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大衆と幼児的支配 〜あたかも子供が支配しているようだ、ということらしい
目の前にある世界を当たり前と思えのは、むしろよくあることかもしれません。もしかしたらそうして当たり前と思っていた世界の姿を、細かい網の目のようにして成り立っていることに気づくことこそが成長であり成熟というものなのかもしれませんね。
子供らしい特徴としての大衆
そう考えてみますと、大衆のこうした態度は子供みたいなものだ、と捉えてみることも出来るかもしれません。当たり前ですが目の前の世界を子供の時点で深く見通して理解することはあまりないでしょう。もしあまりに早くにそうした体験を得れば、逆に病的な傾向を持ってしまう危険性もあるかもしれません。カント(やイギリス経験論)によれば人間の認識は経験に根差していなければ確たるものとはならないので、相対的かつ絶対的に経験の保有量が足りない子供や幼児では理性(積極的な思考能力)ばかりが暴走してしまう危険性があるやもしれません(ただし西洋哲学でいう経験は私たちのイメージするものと少し違います。人生経験などの意味ではなく、りんごを目の前で見て知る、ということを経験と呼び、頭の中だけでりんごのことを知ることと分けます。とてもややこしいです)。なんといっても子供、それも幼児であれば目の前のものが何かを知ることが大事です。ですからなになに期のようなものがあるのだと言えますね。そしてそれは当然のことで別段おかしなことではありません。
大人であっても子供らしい特徴のままの大衆
しかし大人になってもなになに期のままでは困ってしまいますね。まぁ学校や職場などであれば周りから色々言われるでしょうから嫌でも矯正されていくかもしれません。しかし社会といった抽象的で今イチこの自分とどう関わっているのかわかりづらいものであれば、わからないままということはある可能性もあります。むしろそれもまた自然なことなのかもしれません。
よくわからないのは仕方ないのかもしれませんが、そうしたよくわからない社会や世界についての説明がそれぞれの古典的な本に書かれているということも出来ます。ですが大衆は世界や社会は当たり前でなんの労力も払わずに維持できると考え、思想も自分の中で見つけたものだけで満足します。こんなめんどくさい本なんて読まないわけですね。
幼児支配的な大衆支配
しかしそれなのに、そのままで重要な場所に座ってしまう、そうしたことが現代の問題なのだとオルテガは言います。そしてこうした大衆の姿は幼児的であり、慢心しきったおぼっちゃんである、なんて言ったりもします。実に辛辣な言い方ですね。オルテガに言わせれば大衆支配の時代とは子供の支配する世界、とでもいうことになるのでしょうか。
なんだか大衆について書いていると本当に陰気になっていきますね。今日は特にうまく書けなかった気がします。
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気になったら読んで欲しい本
オルテガ『大衆の反逆』
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お話その163(No.0163)