日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

遠い国の戦争と、フィクションの中の戦争 〜戦争の具体的な体験の記述/表現と戦争経験者のいなくなった時代の具体性からパターン化による安心への変質と変化【機動戦士ガンダム/SEED】

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キャラ化=イメージ化した戦争とは

さて、実存ではなくキャラが戦争を表現するとどうなるのでしょうか。別にアムロもキラもどちらもキャラクターじゃないか、と思えますものね。なんの違いが現れてくるのでしょう。

 

戦争の具体性とイメージ

戦争は具体的な出来事ですね。戦地に赴いた兵士はそこで死んでしまうわけです。血気盛んに敵を蹴散らして進軍するわけではありません。いえ、そんな時もあるかもしれませんが常勝ばかりではないでしょう。それは勝利した事実をマスメディアを通して物語化するからそうなるわけですね。そうして内地で暮らしている人々に届けられることによって戦争は具体的なものからイメージへと変わっていきます。

 

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富野由悠季の具体性

富野由悠季の作品が優れている点のひとつに、こうしたイメージではなく具体的な戦争の姿を描こうとしたところがあるかと思います。それは死の描き方に差があり、劇的に死ぬこともありますが、意味もなく死ぬこともあります。その意味もない死、それが当たり前に起こるのが戦争ですね。銃撃戦で死ぬばかりではなく、兵站が切れて餓死したり病気になったりして死ぬこともあるでしょう。戦わずして死ぬのでは、兵隊としての甲斐がありませんものね(軍国少年だった吉本隆明は第一次大戦に従軍した父親に、自分の隣の奴は雨除けしてたら土砂が落ちてきて死んじゃったし、他の奴は腹痛くなって下痢続きで衰弱して死んじゃった、本当にドンパチやってそれで死んだなんて調子のいいの、あまりないんだよ、と言われたそうです)。

 

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下痢で死んじゃうのは戦地に向かったものとしてとても残念な死に方のような気がしますが、事実として起こりうる出来事かと思います。これを具体性というならば、進軍ラッパの物語はイメージと呼べそうですね。

 

富野由悠季の作品ではさすがに下痢で死ぬキャラクターはいませんが、演出法においてほとんど気づかれぬうちにかなりの重要キャラクターが死んでしまうことがあります。それは戦争における意味のない死を描いていると思います。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/05/193032

 

これはキャラクターが実存的であるのと同じようにして世界の在り方が具体的に描かれているからだとも思います。つまりキャラクターも作品世界も、どちらも具体的なものとして描かれているわけです。ですから主人公が屈託することも戦争で意味もなく死ぬことも結びつくのです。

 

キャラ的キャラクターの悲惨な戦争

一方『SEED』のキャラクターは実存的ではなくキャラ的です。どうちがうのかといえば、実存的キャラクターが見ている人たちからすれば自己投影できる対象だとすれば、キャラ的キャラクター(変な言い方だな…)は見ている人たちにとって自己願望を投影できる対象です。別の言い方をすれば実存的キャラクターは自分と似ていたり、周りにも実際に存在していそうな人間のキャラクター像であり、キャラ的キャラクターは自分の求める理想像としてのキャラクターです。いわば実存的キャラクターは私小説の主人公みたいなの、キャラ的キャラクターは少女マンガに出てくる王子様、ってところでしょうか。

 

さて、勝手ながらこう規定してみますと、キャラ的キャラクターを使ってどうやって戦争を具体的に描けばいいでしょうか。いわばキャラクターは進軍ラッパの戦争イメージにふさわしい造形の仕方をしているのに、そのキャラクターに対して悲惨な戦争の姿を描こうとするのは矛盾が出てきそうです。実存的キャラクターであればこそ、戦争の具体性の中で意味もなく死んで、悲惨さが生まれます。キャラ的キャラクターでは、あ、あのキャラが死んだ、で終わってしまいかねません。

 

実際『SEED』では主人公の友人が急に戦闘の訓練なんかを始めます。今までのストーリーの流れからでは唐突に感じるような展開でした。普通に見ていてもちょっとおかしく感じるくらいかと思います。そしてその友人はそのままいきなり戦場に出て、あっけなく死にます。

しかしそれが富野由悠季の手による意味のない死と同じではないと思えるのは、あまりにもストーリー展開的に見え見えに死んでいくからです。明らかにこれから死ぬということが見ている方でもわかるくらい不自然に戦闘訓練を始め、戦場に出て、案の定死にます。これはいわば死にフラグというものであり、わかりきった展開でしかありません。物語が構造的だとするならば、これこそ構造=パターン化されたものです。実存的とか具体性とは対極のものです。パターンさえ読めてしまえれば、誰でも先がわかるようなものだからです。

 

具体的な戦争からパターン化された戦争像へ

ではこうしたキャラ的キャラクター、もしくは構造的物語では、悲惨な戦争はどのように描かれるでしょうか。

 

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それは本来具体的であるはずの戦争を、パターン化した戦争像へと転換させることになるかと思います。戦争の持つ具体性を構造化された物語によって進軍ラッパのイメージ化と大差ないものにしながら、それでも悲惨なものとして描こうとし、願望を投影するキャラ的キャラクターによって具体性を失ったままに悲惨と感情移入させてしまいます。それは戦争が本来持っているはずの具体性を抹消した上で、見慣れた姿の戦争物語にしてしまうことにつながっていきます。つまり戦争という悲惨な体験があり、それに参加した者は苦悩し、もう二度とやめよう、非常に意地悪な言い方をすれば、敗戦記念日になると放送される反戦ドラマみたいなものです(見たことないからこんなこと書いちゃったけど、もしかしたら傑作があるのかもしれません)。

 

これはまた、パターン化された戦争認識です。悪くいえば戦争の具体性ではなくイメージです。進軍ラッパの戦争もイメージならば、反戦の戦争もまたイメージなのです。そしてそのどちらにも戦争の具体性は失われているかと思います。

 

我が事から他人事へ

結果初代『ガンダム』が懸命になって行おうとしたアニメの中の反戦は『SEED』においてはパターン化した戦争像を描くことになってしまった、と私には思われました。そしてそれがアフガニスタン・イラク戦争が実際に起きている時に放送されたということは、遠い国で実際に起きている戦争をわかりやすいイメージの戦争へと受け止めることによって、他人事として安心させることにつながったのかもしれません。かつての戦争を我が事と感じることは過去のものとなり、いわば未知の具体性より既知のパターン化を選んだわけです。そうすることによって現実に起きている戦争を意識させずにすませることに成功したのです。おそらく当時の視聴者層だった中高生にとっては戦争という事実をどう受け止めればいいかわからなかったと思います。それをフィクションの側に引き寄せるような形で、見慣れた距離のおけるものとして描いたのです。『SEED』が当時大ヒットした理由の一端かもしれません。

 

富野由悠季の『機動戦士ガンダムSEED』への発言例

では富野由悠季は『SEED』についてどう思っていたのでしょうか。ちょうどその頃講演された内容を文字起こしされている方がいらっしゃいましたので、参考のために載せておきたいと思います。10年くらい前の講演になります。

 

中途半端に富野の言葉を語らないで欲しい - 玖足手帖-アニメブログ-

(引用主様からブックマークへコメント頂きましてありがとうございます。ブログへの言及じゃなくて富野由悠季監督の発言として引用させてもらいましたので、この程度で申し訳ありません)

 

富野由悠季曰く、この2年くらいついに『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』のスタッフ見ても、ぶん殴るという衝動を押さえる事ができるようになりました、とのことです。

 

富野由悠季に倣って言えば私もよく我慢が出来るようになりました。『機動戦士ガンダムSEED』のことを、罵倒せずに書き終えることが出来たのですから。

 

気になったら触れて欲しい作品/本

『機動戦士ガンダム』

富野由悠季のガンダム。

『機動戦士ガンダムSEED』
01.PHASE-01 偽りの平和

01.PHASE-01 偽りの平和

 

アフガニスタン・イラク戦争の最中に放送されたガンダム。

 

見比べてもらえれば本望です。興味なければ見なくてもいいです。

 

でもどちらかといえば

『無敵超人ザンボット3』
第1話 ザンボ・エース登場

第1話 ザンボ・エース登場

 

『伝説巨人イデオン』
第1話 復活のイデオン

第1話 復活のイデオン

 
伝説巨神イデオン 発動篇

伝説巨神イデオン 発動篇

 

と比べて欲しいです。戦争の姿としては『ザンボット3』死に方としては『イデオン』(それも劇場版)がわかりやすい比較対象かと思います。

 

吉本隆明,糸井重里『悪人正機』 

吉本隆明が父親から言われたという話はこの本の中に出ていたかと思います。糸井重里をインタビュアーとしたインタビュー集です。どうも糸井重里は晩年の吉本隆明のもとを訪れて頻繁に話を聞いていたようです。そのほんの一部が収録されているみたいですね。

 

次回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/11/070051

前回の内容

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/07/070025

 

今回までの続き

(湾岸戦争を無視してるとのご指摘がありましたので、一応今回のお話はボードリヤールの消費社会論について書いたものからの続きですので、もし興味ありましたら過去のお話をお読みくだされば幸いです。ボードリヤールは湾岸戦争をイメージ化されすぎていて、あたかも現実の戦争のようではなくフィクションの戦争のように過ぎ去ってしまい、湾岸戦争は起こらなかった、と書きました。ではそれを踏まえてアフガニスタン・イラク戦争の時はフィクションの方は戦争をどう描いたのか、ということを最初のガンダムと比較して見てみよう、というわけです。一回で書ききれませんので続けて書いているのでわかりにくくなっているかもしれませんがご容赦ください)

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/05/070009

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/06/070041

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/07/070025

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/01/120010

 

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お話その127(No.0127)