新しい世界と自由と重圧 〜誰もいないがなにも決まっておらず、自らでやり方を作っていく自由と重圧
新しい世界が現れるということは先行世代がいないということなので、そこに入った新しい世代がいきなり偉くなることが出来る、というようなお話を書いてみたのですが、偉い偉くないというだけでなく、自由だ、ということも含めておかないとあまりよくありませんね。というわけで、そんなことを前回書いてから思ったりもしたので、続けて書いてみたいと思います。
前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/2020/03/10/200027
新しい世界 〜誰もいないがなにも決まっていない
新しい世界というのは未踏地ですから、先に誰もいません。先行世代がいないということですが、それは同時にその場所(=新しい世界)でどのようにやればいいのかはなにも決まっていない、ということでもあります。
それはある意味では完全に自由だ、ということも意味するのかもしれません。もし先行世代が既におり、彼らによってやり方が決まっていれば後続世代はそのやり方に従わなければ何事かを行うことすら許されない場合もあるかもしれません。先輩のやり方を後輩は真似ろ、といったことでしょうか。これがあまり実効性がないにも関わらずやらされたならパワハラに繋がるかもしれませんが、実際やり方をわからないうちは大変勉強になることもあるかもしれません(いい先輩につけば安心だけどね)。
自分たちで考える必要のある、新しいやり方
ですがまったく新しい世界で、誰もそこにいないとなれば従う人も教えてくれる人もいないので自分たちでやり方も考えていかなければなりません。たとえばTVのバラエティ番組でピンマイクを使ったり、素人を起用するのを始めたのは欽ちゃんだそうですが、これはまだTVというものの形が定まっていないから自分たちでやり方を作っていかなければならなかったわけですね。欽ちゃんの座付き作者でもあった作家の小林信彦は、自分たちこそTVを作った世代であると自負されていましたが、多分誇張抜きでその通りだったのだと思います。
【萩本欽一『なんでそーなるの!』】
【萩本欽一『「笑」ほど』素敵な商売はない】
【小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム】
(欽ちゃんと小林信彦の手に入りやすそうな本を並べてみました。私は真ん中の一冊だけ読みました。欽ちゃんのやり方が書いてあって面白かった覚えがあります。小林信彦は偉い作家で、今60歳くらいの書き手にとっては共通して読まれたそうです。TVかつミステリ出身だったため、芥川賞3回直木賞3回都合6回候補にあがりながら、結局とらせてもらえなかったそうです。そういう時代もあったんですね。ちなみに桂三枝とオヨヨ事件があったり、立川談志を認めず黙殺したりと中々凄い逸話があります)
自由と重圧
しかし逆にいえばすべてのことを自分たちで決めなければいけない、ということでもあり、その重圧は大きいかもしれません。既に定まったやり方はないわけですから、失敗しても立て直す方法すらわからないわけです。先駆者がいればわからない時は聞けばいいのですが、いないのでその場にあった最も適したやり方というのはどこをさがしてもないことになります。誰も助けてくれないわけです。
この新しいけど自由、といった問題が、良い方悪い方、どちらに転ぶかでまったく自由の価値が変わってくるかもしれませんね。自分で決めていくことが出来ない人であれば、誰か決めてくれる人に従いたくなるかもしれません。しかし自分で決めれる人は、誰もいない自由な世界の方がやりやすいでしょう。これは芸とかメディアだけでなく、近代社会そのものが持つ問題のひとつのようで、エーリッヒ・フロムはあまりに過度な自由が重荷になり、誰かに決めてもらいたく権力者に従う性向が大衆にはある、と分析したようです(ちゃんと読んでない)。
【フロム『自由からの逃走』】
自由のための素地
そう考えると新しい世界で一から立ち上げていくということは、その世界以外で相当の素地を身につけた人間にしか出来ないことなのかもしれません。欽ちゃんでもたけしでも、TVに出る前には寄席での修行時代がありますし、大阪芸人は東京で全国区になる前に大阪で大御所などと共演し鍛えられています(上沼恵美子の番組で話芸を披露しなくちゃいけませんからね。存命の時はやしきたかじんにも披露しなくちゃいけないし、特番になると平気で藤山直美が隣にいたりするんだもん。そういえばブラックマヨネーズ吉田はチュートリアルがM-1優勝した時、たかじんと藤山直美の前でけちょんけちょんにされている徳井福田を見て、うわ、優勝したらあないならなあかんのか、と言ってたのを見た覚えがあります。大変だなぁ。でも千鳥は東京行きだしの頃、東京は緊張する、音楽番組に行けばタッキー&翼なんぞがいる、ミュージシャンは円広志だけでええ。なんて言ってましたから、東京は東京で大変ですね。違う大物と本物がうようよしてるわけです)。そこで先行世代の芸を学び身につけていくことで、自分たちにとっての新しい世界としてのTV/東京へ向かうのかもしれません(ただこの場合の新しい世界は、未踏地ではなく化物の徘徊するサファリパークだけど)。
偉大な先人を継承することによって起こる美学の養成と、新しい世界であることの自由
そういえば先日(当時)『ダウンタウンなう』でキングコング梶原ことカジサック(逆か?)が出ていて、家族出すとか芸人としてなら出来ないけどYouTuberとしてなら出来る、それは芸人としてであればこんなこと芸人のすることやないと思うけど、YouTuberとしてなら(つまりキングコング梶原としてではなく、カジサックとしてなら)そんなこと思わない、と話されていました。これは〝芸人〟というカテゴリーであれば、ダウンタウンたち偉大な先行世代のやってきたことを鑑みて〝芸人〟なるものを自らで自己規定していかなければならないが、YouTuberであればそんなものはないからいくらでも自由に出来る、ということなのかもしれません。それはダウンタウンを範とすることで身につくものがたくさんあると同時に、それに反したことは〝芸人〟としての美学が許さなくなってしまう、つまり意識が縛られるけど、誰も先にいなくて範とする人がいないYouTuberであれば、そんなものはなにもなく好き勝手に縛られることなくやれる、ということかもしれません。そしてカジサックはキングコング梶原として他を圧倒する素地をまさに〝芸人〟として築いているために、新たな世界としてのYouTubeであっても自分で決めていく能力がある、と考えてみることも出来ますね。
新しいことと素地と教養
ついでにいうと、きっとこうした新しい世界で自由に自分で決定しながらやり方を切り開いていく人たちは、カジサックのようにどこか違う(けどよく似た隣接する)分野で高い能力を身につけた人や、またはそうした違う分野のやり方を学んだり転用した人が出来ることなのかもしれませんね。いってみればこれこそ教養みたいなもので、なにか自分の世界で既に定まったやり方以外の方法でやろうとすれば(言い方を変えれば、その世界で新しいことをやろうとすれば)他の世界からとことん学んだ人しか無理なのだ(それこそキングコング梶原のように)、ということなのかもしれません。だから政治家とか経営者には教養が求められるのかもしれませんね。それがないと強権で物事決めてもきっと思わぬ余波が生まれ、しかもその悪影響を正しく認識できなかったりして失敗したりするんですね(どうでしょうか?)。
【ミルズ『パワー・エリート』】
まぁこれは新しい世界というよりも、新しいことやなにが起こるかわからないなかで判断したり対処したりすることかもしれませんから、ちょっと違う話かもしれません。なんだかこう書くとせっかくの新しい素人の時代であるネット社会が霞んで見えてしまいますね。長くなったし、この辺でやめておくことにします。
次回のお話
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お話その182(No.0182)