日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

新しい分野の新しい世代による自分の世界 ~先行世代がいないことによって主導権を握ることが可能で優越感に浸ることも出来るファン層と支持される表現者

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素人の時代の出演者と視聴者 〜新しい分野の新しい世代による自分たちの世界と、先行世代がいないことによって偉くなれる?

TVに一時期そこらのあんちゃんが出る素人の時代というのがあって、それが今ネットにおいて行われて新たな素人の時代が来たのかもしれないけど、でもやっぱり最後には玄人化してプロフェッショナルのひしめき合う世界になるのかもしれませんね、なんてお話を書いてみたのですが、これを出てる方ではなく見てる方に立ってどうして支持されるのか、ということをちょっと考えてみたいと思います。

 

前回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/03/06/200001

 

新しい世代とその住人

新しい世界が現れるということは、その世界にはまだ誰も場所を占めていない、ということでもあります。つまり未踏地なわけですね。すでに成立した世界には誰が偉くて地位が高いか、もうはっきりしているわけです。TVならたけしやさんまは偉いわけです。どうしたって動かせません。しかしネットではまだ誰が偉いのか不透明です。今偉くても、10年後20年後まで偉いかはわかりません。TVでもわからないでしょうが、順当にいけばロンブー淳千原ジュニアは君臨しているかもしれません。HIKAKINがそうなるかはわかりません。それは個人の問題であるよりも、ネットやYouTubeの状況が10年20年先も同じような形式を保っていられるかわからないからかもしれません。TVはメディアとしてここ数十年あまり形は変わってないかもしれませんが、ネットはまだそこまで固まってない気もします(YouTubeだってそんな昔からあったわけじゃないから、また新しいものが出てきてそっちに人が流れるかもしれない)。

 

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しかし、ともかくこうした新しい世界が現れると、そこへ行けばすでにある世界では望めないくらいに偉くなれる可能性はあります。本国イギリスでは小貴族だったものが、植民地のインドに行けば大公のような地位が望める、といったようなお話でしょうか。すでにある社会関係とは関係なく地位を築いていけるわけですね。

 

視聴者(ファン)としての新しい世界

けれどもこれはTVやネットの出演者だけではなく、視聴者側も同じことが言えるかと思います。

 

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たとえばすでにある世界のことは、上の世代にとって同時代を生きて熟知したものであることが多いはずです。たとえばたけしでもさんまでも、デビュー当時から知っている人と、今若い人が新しくファンになるのとでは相手のことを知っている蓄積が違うことになります。アニメでも『エヴァ』をリアルタイムでTV版を見ていた人と新劇場版を見ていた人では世代が違います。しかしTV版で育った人はTV版がスタンダードで、新劇場版で好きになった人はTV版を未知の古い作品と思うかもしれません。同じ作品やタレントでも世代間の齟齬が生まれることになります。

 

こうした時、どうしても古い世代の方が対象の蓄積といった点で有利です。ですから新しい世代が得意げになるには、上の世代が邪魔になります。しかしまったく新しい世界であれば、このような先行世代がありません。そのため新しい世代が第一世代となり、自分たちこそがオーソリティーとなることが出来ます。

 

ファン層の優越化

いわばファン層の優越化みたいなことが起こるわけですね。タレントや作家同士でも競争があるように、やっぱりファンや視聴者側でも競争があるのです。明治の初め文学は学士のやるもんじゃないと馬鹿にされました。しかし明治の作家たちによって本当に偉くなりました。しかし同時にはっきりとした権威性も持ち、学問・批評・思想を横断する一大分野になりました。次に映画が現れ当時の若者は熱心に見ました。映画の普及に熱心だった淀川長治たちの尽力もあって、映画は日本でも偉くなっていきました。錚々たる批評家もあらわれ、その蓄積もあり、また映画から社会を考え思想を生み出すことも当たり前になっていきました。そうした映画に影響され手塚治虫は漫画を描き、これまた一大分野へと育ちました。同じようにアニメも宮崎駿富野由悠季によって築かれ今日のようになっています。

 

それに伴って、読者や視聴者、ファンも新しい分野の中で形成されていきます。文学と映画と漫画とアニメ…すべてをフォローしている人はあまりいないと思います。またいてもそれぞれの専門家に敵わないとも思います。たとえば吉本隆明は漫画も批評しましたが、同じ批評家であれば後続世代で漫画に詳しかった呉智英の方が漫画批評は評価されています。しかし映画批評は蓮實重彦が大家です。蓮實重彦はフランス文学の専門家でもありましたから文芸批評でも偉いですが、アニメは光の描写の面で苦手らしい話をどこかで読んだ覚えがあります。ファン以上の批評家でも、やっぱり分化してるわけですね。そしてアニメに詳しくても映画について知りたければ蓮實重彦を読まなければいけないかもしれませんし、漫画について知りたければ呉智英を読まないといけないかもしれません。そしてそれぞれ他にもたくさんそうした書き手たちがいて、その中で偉かったりそうでもなかったりするわけです。

 

吉本隆明『全マンガ論』】 

 

呉智英『現代マンガの全体像』】 

 

淀川長治,山田宏一,蓮實重彦『映画千夜一夜』】 

(蓮實重彦たちの映画座談なのですが、これまた私は読んでません。しかし他の本で蓮實重彦淀川長治の対談を読んだことがあり、実にまぁ幅広く鋭く映画を見て指摘されていました。きっとこの本も読むと面白いんだろうなぁ。ちなみに蓮實重彦は映画と文学の批評家で専門家ですが、東大の先生で総長にもなりました。社会的威信としてこれ以上ないってくらいに偉いですね)

しかしこうしてその分野で偉くなるということは、他の分野とは異なることによって偉くなっているとも言えます。批評家はどの分野でもプロですから、偉くなるにはそれ相応の実力がありますが、作品やタレントについていくファンは、誰も先にいないことによって自分たちがその作品やタレントの1番のファンになれるわけですね。そして他の分野を気にすることなくその中で自由に振る舞えますし、また自分たちの分野自体を偉いもんだぞ、と世の中に主張したりすることもあるかもしれません。

 

分野の差と質 〜最初が一番いい?

これは文化が次々と現れているということなのですが、その質の差はわかりません。どの分野でも最初が一番偉いのかもしれず、夏目漱石谷崎潤一郎小津安二郎黒澤明手塚治虫宮崎駿富野由悠季、これらの人を凌駕する作家はもしかしたら分野が洗練されても現れてこないのかもしれませんが、だとしたら同じインパクトのある作家を求めて新しい分野へと向かうことは自然なことなのかもしれませんね(なんか書いててこっちの方が重要な気がしてきた)。

 

自分たちの世界としての新分野

ちょっと話を戻して、こうした大家や代表的作品については、それを取り囲む環境も蓄積があって中々新しく入っても自分たちの思うところを声高に主張できない環境にあるかもしれません。だとしたら、そうした古い世代のいない分野で、新しい、自分たちの世代だけがいる世界を形成することがもっとも自立した表現との関わりを持てるようになる、とも考えてみることも出来ます。そしてそれゆえに、新しい世代の分野とは対立するのかもしれません。それは自分たちの世界であり、現し身であると同時に、自分たちこそが最も偉くいてられる世界でもあるからです。それを簡単に譲り渡すわけにはいかないのです。ファンでありながら、意外と政治の世界に入りかけているのかもしれませんね(ついでに言うとナショナリズムもこうしたファン心理の国家版なのかもしれませんね。自分の国が偉いと自分も偉くなれる、ってことでしょうか)。

 

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つまり誰か自分たちよりも詳しい人がいれば偉そうに出来ない、ってことですね。って、なんとも乱暴な締めになってしまいました。

 

次回のお話

https://www.waka-rukana.com/entry/2020/03/13/200007

 

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お話その181(No.0181)