前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/01/13/190033
大衆と専門家 〜専門家は非専門領域のおいても専門家的態度をとり、大衆の典型と化す
現代の政治家がオルテガの言う慢心しきったおぼっちゃんや、柄谷行人の言うようなお殿様であるかはとりあえずおいといて(普段の様子を見ながら選挙の時に判断すればいいですしね)、もし政治家みたいな重要な職業/地位にある人が大衆の特徴をそのまま持っているのだとすれば困りますね。だって大衆って自分に課すものがないんですもの。世の中はどうしようと平気なままと思って好きなだけ欲しいものをよこせと言って平気な大衆人が権力のもと個人的に判断して決定していくのでは、その後起こってくる影響が怖い気もします。
しかしオルテガのいうには、実はこうした高度な専門職こそ大衆なのだ、ということになります。
【オルテガ『大衆の反逆』】
専門家と訓練
オルテガが例に出すのは政治家ではなく科学者なのですが、それは専門家の代表としてです。そして専門家の中で最も高度な存在が科学者であるが、しかし科学者こそ大衆の典型であると言います。
なぜ科学者(専門家)が大衆の典型なのでしょうか。科学者でもどんな専門家でも、怠け者で自分に課すもののない人間には出来ない職業です。ソファーに寝転がりながらTV見てスマホいじっているだけでなにかの専門家になれるわけではありません(もしなれたらそれはそれですごい気するけど)。イチローでも井上尚弥でもトレーニングなしにあんなすごい選手になれるわけありませんからね。それと同じでどの分野でも必要なトレーニングがあるわけです。そして専門家たるには、そうして課すトレーニングや学ぶことの蓄積なしにはありえない、と考えられそうです。
専門家の非専門領域での大衆的態度
しかしオルテガはそれだけで考えを終わりませんでした。専門家は確かに自分の分野においては熟知し深く知る人間であるが、代わりに自分が属している世界を離れたら他の人々と同じように何も知らない人間である。それは文明が発達し、あらゆる事柄に対して1人で対処することなどできず分業しなければならない以上必ず起こってくる現象である。しかしこうした分業=専門化に対し、ひとつの分野でひとかどの成果を持つ専門家となった人物は、自分の専門外の分野においても同じまま専門家として振る舞う。結果無知でしかない領域において専門家的な態度でもって語り判断してしまう。結局無知なまま必要以上の決定をしてしまう点で大衆と同じ、いやむしろ典型として存在するのである。ということだそうです。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/27/193051
(分業の問題は経済だけでなく、社会制度の面でも大きな影響があるわけですね)
これは困ったことですね。専門家が専門分野において話されていることは信用していいかもしれませんが、それを越えたところでも同じように専門家のように判断してしまっても、それは素人の判断と同じことになってしまいます。ましてやヘタに専門家ですので、自分の判断は正しいと錯覚して無知な分野に口を挟んでしまっているのでは危なっかしくていけません。それに聞いている方でも専門分野なんて知らない方が多いわけですから、その人が専門的な見解を専門分野で発言されているのか、それとも全然関係ない分野についてつい偉そうに発言してしまっているのか、わからなくなってきてしまいます(だから逆に専門家の言うこと全て聞かなくなって、専門分野に熟知している人を遠ざけたりもしてしまうのかもしれませんね)。でも一代で成功した人なんて、どこでも自分の判断が正しいように振る舞ってる気もしますね。でもそれ、あなたはよくても他の人にも当てはまるのでしょうか。こうした非専門領域での振る舞いというのは他者性の欠如から来るのかもしれませんね。
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/04/153050
逸脱した態度を避ける術
これを避けるにはどうすればいいのでしょうか。おそらく自分の立場を明確に意識し忘れることなく他の分野においては専門家に一応の敬意を払うことかもしれません。しかしこうした特徴は個人で持つことを期待するしかなく、またそうした人物が必ずしも重要な地位に座っているとも限りません。以前郵便局でかんぽ生命の不正販売がありましたが、おかしいと盾ついた社員は左遷され、ばんばん不正販売をして営業成績を上げていた人が出世して偉くなっていったと新聞で読んだ覚えもあります。そうした時不正販売なんて出世して重要な地位を占めた人たちには不正と映りません。ですから組織として不正を浄化することなどありえなくなりますものね。そしておかしいと言えば左遷せれてしまうのですから、こうした時こんな個人の特徴を育てようがありません。
この場合は組織的不正ですから、自分たちで定めた規則をきちんと守ること、つまり法の統治ということが大切なのかもしれません。儲けが出るからと小さなグレーゾーンを押し進めていると、いつの間にか白く塗りなおせないほどに真っ黒になっているのかもしれない、ということでしょうか。しかしこれはちょっとまた話が違ってくるかもしれませんね。少し戻って専門家が非専門分野で専門家のように振る舞うことを避けるには、自分の領域を区切っておくことも重要かもしれません。以前吉本隆明はそうして区切ることが出来るかがその人の評価の判断になる、と言っていたことがあります。その時はタモリを例に出していましたが(あと田中康夫と高橋源一郎の対比)、私はさんまも似たようなものかな、と思いました。しかしこれは当たり前のように思えてかなり難しいことのようです。人はひとつの領域で偉くなったならば、世界のどこでも偉くなったように思うのかもしれません。
【吉本隆明,糸井重里『悪人正機』】
大衆と選ばれる者
こうした問題に立ち向かうのがオルテガのいう選ばれた少数者=貴族/エリートなのかもしれませんが、それがどうすればなれるのかはかなり不透明です。そして貴族やエリートといってもそれが階級的な意味での貴族やエリートを意味するわけではありません。むしろオルテガは、そうした階級的な貴族やエリートこそ大衆である、と指摘し批判しているのでしょう。大衆という現象は問題ばかりなようにオルテガを読んでいると思えてきますね。
次回のお話
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お話その165(No.0165)