世界宗教の思想的大転換 〜身内からすべての人へ
身内を超えた、普遍性への思想
民族宗教がこのように自分たちのことを考える宗教だとすると、アリストテレスの政治哲学のように余所者の人間に対しては人間扱いしなくなる危険性があります。民族宗教とは自分たちの秩序や倫理を基礎付けるものではあっても、余所者に対しては自分たちと同じとは考えないのです。それを乗り越えて、すべての人間が含まれうる秩序や倫理を基礎付けるものとして世界宗教があるわけですね。
モーセとユダヤ人、イエスと全人類
ユダヤ教ではモーセがユダヤ人のために神と契約を結びました。それは最強の唯一神に他民族から守ってもらうためにした約束でした。これはもちろん、自分たちのためのものです。ですからユダヤ教は民族宗教です。
しかしイエスは違いました。イエスはユダヤ教の認める唯一の神である唯一神に、ユダヤ人だけでなくすべての人間を含んだ者たちとの間で契約を結びなおしました。それはひとつの民族ではなく、全人類です。そのため新しく契約した神との約束の中には除外される余所者は存在しないことになります。ここでユダヤ教は一新されキリスト教になりました。契約の対象が一民族であるユダヤ人から全人類へ変わったのです。そのためキリスト教では聖書を旧約と新約にわけます。旧約はモーセがユダヤ人のために神とした約束を記した本であり、新約はイエスが全人類のために神とした約束を記した本というわけですね。
身内だけでなく、すべての人を人間に
ここで重要なことは、人間を身内だけでなく、すべての人間を人間である、と含めたことです。これは当たり前に思われるかもしれませんが、まったくそんなことはなく世界史上決定的な思想的転換だったようです。アリストテレスですら余所者=蛮族は人間と動物の間程度にしか考えていません。そしてこれがどちらかというと普通のようです。人間は身内だけを人間と認め、自分たち以外のものは人間扱いしないのです。しかもこの人間扱いしない人間の範囲はかなり大きいと思われます。たとえば大塚英志は生類憐みの令は犬を大切にする法律ではなく、子捨てを取り締まる法律であったと紹介していたことがあります。法律で取り締まらないといけないくらい食い扶持の邪魔になった子供は捨てられて殺されていたそうです。人権概念などない時代であれば、自分の子供でも人間扱いしないのです。余談ですが柄谷行人はポストモダン(近代の次の時代)は江戸化すると述べていたことがありましたが、幼児の虐待死をこうもしょっちゅう報道で目にすると、子供に対する認識の水準でも江戸化を裏打ちしている、と思わないでもありません。
普遍宗教のキリスト教の根となるユダヤ教唯一神
ともかく、こうしてキリスト教は一民族=身内だけでなく全人類=普遍的な宗教として世界史に現れてきました。しかし、それが可能であったのはユダヤ教が唯一神を持っていたからです。ユダヤ教による唯一神という発明がなければこうしたことも不可能であったかもしれません。それは神が唯一絶対しか存在しないことにより、多数の民族による多数の神々もまた排されたからです。ユダヤ人が徹底して敗北者であったがために生み出した、余所者をすべて認めないような唯一神が、今度は余所者の入る余地のない普遍的な存在として生まれ変わったのです。歴史の皮肉というべきでしょうか。しかしキリスト教の神は間違いなくユダヤ教の神抜きにしては成立し得なかった、と言っては言い過ぎになるでしょうか。そして人間を人間として認める態度こそ、キリスト教以外でも生じた思想的転換で、柄谷行人のいう世界宗教なのだと思います。
気になったら読んで欲しい本
【橋爪大三郎,大澤真幸『ふしぎなキリスト教』】
今回書いたことも大体この本に載ってたんじゃないかな。前も載せましたが、面白いのでぜひ。同じ著者たちの他シリーズも面白いですよ。中国とか日本とか仏教とかあります。私読んでないものも多いですけど。
【大塚英志『〈伝統〉とは何か』『公民の民俗学』】
大塚英志が生類憐みの令が子捨て禁止の法律だ、と書いていたのはこの本だったかと思います。ただ本書で使用したデータが間違っていたとかで絶版にされたそうです。
【柄谷行人『探究2』】
で、また柄谷行人が世界宗教について書いてある本。同じものばかりですみませんね。私の持っている読書範囲の限界です。
前の日の内容
https://www.waka-rukana.com/entry/2019/08/27/193013
お話その85(No.0085)