日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

自我像の明確な意味の不明瞭さと複雑な現代社会ゆえの自我代替システム ~何者でもない者が、何者かであるように見せ、何者かになる作家/スターの社会機能

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前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/05/25/200051

 

複雑な現代社会と自我代替システム ~あの人みたいになりたい、とっても素敵!

複雑な現代社

現代は社会がとても複雑になり、その中で身につけなければならない素養はかつてと比べて莫大に多くなりました。それどころかいくらやっても終わりがないかのようです。それははっきりとした大人像が描きにくくなったということでもあり、それにともなって明確な自我を確立しにくくなったとも言えるかもしれません。

 

自我の代替者としてのスターやフィクション

そんな現代社会に手間のかかる自我の代替者として、自我の投影先となるスターやイベントの存在が考えられるようにも思われたのですが、同時にフィクションの存在も似たようなものとして捉えることができるかもしれません。それはキャラクターに自我のモデルや投影として捉えるというものですね(前々回くらいにブックマークで先に書かれちゃった。同じ話になってしまいますがごめんなさい)。

 

フロイトとフィクション

フロイトはフィクションの役目も自分の立場から色々考えて書いているのですが、その中でたしかフィクションとは現実で成し遂げられなかったことの代替経験である、というようなことを書いていたかと思います(うろ覚え)。それは私たちの人生がひとつのものでしかなく、いくつもの可能性のうちたったひとつのものが自分の人生であることに対する不満でもあります。他にこうした生き方もできた、ああなりたかった、そうした欲望を変わりに体験させてもらえることで埋め合わせるというわけですね。これは人間心理において非常に重要な役割を果たすそうです。

 

フロイト著作集3『文化・芸術論』】 

(たしかこの巻に書いてあったんじゃないかな。忘れた)

 

同じことを小林秀雄は宿命と呼んだはずです。ああもなれた、こうもなりたかった、しかし自分は今のままでしかない、しかしそれは自らの宿命として受け入れよ。こうした観点ですね。それはそれで正しいですし間違っていません。

 

小林秀雄『初期文芸論集』】 

(小林秀雄はどこで読んだか覚えてない。新潮文庫や角川文庫にばらばらに収められているのでこんがらがっちゃってる。初期の代表作をまとめてあるこれならどっちにしろ読んで損はないかもしれない)

何者でもない者が、何者かであるように見せ、何者かになる

さてフロイトはしかしちょっといじわるな言い方もしていたと思います。それは作家というものは現実世界の中で敗北者である。政治的にも経済的にも勝者になったわけではない。そうではなくただ空想において他の可能性を描いて読む者を慰めるだけである。しかしそれゆえに人々(読者)の支持を得て現実社会の勝利者となる(もちろんうろ覚え。文面はこうじゃないと思う)。

 

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つまり作家(この場合小説家だけど、当時は他に創作の分野がそうなかったから実質的にフィクションの創作者と捉えてもいいかもしれない)は何者でもないんだけど、何者かになった虚構を築くことによって本当に何者かになる、とでもいったところでしょうか。ちょっと捻れてて、まるで仮面をかぶって王様になったかのようでもあります。

 

作家/スターの社会機能

しかし小説家だけでなくスターと呼べる人たちも政治/経済的に何者かなわけではありません。スポーツでも俳優でもタレントでも、よく考えたら小説なんかと一緒で別になくてもかまわないかもしれない業種です。社会のシステムを担っているわけではありませんし、野球でもサッカーでも興味のない人には必要のないものに見えてきます。特に不況下での文化に対する態度はこうした形が顕著です。ちょっと記憶を遡ってみるだけでもしょっちゅうあちこちで言われていたような気がしますね。

 

【ブーアスティン『幻影の時代』】 

(この中に似たようなことが書かれていたかと思います。かつては有名な人は何かをなしたことで有名になった人であったが、現代においては有名であるということが有名である条件になっている。つまり何者でもない。ある将軍は熾烈な戦地で勇敢に戦って勝ったから有名だが、スポーツ選手が試合で活躍して勝利することはたとえ有名になっても同じ価値を持つわけではない。といったようなことだったと思いますが、いつものようにうろ覚えなのでよければこの本を読んでみてくださいね。別にスポーツ選手だって偉くったっていいと思いますが、そりゃ武田信玄のように偉いのかと言われると困ってしまいます。さんまじゃあるまいし、トーク現場を戦場っていっても本当の戦場とは違いますもんね)

 

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しかしどちらかというと政治や経済で頑張っている人よりもスポーツ選手やタレントの方が尊敬されていて、政治家なんてボロクソ言われることも仕事のうちの様子です(いや、タレントもそうかな。言われないのは偉くなりきった人だけかも)。これはきっと社会のそれぞれの仕組みがどのように動いているか一見してほとんどわからないことが関わっているでしょう。偉いといっても偉い理由が外様の人間にはわからないわけです。そこで日常的に知っているタレントの方が親しみやすく尊敬しやすくなるのかもしれませんね。

 

自我代替システムとしてのスター/作家

ただそれはそれなりに理由があることなのかもしれません。フロイトの言うように作家(やタレント)が何者でもないことによって何者かになるのだとしたら、それは支持している私たちの似姿としてあるからかもしれません。そして自分たちと似た者を支持することは、ある意味では自我の投射先として各タレントを捉えていることになるのかもしれません。そしてそれは自我の確立の難しくなった現代にあって、常に自我の投射先を提供し続けているということになっているのかもしれません(と同時に、支持しない人には自らのなれなかった姿として強烈な嫉妬をも呼び起こすのかもしれない)。

 

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つまりスターやタレント、作家というものは現代社会における自我代替システムなわけですね。自我の確立というものがはっきり出来ていればいいのですが、それはかなり困難です(また自我の確立期に達してない年少者は常に現れてきます)。一見出来ているように見えても単に視野が狭かったり自己中心的なだけであったりするかもしれません。いやそもそも自我の確立がどのようなものを意味するのか、デカルトからヘーゲルに連なる自我の意味を把握しながら確立していくなんてことはどれほどの人に求められるのか、中々難しい問題です。まぁ実はとっても簡単ならそれでもいいのですが(私が哲学かぶれなだけで難しく考えているだけかもしれないし)、しかし自分探しを求めてしまう心性が大人になってもあるとしたら、やっぱり簡単ではないような気もします。それにみんな自我が確立されていたらこんなにネットは荒れないでしょうしね。だとしたら自我の確立は中々大変で、年を経れば勝手に成立しているもんではない、と一旦捉えてみることにして、そのうえで自我の代替システムとして様々なスターや作家の存在があり、そこへ私たち未成熟な自我の持ち主が我が身を投影させながらスター/作家たちを支持してしまう、というようにここでは考えてみておきましょう。

 

そう考えてみると、政治や経済とは関係ないように見え、一見社会の無駄に思えるエンタテイメントやフィクションにスポーツは非常に重要な社会的役割を果たしていると言えます。

 

サルトル実存主義とは何か』/100分de名著】 

(昔サルトルは、第三諸国で飢えて泣いている子供に対し文学になんの価値があるか、と問い立てましたが、それと似たような問題かもしれませんね。サルトルがどこでそういったのか知りませんので、関係ありそうなものを100分de名著と共に載せておくことにします)

 

…あれ、フィクションの話にまでいかなかった。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020_6_3/フィクション%2C読む

 

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お話その203(No.0203)