185)