日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

『ガンダム』における人物像の実存からキャラへの変化 〜学生運動と結びつく私小説的な実存的キャラクターと情報化社会によるイメージの実体化により生まれた表層的キャラクター【機動戦士ガンダムSEED】

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『ガンダム』における実存とキャラクター 〜その時代背景との影響関係?

私小説的キャラクターの実存性

『機動戦士ガンダム』は富野由悠季の私小説である、という指摘をした人がいます。それは言い得て妙なところがあり、『ガンダム』は実に屈託した青年の姿を描いています。そうした姿は等身大の人間の姿であり、あたかも富野由悠季自身の姿を重ねたかのようにも見える人物造形でした。それはアムロというキャラクターを実存的に描こうとしているからです。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/02/193000

 

ではなぜ実存的なキャラクターをアニメの中に描いたのでしょうか。

 

実存的キャラクターの社会的背景 〜60年代の学生運動

理由はたくさんあると思いますが、ちょっと社会的な背景から考えてみましょうね。

 

富野由悠季は敗戦の少し前に生まれました。というより戦争の始まった頃に生まれたようです。仕事を始めたのは60年代半ば、ちょうどこの時期は学生運動が盛んな時期だったようです。文芸批評家の絓秀実が68年革命と呼ぶ、学生運動の頂点となる時期をまだ二十代で過ごしたわけですね。

 

この学生運動というものが、どうもとても実存的なものだったようなのです。つまり自分の中にあるやむにやまれぬようなものに突き動かされてしまう、そんな側面があったようです。だから読み込むことによって自分の内面を掴むような現代詩が重要な表現として現れ、難解なものを書く詩人で批評家の吉本隆明が教祖と呼ばれるくらい支持されました。そして学生運動は相当に大きな社会的影響を与えもしたそうです(全部よく知りませんけども)。

 

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となると、やはり表現の場でも影響を受けるかと思います。そして学生運動の頂点から10年、運動自体は収束していますが、その時代を生きた人々は当時の記憶を残したままに年を重ねました。学生だった人も社会人です。そして表現の場にいる者もそうした時代を経た者が担うようになります。

 

学生運動後と『機動戦士ガンダム』

事実、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインをしている安彦良和は学生運動の運動家として、当時かなり名の知れた人だったそうです。そうした同世代の人たちと仕事をしていて、富野由悠季のような優れた表現者が他人事のまま描くとは考えにくいかと思います。そして学生運動の人々のメンタリティーは実存的でした。ならば表現の中にも実存的なものが入り込んできてもおかしくないかもしれません。

 

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そして富野由悠季自身も学生時代、自治会に入ってのち私学連との関わりが出来て内部の状況に関心を持ったそうです。なんでも組織のあり方が国と軍部の関係に似ているように感じ、お金の流れも肌感覚でわかってくるようにもなったといいます。そのまま私学連に深く関わっていく前に辞めたそうですが、それは自分は組織論に関心があったからだと思う、とも述べていました。この経験が作品の中にどこか反映されているかもしれませんね。

(ちなみに前回『ガンダム』はベトナム戦争後ではないか、とご指摘頂きましたが、まさにその通りで、学生運動とベトナム戦争反対は密接な関係があったと思います。ではなぜ太平洋戦争後としたかといえば、日本にとって我が事の戦争は太平洋戦争に他ならず、それに対してアフガニスタン・イラク戦争は湾岸戦争以降の記号化され消費されてしまった戦争としてある、と両者を対比するためでした。その差を『機動戦士ガンダム』と『機動戦士ガンダムSEED』に見ていこう、というお話しの途中なのですね)。

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/01/120010

 

情報化社会とイメージの実体化

一方『機動戦士ガンダムSEED』にとって、学生運動に比する社会的事件は文句なく9.11かと思います。しかしそれは国外的事件です。国内的出来事としては何があったでしょうか。初代『ガンダム』との比較でいえば(放送の約10年前)、阪神大震災やオウム事件があったかもしれませんね。しかしそうした側面は『SEED』には感じられません(私だけ?)。

 

しかしパソコンからネットといったものの登場によって、社会のよりイメージ化がちょっとずつ進んでいた時代でもあったかもしれません。これは国際事情であると同時に国内的に進んだものでもあります。ただでさえ消費社会になってイメージの方が上位になってきたのに、インターネットの存在によりますます加速がつきました。今やイメージが実物とどう違うのか、難しくなっているかもしれません。しかし『SEED』の頃はまだそこまで行ってはいなかったでしょう。

 

ですがその前駆症状として、本来イメージでしかなかったものがより実体を持って現れ出してきました。たとえばアニメの人気が認められだすのはこの頃のはずです。それまでキャラクターでしかないものに熱狂するのは奇異の目で見られていました。しかしアメリカで『千と千尋の神隠し』がヒットしたとか、日本経済は回復の見込みはないがアニメは海外で売れるらしい、という、ちょっと表現そのものとは違う形で認められ出してきたようです。

 

内面のリアリティ 〜実存からキャラへ、似姿から願望へ…?

となると初代『ガンダム』にあったような実存的な人物造形は後退していくように思います。そもそも消費社会が到来したバブルによって実存的人物像は滅んだのかもしれません。富野由悠季もかつてのように作品を作らなくなっていくのも90年代半ばでした。また宮台真司が登場し援助交際をする少女たちを擁護して、彼女たちには傷つく内面などない(乗り越えられた)と発言していたのもこの時期です。つまりかつての内面や実存は終わった、と思われたわけですね。

 

しかしその頃『エヴァ』がありました。主人公のシンジくんはそんな時代に珍しく、屈託しまくった内面を持つ少年でした。『エヴァ』は主人公の造形という点では初代『ガンダム』を引き継いでいたといえます。しかしその後はシンジくんの屈託ではなく、アスカやレイといった美少女キャラクターの方が盛んになりました。これはアニメの受け手も実存的なキャラクターより美少女的なキャラクターの方を好んだからです。つまり自分たちの似姿ではなく、自分たちの願望を受け入れてくれるキャラクター像の方を選んだわけです。これが時代の趨勢でした。

 

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そしてそれを『SEED』は受け継いでいるといえます。ただ『SEED』はそれが美少女キャラクターであるより美少年キャラクターに偏りました。おそらくはガンダムですから完全に美少女化してしまうことができなかったのと、まだ完全に美少女ばかりで登場人物を占めてしまうような時代ではなかったのかもしれません(よく覚えてない)。そして脚本家が監督の奥さんで、女性だったことも要因の一つかもしれません。

 

ともかく初代『ガンダム』にはあった実存的なキャラクター像は『SEED』ではなくなり、代わりに美少女キャラクターの転用されたものにキャラクター像はなりました。すなわち自分たちの似姿から願望を受け入れてくれるキャラクターにです。実存からキャラへ、とでもいえるかもしれません。そして戦争という現実が遠い国で起こりながら、その影響を受けてしまわねばならない戦争アニメは、実存ではなくキャラとして作中の戦争に描かれました。

 

それは同時に戦争をキャラクター化=イメージ化させることへと協力してしまうことにつながったのだと思います。

 

気になったら読んで欲しい本

安彦良和『アニメ・マンガ・戦争』 

安彦良和が学生運動をしていて当時有名だったことは、この本の中で大塚英志との対談で読んだ覚えがあります。ただ私は雑誌で読んだので、こちらにそのまま乗っているかは知りません。かなりの喧嘩対談だった覚えがあります。

絓秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』『1968年』 

読んでないんですが、学生運動について多分書いてあるんじゃないかと思う本です。著者の絓秀実はかなり学生運動を重視しているようなのですが、著作をまともに読んでない私はよく知りません。新書なら手に取りやすそうですけどね。そのうち読みたいと思います(いつ?)。

ちなみに学生運動に従事した人はあちこちに散らばっていて、西部邁みたいに保守思想家になったり、仙谷由人みたいに政治家になったり、笠井潔みたいにミステリ作家/批評家になったり、安彦良和みたいにアニメや漫画家になったりしています。バラエティ豊かですね。

 

吉本隆明,大塚英志『だいたいで、いいじゃない』 

学生運動の頃に教祖とまで呼ばれた吉本隆明と、消費社会についてよく書く大塚英志との対談で、解説は富野由悠季というなんとも今回の話題にぴったりな一冊です(ただ解説は文庫版だけ)。でも内容は『エヴァ』と江藤淳の死についてです。

しかしへんてこりんな組み合わせですね。

大塚英志『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』 

で、その大塚英志が漫画原作者として自分たちの領域に金になるからといって近寄ってきた世の中の風潮に対して反発した本。かなり穏やかに書いています。

この中にアニメや漫画が表現としてではなく経済として発見されたことの意味も書いてあったかと思います。

宮台真司『制服少女たちの選択』 

で、屈託する内面はもはや存在しない、と宣言した宮台真司の本。これはある意味では全共闘世代への批判として出された命題かもしれません。時代は変わったことを宮台真司なりにはっきりさせたかった側面もあるのかもしれませんね。

ただ内面が必要とされずなくなった、という主張はのちに取り下げたようです。しかしこれらも私は読んでおらず、ちょこちょこ目にした文章からいいかげんに推測して書いているのでした。興味のある方はぜひこの本をお読みください。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/08/070058

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/06/070041

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お話その126(No.0126)