日々是〆〆吟味

自分で考えていくための参考となるお話や本の紹介を目指しています。一番悩んだのは10歳過ぎだったので、可能な限りお子さんでもわかるように優しく書いていきたいですね。

影響すると共に自覚することへとつながる余所者=外部との接触 ~自らの文化の自覚と思想の鍛錬へのきっかけ

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余所者=外部と接触するということ 〜文化はこうして鍛えられる?

なんだか久しぶりだったためにあやふやな内容になってしまったような気もしますが、読み返してみると案外そのまま話を続けられそうな気もしましたので続けてみたいと思います(無理矢理)。

 

文明に覆われて逃げ場のないユーラシア大陸

ユーラシア大陸にしか歴史(世界史?)が存在しないように見えてしまいましたが、その理由を考えてみましょうね。ユーラシア大陸には既にいくつかの大きな文明圏が成立していて、かつそうした文明圏が広範囲で共有されていたとします。一方未開部族として残った人々は自分たちの領域でそうした文明から背を向けて去って行った者たちだ、と仮定してみましょう。するとユーラシア大陸では各文明圏が広がりすぎてそんな逃げ場のない人々の暮らす場だ、という風にも考えられます。未開部族は巨大な文明圏や世界宗教(キリスト教、イスラーム、仏教)の影響のない地域の人々であり、それゆえに逃げる場もあれば隠れる土地も残されていた、とも考えられるかもしれません。あまり広範囲な文化や文明圏があれば逃げた先でもまた同じものとぶち当たる可能性は高く、となると結局世代が変われば新しいものへと組み込まれていくかもしれませんからね。これがユーラシア的な状況だったのかもしれませんね。

 

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自分たちの思想と余所者の影響

そしてこうした逃げ場がないということは、常に対外的、対内的な権力関係に晒されていると捉えることも可能かもしれません。つまり、新しい文明を否定するには相手に呑み込まれないようにしなければなりませんし、そのためには自分たちはしっかりと結束していなければなりません。新しい文明を代表する者が、これいいよ、とやってくるのに対して、いや、我々はいらん、と言うためには、余所者との交渉と身内での擦り合わせが必要になってきます。これが各々政治的・思想的行為になってくるわけですね。

 

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しかもこの対外・対内的関係は国の代表としてやってくるわけでもありません。ペリーが黒船に乗ってきて開国を迫るのはわかりやすい交渉ですが、鹿を追いかけている中鍬を持ってきて、野菜を育てる方が楽チンだ、というのも同じように文明に影響を受けることになります。この場合利便性として迫ってくるので武力でもって迫るより否定するのが困難かと思います。

 

アメリカ思想としてのケンタッキー、マクドナルド

ちなみに加藤周一はケンタッキーは思想である、と述べたそうです。ケンタッキーはただの唐揚げ屋(になるのかな?)ではなく、簡単、便利、早い、安いといったアメリカの価値観を体現しているもので、それがフランチャイズの店舗として世界中を席捲しているということは、一つの店が流行っているのではなく世界中がアメリカの価値観を受け入れていることを指す、というわけです。だから同じようなマクドナルドがソ連に出来たことは大きな事件だったわけですね。

 

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こうした見えない権力関係や浸透は最早抵抗出来ません。ですからアメリカは映画産業が盛んなのだそうです。つまり映画を世界中にばら撒くことにより、アメリカ的価値観を与え続けるのです。これがたまたま当たったのが日本のアニメや漫画と言えるかもしれませんね。ですがこうした前提と自覚がなければ他の国に抜かれることはそんなに遅くないかもしれません。多分中国は自覚的で、だからこそ映画に力を入れているのだと思います。なんでも中国の大学の映画学部では『ラストエンペラー』のセットをハリウッドからそのまま買ってきて、学生に使わせて授業で映画を撮らせているのだそうです。規模が違いますね。

 

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自らの自覚と外部

ともかく、こうした自分たちと違う外部のものに対して拒絶していくことは中々難しいかと思います。また同時に自分たちと違うものを受け入れていくことも難しいのだと思います。そのためには自分たちの持っているものをしっかりと自覚する必要があると思うのですが、しかしそのためには自分たちの外部というものがあるから可能なのかもしれませんね。その点でもユーラシア大陸は逃げ場のない舞台であったとすれば、余所者=外部にすぐ当たるために自らを洗練させていくのにも役立ったのかもしれません。つまり外部と接触することによって独自の文化・文明圏を作り鍛え上げていく、ということになるのでしょうか。梅棹忠夫が第二地域と呼んだ大陸は、争い荒廃したかもしれませんが、それが同時に偉大なものを生んだのかもしれませんね。どっちがいいんでしょうね。

 

【梅棹忠夫『文明の生態史観』】 

 

 

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 お話その80(No.0080)