難民アニメとしての『無敵超人ザンボット3』
デビュー作の『海のトリトン』は手塚治虫原作の海洋冒険ものでした(昨日ご指摘がありましたので、私の勘違いでそう思っている可能性もあります)。まだロボットものではなかったのです。しかしいきなり『ガンダム』が始まるわけではありません。その前にもロボットものの作品がいくつかありました。そしてその中で最も強烈で作品として優れており、現在まで語り草となっている名作があります。それが『無敵超人ザンボット3』です(以下ちょっとネタバレになるかもしれません)。
これはとんでもない作品です。ロボットものだからといって、普通のロボットものを想像してはいけません。普通ありえるような勧善懲悪の正義の味方が描かれているわけではないのです。では何が描かれているのか。それは難民なのです。
構造的物語としてのロボットアニメ 〜型の踏襲と現実からの批判
普通ロボットものでは敵が襲ってきて、主人公たちがロボットに乗って戦います。それは型にはめられたストーリーです。以前プロップを参考にして物語が構造=パターンであることを書きましたが
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/07/08/193040
特にアニメや漫画といった大衆作品にはこうしたパターンが頻出します。それどころか東浩紀が指摘しているように、現代ではこの似た要素の引用元を照らし合わすこと自体が娯楽の快楽となっています。つまり作品に出てきた意匠の元ネタを探すことが楽しいのですね。『ガンダム』などその一大鉱脈と化しネタにされまくっています。他にも『ジョジョ』とか『バキ』とかがあって、共通の土台としてオタク同士でコミュニケーション可能な共有圏が成立しているわけですね。これを前のKADOKAWAの社長となった川上量生は一つの教養と述べたそうです。
富野由悠季の疑問 〜町は無事なのか?
そんな類型化しているロボットアニメですが、富野由悠季は自分で手がける時に疑問に思いました。いきなり空から敵ロボットなんかがやってきて、住んでた人々はどうなる、と。そして『ザンボット3』では敵がやってきて主人公たちがロボットに乗り戦うことによって、町の住人たちは被害に遭います。そして敵と戦って退けた主人公たちにむかって、お前たちがいたから襲ってきた、と迫害するのでした。それだけでなく敵に襲われた住人たちは住処も失い行き場所もなく、受け入れてもらえることもなしに放浪するしかないのです。それはすべて空からやってきた謎の敵のせいであり、主人公たちが戦わねばならない理由そのものによって彼らは迫害され難民と化すのです。
設定の前提の矛盾を問題の焦点とする離れ技
富野由悠季はこうしたロボットものにあった、設定の前提を見逃すことなく現実に照らして問題の焦点としたのでした。それは作品にあるパターンをパターンとして受け入れてしまうのではなく、原理的に反省して批判した観点から作品を立ち上げることを意味するのだと思います。なぜそのような真似をしたのかというと、現実そのものが表現の対象となるべきであって、一度出来上がった矛盾のある型を受け入れて再生産するだけを表現とみなさなかったからではないでしょうか。この態度は大変立派なものです。と同時に創作者として決定的な差となってくるでしょう。
日本文化と型の踏襲
ただ、こうした型の踏襲というものは、むしろ日本的である可能性もあります。中上健次がどこかで発言していましたが、和歌や俳句に出てくる自然は型にはめられたものであり、梅なら梅自体を見て表現するのではなく、梅の表現としてすでに出来上がったものを型として受け入れ、それを自作にうまく加工して取り入れることだ、と述べていました。そしてそれは谷崎潤一郎でも同じだ、と。
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これは以前書いた日本の文化の特徴と似てもくるのですが、それがいいのか悪いのかはまた別の問題です。いえ、むしろどの部分がよくてどの部分が悪いのか、ということでしょう。どちらにせよ手放しに褒めるも貶すも出来ない、結構難しい問題かと思います。
そしてそれと同じことが日本のロボットアニメにもあり、富野由悠季はそれをよしとせず批判して作品を立ち上げ成功しました。そのため『ザンボット3』は伝説の作品として今日まで残っています。たとえばオタク叢書というシリーズがあるのですが、この中に富野由悠季の作品として『ガンダム』だけでなく『イデオン』と『ザンボット3』が入っています。実に目の肥えた選択です。
参考となる本
【無敵超人ザンボット3】
作品については言うことがありません。素晴らしい作品です。難民アニメだと言いましたが、同時に反戦アニメでもあります。昔のオタクは反戦だった、とある人が書いていましたが、その精神はまだ残っているのでしょうか。
ちなみに富野由悠季の挑戦の一つに、最終回でロボットが壊れるという演出があります。これを会社は激怒し、大喧嘩の末やったと言います。理由は簡単で、スポンサーであるおもちゃ会社の商品を壊すなどご法度だからです。ですから昔のロボットアニメではいくら戦ってもロボットは破壊されないそうです。
しかしこれにも富野由悠季は疑問を持ちました。激しい最終決戦の末に、ロボットが壊れないなんてありえない。また人も無事ではすまない。こうして悲惨な最終回は終えられたのですが、これもまた現実から作品を立ち上げていった結果ですね。けれどもこうした富野由悠季の批評性はファンの側から、全滅のトミノ、と呼ばれるようになり、型から脱したものだったはずのものが、逆転してまた型にはめられてしまったのでした。そして悲惨な作品を見ると、トミノみたい、と型の踏襲を喜ぶのでした。歌舞伎でも生け花でもある型の踏襲。これが日本文化とまったく関係のなさそうなアニメでも行われ、類稀なる作家の批評性まで取り込んでいる、と考えると少し感慨深いですね。日本文化の強固な再現性とでもいえるかもしれません。なかなか建国以来の癖を直すのは大変のようです。でも、それが悪いのかどうかも、ちょっとわからないかもしれませんね。
【氷川竜介『20年目のザンボット3』】
タイトル通り『ザンボット3』が放映されてから20年目に書かれた本。私は『ザンボット3』を見たことなかったので、書店にあるのを見てなんで今さらそんなもん書く必要があるんだろ、と昔思っていました。そしてたまたま見てみますと、そりゃ書かずにはいられないような作品だ、と納得しました。ただこの本、持ってもいません。どこかで見つけたら買ってみようかな。
【東浩紀『動物化するポストモダン』】
オタク作品が既存の作品からの引用を読み取って楽しむものになっていることを指摘した本。オタク論として大変有名で、おそらくこの20年でのオタク評価の向上を決定づけた本だと思います。東浩紀は高名な批評家で、もともとは現代思想のジャック・デリダという人の専門家として論壇に登場しました。そして現代思想の応用の一環としてこの本を書いた側面もあり、また本当に熱心なアニメファンとして書いた側面もあります。押井守の大ファンだそうです。
他にも美少女ゲームを批評の俎上にあげたりして、既存の枠組みから踏み越えた人だったのですが、いつの間にか同じようなことをする人が増えました。それとも私がそんな人たちの本ばかりを読んでいるのでしょうか。時代の趨勢もあるかもしれませんね。しかし同時に硬派な批評家=思想家である人です。
次の日の内容
『機動戦士ガンダム』のテーマと意味、または挑戦、挫折と成功/栄光 〜ロボットアニメの世界観とガンダムキャラクターの人間観【富野由悠季】 - 日々是〆〆吟味
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『海のトリトン』のピピ 〜子ども向けアニメに組み込まれた男女の姿【富野由悠季,手塚治虫】 - 日々是〆〆吟味
お話その66(No.0066)