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まとめ49 自我の代わりとなる者 ~暗示するカリスマ、投影されるキャラクター
このまとめの要旨
自我っていうものが確立することが難しいのだとすれば、その代わりになってくれるものもそれなりにあるようで、現代人はそうしたものを使ってうまくやりすごしてるのかもしれないね、というようなお話のまとめ。
書いたものの一覧
人間の精神ってそもそも合理的ではないものによって突き動かされている側面があって、そうしたものからは逃れられないかもしれませんね、ーというようなお話。
群衆もまたそんな合理的ではないものによって動かされてしまう人間の行動システムとしてもあるのかもしれませんが、そんな人間の精神を制御していくための自我ってものが失われてしまう現象でもあるようです、ーというようなお話。
だけどそもそも人間にとって自我を確立するってことはかなり難しくて、思春期がその時期に当たるのだけど、その時期に自分のカリスマを作ったり求めたりしたりするってことは、それは自我の代わりのものとして自分の外に自我の代替者を求めてるってことでもあるのかもしれませんね、ーというようなお話。
それはいわば自分探しをしている人みたいなもんで、自分以外のところで自分の代わりになってくれる人を求めてるのかも、ーというようなお話。
それは自我を確立するってことが困難なもんだから、結局そんなめんどくさいことは放っておいて、自分以外の誰かによって自我の代わりをしてもらおうとしているのかも、ーというようなお話。
そしてその代替者になる人は、自我を求める人にとって自分の理想となるような人が求められているのかもしれませんね、ーというようなお話。
しかしそんな自我の代替者といってもフィクションの登場人物の場合もあり、それはまたちょっと違っていて、徹底的に読むことによって今度は新しいものを生み出す力ともなっていくかもしれませんね、ーというようなお話。
だけどフィクションの中の人物はからっぽなものとして存在していることも多く、そうしたからっぽゆえに投影する自我を裏切らないという側面もあるのでしょうね、ーというようなお話。
そんな自分を受け入れてくれる存在として『ドラえもん』があるんだけど、『ドラえもん』はちょっとちがっていて実は現実の虚しさを突きつけて教えてくれるようなものとしてあるのかもしれないよ、ーというようなお話。
自我の代替者としてからっぽのキャラクターがいるのかもしれないけど、それはどちらかといえば自我の代替者というより未成熟な自我の投影先であって、そのためにはぐちゃぐちゃした具体性であるよりもからっぽであるからこそ投影が可能なのだろう、ーというようなお話。
そんなからっぽの存在っていうのは、記号論でいうゼロ記号っていうものみたいなもんじゃないかな、ーというようなお話。
そしてからっぽな存在はやるせない現実をやり過ごしていくためのひとつの知恵や手段なのかもしれないね、ーというようなお話。