日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

情報が多い現代社会のメディア状況により専門性の欠如した伝播情報=デマがあふれ加速される空気を読む現象 〜短く軽い制限と記号的差異化に戯れるポストモダンによって転倒される意味と表現

スポンサーリンク

スポンサーリンク

 

前回までのお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/25/190035

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/26/190017

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/27/190039

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/11/28/190019

 

空気を読むこととメディア

最後に現代において空気を読むことが、どのように現れてくるのかを少し考えてみたいと思います。

 

伝播性と専門性

空気を読むことが伝播的に行われることであり、専門的な見解をもつわけではないことは理解できそうですね。空気を読む、ということはどのようなことかみな大体知っている(伝わっている)のに対し、丸山眞男が『現代政治の思想と行動』でどのように書いて空気という考え方を出したのかは知っている人は少ないわけです。大抵どこからか空気を読むという言葉と意味を伝えられて知るのであり、それはその人個人の開かれた関係性の中でどこからでも入ってきます。一方丸山眞男が直接どのように考えて空気と言ったかは、丸山眞男の書いた本を読まなければなりません。いわば映画の予告をあちこちで見てその作品のイメージを持つことと、直接その作品を見ることの違いみたいなもんでしょうか。

 

f:id:waka-rukana:20200807155219j:plain

 

そして空気に抗うためにも、こうした専門性を持った本を直接読んだりしなければなりませんでした。そうすることによって伝播的に伝えられる情報に対して、原理的な立場で対抗できると一応は考えられるからです(しかしこうした対抗も空気に対してはすり抜けてしか対抗出来ないと思われるのが難しいところかと思います)。

 

長大な情報源と簡潔な説明

しかし本というものは情報量が相当に多いものです。古典的なものになればなるほど多いかと思います。そのためそうした古典的な内容を踏まえて物事を判断するということは大変時間のかかるものです。

 

それは読んで学ぶというだけではありません。そうした古典的教養をもし身につけていたとしても、それを踏まえて説明すること自体が難しいと思われます。分厚くて複雑な内容をすっきり要約するなんて、読んで理解しているだけでは多分難しい気がします。そもそも私なんかだと理解すら出来ていません。ましてやそれを簡潔に行うこと、それどころか前知識もない相手に短い時間で満足に理解してもらえるような説明をすることは至難の技と考えられます(もしかしたら不可能かも)。

 

f:id:waka-rukana:20200730210653p:plain

 

しかしマスメディアではこうした簡潔な説明が求められます。TVであれば1〜2時間のニュース番組の中で話題をいくつもつめこみ、内容VTRを流したりフリップで説明した上でスタジオにいる人間の意見を聞くことになります。それも人数が多ければ与えられる時間はさらに短くなります。ひとつの話題に1〜2分の発言で全てを尽くそうというのはいくらなんでも不可能と考えられそうです。

 

たとえば以前市民社会について書いたものとしてヘーゲルの『法の哲学』が有名らしい、と載せたことがありますが、『法の哲学』はとてもじゃありませんが1日2日で読めるような代物ではありません。ですが私たちは市民でも国家でも国民でも、なんだか当たり前のように使って知ったような気になっています。それはたしかになんとなく知ってはいるのですが、もともとの説明に触れて理解しているわけではありません(ただこうしたなんとなく知っている、ということを成し遂げたことこそが、日本の近代化の大きな一歩でもあったそうです。それは欧語をそのままではなく漢語化して概念を日本語化することによって、原典を知らぬ層にも社会的な概念を身につけさせることに成功したからといいます。そうならないと欧文原典を読む層しか近代化を担えないのに対し、庶民も一緒に近代化を担うことが出来るからなんだそうです)。

 

 

それは別にTVだけでなく出版でも同じです。要点をかいつまんで説明を書いてくれていても、やはり元に書かれたものから抜け落ちてしまいます。ですからそうした古典から発展した考えがあったとしても、またもとの古典に帰って読み直すことが人文科学ではおこるのだと思います。ましてや私のようなものが書いた文章などざるですくうのもいいところです。せめて関心でもひけてもととなる本を読んでもらえるようになれれば万々歳です。

 

つまり短い説明や簡潔な説明ではこぼれ落ちてしまうわけですね。しかしTVではあまりに与えられる時間が短く、十分な説明が難しいのです。島田紳助はTVで30秒以上1人でしゃべってたらすべってるのと同じ、と言ったそうですが、それと似たようなことがバラエティ以外でも起こっているわけですね。なんといってもTVは時間的表現です。1日は24時間しかないわけで、人がよく見る時間もその中で限られています。そうした限られた短い時間の中ですべてを詰め込まなければならないのですから、そりゃ無理が出てきてもしかたないかと思います。

 

短い表現と記号的差異化

これがネットになってきますとさらに短くなってきました。Twitterは140文字です。ヘーゲルの『法の哲学』が二段組400ページだとすれば、アリとゾウくらい規模が違ってしまいます。こうなってくると短い文章の中に凝縮して要約するとしても、これもまたいくらなんでも無茶かと思います。書けない情報の方が圧倒的に多くなりますものね。

 

そしてそれだけ短ければ中身のあるものよりも中身のないものの方が楽に書けますし話すことも出来ます。バラエティ番組で芸人さんの活躍などを見ていますと、話すタイミングや言葉の種類に大変気を使ってきれいにまとめられるように意識していると時々目にします。ここに続いて話さなければならないような内容が入り込んでしまえばむしろ邪魔になりそうです。プロ中のプロである芸人がもしそうした判断をしているのだとすれば、誰でも使えるTwitterやネットの諸々はもっと見識なく簡潔なものへとなっていくかもしれません。

 

f:id:waka-rukana:20200809002209j:plain

 

そしてそうなった時書いて伝わっていく内容は中身のあるものよりもないものになってくるのかもしれません。しかしそれは表面上価値のあるような姿をしているかもしれません。中身に価値があるのではなく、表現の方に価値があるのですね。これは前も書いたような広告による商品とイメージの関係に似ています。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/09/170029

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/10/10/170055

 

いわば商品とイメージの関係がPーIとあるとしたら、中身のあるものは商品の方であるPです。それを印象によって説明させるためにイメージIがあるとします。イメージは表現であり商品は中身ですから表面Iー中身Pという関係ですね。これが商品がだぶつくようになるのでイメージ上位になって上位:中身Pー下位:表面Iだったのが逆転して上位:表面Iー下位:中身Pとなったわけです。これが消費社会だとしましょう(とりあえず)。

 

それと同じようにネットでもTVでも伝えるべき内容が中身のあるものと簡潔に短く時間/文字数におさまる表現方法との関係にしてみましょう。すると本来重要なのは上位:中身ー下位:表現であるべきはずなのですが、それぞれの媒体においては制限がありますから上位:表現ー下位:中身という風に逆転されるのかも知れません。そして中身に値するものが表現の中に求められるとすると、それは言葉遣いや気の利いたような語彙選択によって担われてしまい、そうではない元々の中身はコミュニケーションの中に入らなくなってしまうのかもしれません。いわば言葉だけの関係になってしまうわけですね。

 

そしてこうした言葉の関係も意味するものと意味されるものとの関係の結びついたものでした。

 

https://www.waka-rukana.com/entry/2019/06/24/120052

 

こうした言葉のような関係を記号と読んだりもするのですが、物の実体とではなく記号と関係する(戯れる)のが近代の後の時代、ポストモダンだ、と言われたりもしました。

 

f:id:waka-rukana:20200807155058j:plain

 

そしてTV以上にネット、それもTwitterの登場によって言葉だけで戯れる世界が現実に目の前に現れました。そこには言葉という記号だけが存在して、その奥に存在するはずの中身や実体というものがはっきりと具体的には見えなくなってしまいました。もしくはネット上の言葉や記号、もしくは情報が多すぎて現実を覆い隠してしまったのかもしれません。そして言葉/記号によって戯れることにより中身/実体が忘却されてしまうことが、ほとんど空気を読むことと変わらなくなっているのかもしれません。

 

空気を読むことが元となる考えや合理的な判断により決定するのではなく、人と人との間で伝わってくるものをもとにして共感的に決定していくのだとすれば、ただ言葉や記号によって中身や実体の覆い隠されたかのような世界は親和性があるかもしれません。そして空気を読むことが日本的特徴と思われていたものが、もしかしたらネットの登場によって世界的な現象へと変わっていったのかもしれません。ポストモダンと言われた時期に、日本はむしろ近代以前の状態を残していてそれゆえにポストモダン的に見える、という指摘を柄谷行人たちが行っていました。近代はヨーロッパ的世界でしたが、ポストモダンは非ヨーロッパ的でもしかしたら日本と似た世界なのかもしれません。

 

共同体と想像的世界

もともと近代以前の世界は生まれた村から生涯出ることなく終えるような、共同体的世界でした。そのため村こそ世界であり、そこでの人間関係もすべて具体的だったと考えられます。つまりひとりひとりがすべて誰でどんな背景を持った人物であるのかが、お互いにわかっている人間関係です。そうした中では一々説明しなくてもお互いに了解を持つことが出来ます。

 

f:id:waka-rukana:20200807234624j:plain

 

一方そうした村=共同体において外の世界は未知のものでした。よく知らず伝えられる情報も少なく、時々訪れる行商人や村の外へ用事で出た人の持ち帰る話によって輪郭が結ばれていたそうです。そうした不確かな情報によって輪郭が結ばれていくのが共同体における外の世界の姿です。

 

そのためこうした外の姿は想像の世界です。それも人の持ち帰った、伝えられた話によって輪郭が結ばれる想像の世界です。そしてこうして伝えられる話、というもの自体が当時における重要なメディアだったわけです。ネットでもTVでも新聞でもうわさ話でも、それは情報が伝えられるという点では同じ働きを持ちメディアであることは変わらないようです。

 

近代以前はテクノロジーの発展が近代的な形ではありませんでした。そのためメディアによって作られる想像的世界は自分たちの生きる共同体の外の世界に限られていました。そのため共同体と想像の世界は内と外の対応関係にあり明確に分かれていたかもしれません。未開社会であればこうした外の想像的世界は神話の世界と重なっていた可能性もあります。自分たちの生きる具体的な世界と、想像力によって構成される世界とが相関関係を持ってそれぞれの人間の生き方を規律していたのかもしれません。

 

f:id:waka-rukana:20200807170622j:plain

 

それが近代に入りメディアが発展します。最初出版革命が起こりおびただしい印刷物が現れますが、近代的自我はこうした出版、それも小説をもとにして築かれたかと思います。そしてそうした近代的自我を基礎にして社会も構成されるように思想的にも制度的にも築かれたのかもしれません。

 

しかしテクノロジーはさらに発展します。当然メディアも発展します。ラジオが現れ、TVが登場し、ネットが行き渡りました。もし出版が近代的自我を生むほどの力があったとすれば、それらもまた新しい人間を生むと考えられます。そして近代的自我によって築かれた社会とは合わなくなる人間像が一般的になっているのかもしれません。

 

そして近代的自我が一人でじっと本を読むことと関わりがあり、近代以前の人間が共同体的=集団的に生きており、互いのことは一々説明する必要がないのだとすれば空気を読むことは近代以前の姿と似ているかもしれません。

 

その上で近代社会は人間の移動を圧倒的に広げ、背景の異なる者同士を具体的な関係で生きさせるようになりました。ここで他者やコミュニケーションの問題が切実なものとして現れてきたのだと考えられます。それだけでなくそれまでは外の世界としてだけ存在していた想像的世界が、むしろ具体的世界を呑み込んでしまいました。それはかつてのように共同体の外は想像の上でしか知られていなかったのに、今では必ず実体として存在していることを誰しもが否定できなくなってしまいました。そしてそうした具体的な範囲ではないけれども必ず存在している世界として、社会の情報が伝えられなければならなくなりました。マスコミュニケーションが不可欠な世の中になります。

 

f:id:waka-rukana:20200808010903j:plain

 

そしてそのマスコミュニケーションを担うマスメディアが、テクノロジーによってどんどん発展しました。その結果マスコミュニケーションによって形成される外の想像的世界は社会の姿となり、マスメディアによって輪郭が結ばれるようになります。その中で具体的に生活している人たちはかつてのように共同体みたいな自分たちを支える背景がなくなり、社会=想像的世界において自分がどこに位置するのかわからなくなりました。

 

その上でメディアの発展の結果短く簡潔に済まされるようになったマスメディアは、どうしたって具体的で中身のあるものになりっこないのかもしれません。表面的で表現形式の洗練されたものになり、記号的差異化こそがメディアに流れ込んで社会を形成してしまうのかもしれません。いわばテクノロジーの発展の結果、むしろ民俗的な世界のあり方に近づいてきたのが今日この頃なのかもしれませんね。

 

そしてその現れ方として空気を読むことと似た、表面だけが次々と超高速で変わっていくことなのかもしれませんね。

 

なんだか今回はあまり空気を読むことと関係なく、書く必要がなかったお話かもしれませんね。せっかくなので一週間空気を読むことについて書いてみようと思いましたので、蛇足となったかもしれませんがおゆるしください。

 

それにしても長かった…疲れた…

 

気になったら読んで欲しい本

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』 

丸山眞男が空気という考え方を出した本。今週ずっと載せていたので説明は割愛します。

島田紳助『自己プロデュース力』 

紳助がTVで30秒以上しゃべってたらどんな面白い話でもすべってるのと同じ、といっていたのはこの本に載っていたかな。もともとはDVDで出ていた紳助のNSCでの授業を活字になおしたものだそうです。紳助の考え方がシンプルに語られていてとても面白いです。

ヘーゲル『法の哲学』 

ヘーゲルの本。とりあえずどれだけ長いか、という例で出してみただけですので、どこかで見かけたら手に取ってどんなもんかと見てみてください。

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』 

ボードリヤール『象徴交換と死』 

実体が後退して表面的な記号ばかりが世界を覆いつくすようなことは、多分ボードリヤールが書いているかと思います。ただ私はよくわからん書き方してあっていまいち読んでもよくわかりませんでした。ですがこの分野の必読書といっていいので載せておきます。

柄谷行人『批評とポストモダン』 

柄谷行人がポストモダンを批判していたのはこの本かな。私はまだ読んでいないのではっきりとはわかりません。

浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』 

浅田彰がとんでもない世界的大物と行った対談集。テーマがポストモダンだったような気がします。随分昔に読んだので内容は覚えていません。たしかボードリヤールとの対談も入ってたかな。

カプフェレ『うわさ』 

うわさ、つまり人から伝えられるということ自体が最も古いメディアの形だ、ということを書いてある本、かと思います。私はまだ読んでいませんので、もしかしたら間違ってるかもしれません(そしたら申し訳ない)。

デュルケーム『宗教生活の原初形態』 

デュルケームが集合表象という考えを出した本なのですが、これはオーストラリアの未開社会を対象にして生み出されました。しかしどうもこうした集合表象は未開社会ではない、私たちの近代社会においても存在していて、メディアによって担われているような気がします。興味のある人は読んで色々と考えてみてくださいね。

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村