哲学書のおすすめ
より難しい、最も難しいだろうと思われる哲学書はについて並べたものも書いてみました。初心者向けではものたりなかったり、他の哲学書の古典を知りたい方はご覧になってみてください。
ちなみに科学の古典について書いたものもあります。よろしければご覧ください。
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はじめに 〜哲学書とはどういうものだろう〜
哲学書、といいますとなんだか難しくとっつきにくい印象を持たれるかと思います。事実非常に難解で読んでもわからないだけでなく、読み通すことすら生半ではない代物も数多くあります。そのためイメージ先行で哲学は難しいものだと思い、近くことすら嫌がってしまうかもしれません。
実際読んでみると確かに難しいですし、読んでもわかりません。そのためどうしても苦労した思い出がよみがえり、哲学書といえば難しいということを語りがちになってしまいます。
また専門家やそれに準ずる方の述べられる場合は、あまりに高度で、哲学なんて知らない見ず知らずの者がちょいと立ち寄るには敷居が高く感じてしまうこともあります。
かといっていきなり有名な哲学書を読んだとしても挫折するのがオチです。哲学書は普遍的な問題を扱っているので誰にでもわかりそうな問題のように思えますが、意外とその時々の課題や哲学者同士の関係で影響されていたりするので、そうした背景を知らないと何故そのような問題を扱っているのかわからなくなることもあります。
また普遍的な問題を扱っているからこそ、日常的な常識がひっくり返るような思考を重ねていくこともあります。こうした内容を読み進めるためには、読み手である私たちもある程度日常的常識を疑えるようになっていなければなりません。しかしそのためには世の中を当たり前とみなさない態度を自らのうちに形作っていなければならず、これは本を読んだり勉強したり経験を積んだりすることとはまた少し違うことです。いわば認識を変えなければならないので、自分自身を作り変えていかなければならないような困難を伴う可能性もあります。
そしてそうした自分自身を作り変えていき、認識を変えていくためにも哲学というものは非常に重要なのですが、しかしそれが読めるようになるためには自分自身をある程度変えていなければならない、という矛盾した要求をされてしまいます。
そのためどこかで哲学書を読み出す第一歩を踏み出さなければならない時がくるのですが、せめて挫折しないですむような哲学の古典への案内となれることが今回の記事の目標でもあります。
おすすめの方針 4つの基準
まずここでおすすめする哲学書の方針を述べておきたいと思います。
1.短い本であること。
哲学書はとにかく大部のものが多いです。おそらく哲学書の最高峰といえばカントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『精神現象学』が思い浮かべられるかと思いますが、それぞれ岩波文庫で3分冊、平凡社ライブラリーで2分冊です。有名な金子武蔵訳の『精神現象学』では1冊500ページを越えるもので上下巻となっており、有名だからと手を出して酷い目にあう可能性は高いかと思います(私は酷い目にあいました)。
こうした本はとてもではありませんが、哲学がどんなものか知らず哲学者の名前もわからず哲学書の題名も知らない、初めて読んでみようかな、と思っている人にはすすめられません。むしろ極力避けるべき本であり、後々読めるようになることを胸に抱いておくことが先へ進める早道であるかと思います。
ですが最初に読み始める時にはなにも知らないのは当たり前の話で、そのため間違って有名な本を手に取ってしまう可能性もあります。ですからここではなんとか読み通せそうな短い本を基準のひとつにしたいと思います。
2.拾い読み出来るもの。
哲学書は基本的に理論的な本です。認識論とか存在論とか、各々の分野に分けられるような内容を問題として扱って丸々1冊使って書いてあります。そうした本は長いものであれ、短いものであれ通読しなければなりません。最初の方だけ読んでも問題設定だけ書いてあり、解決は最後の方ということもあります。いえ、むしろひとつずつひとつずつ問題を解決していきながら前へ進んでいく、とでも言った方がいいでしょうか。残念ながらこうした本は読み通さなければ理解できないような本として書かれています(問題は読んだからといってわからないことですけども)。
一方、中には短い考察や箴言を並べてある本というものもあります。これは理論的な哲学書とは趣を変えるものですが、ちゃんと哲学書の古典と認められているものがたくさんあります。そうしたものは最初から最後まで読み通す必要はなく、所々気に入った部分を読むような読み方が出来ます。こうした本を読んで哲学というものに触れ、慣れていくこともいいかもしれません。もちろん最初から最後まで読み通してもかまいません。むしろひとつひとつ短いこうした本の方が通読しやすいかもしれませんね。
3.哲学史に残っている古典的書物であること。
哲学のすすめみたいな本はたくさんありますし、入門書も多いです。また直接哲学と関係ないものであっても哲学的な問題を扱っていることはあります。
そうした本はそれぞれ面白いですし益になること多大かもしれませんが、代わりに範囲がとどまることを知らずに広がってしまいます。たとえ殺人(つまり倫理の問題)を考えるのにドストエフスキーの『罪と罰』が最適だからといって文学まで含めては哲学書の範囲が倍以上に膨れ上がってきます。それにドストエフスキー読めること自体が簡単ではなく、文学自体のおすすめが必要かと思います。
また軽いエッセイ調のものから専門家による入門書、はたまた漫画や映画、ゲームまで含めた表現一般まで手を広げては際限がありません。それに古典と異なり毎年のように増えていきます。たとえ素晴らしい本があったとしても埋れてしまってなにがいいのかもわからなくなってしまいます。ですから除外したいと思います。
それにそうした本もいいのですが、やはり古典的な哲学書に触れることをここでは目的としたいので、直接読めるような哲学書を挙げることにします。
4.手軽に手に入るもの。
哲学書に限りませんが、専門的な本というのは高いものです。大体2000円〜5000円くらいが相場で、高いものになると1万円を越えます。
こうなってきますといくらよくても簡単におすすめすることも出来ません。ましてや初めて読もうと思うのに、5000円もかかるのではやめておこうと思うかもしれません。
もちろん図書館で借りて読むという方法もありますが、専門書というのはそうどこでも所蔵しておらず県内に1冊しか置いていないこともあります。そうした時には最寄りの図書館まで送ってもらわなければなりませんし、貸出期限というものもあります。結局時間がかかって読み終わらず返してしまい、また借り受けるまでの時間を考えてやめてしまうこともありえます。
その点手元にありますと時間を気にせず読めますし、何年も本棚の肥やしにしておきながら、急にふとしたことで読む機会があるかもしれません。それに買って読まずにあるということも意識の中にどこか残っていることもあり、積読の効果もあるかと思います。
また古典は難しいので、読むのに時間がかかります。また一読して終えるようなものでもありませんので手元に置いて気になった時にページをめくり返すことも大切なことだと思います。
もちろん値段の高い本は中々出来ませんが、哲学書は古くから翻訳もあり文庫化もされて比較的安くなっているものが多いです。また絶版になっていることも少なく手に入りやすい状態にあります。
そのため比較的手に入りやすく、値段の張らないものを選ぶようにしたいと思います(ただそれでも学術文庫は高めの値段をしています)。
初めて読むのにおすすめする短い哲学書3選
1.プラトン『ソクラテスの弁明』
哲学というものはソクラテスから始まる、と言われますが、その原点を知ることが出来るのがこの本になります。
ただソクラテスは本を書きませんでした。古代の賢人の特徴として、書かずに語る、という態度がありソクラテスもその1人です。ではソクラテスの語ったことはどうして伝わり哲学の祖となったかといえば、弟子であるプラトンが対話篇と呼ばれる形式で書物として書き残したからです。
対話篇とはある人とある人が話し合いながら哲学的な問題を考えていくようなものです。いわば映画やドラマの台本のような形で哲学の話をしているわけですね。物語と違いますから劇的な展開はありませんが、形は似ているのでとっつきやすいかもしれません。こうした形で立場の違う人物間を通して提出された問題を議論していく姿が描かれています。
これはそうした対話篇の中で、ソクラテスが当時の若者たちをたぶらかせて堕落させた、と非難されて死刑にされてしまう裁判の様子を描いたものです。
ソクラテスは街中で議論をして回る変わり者として有名でしたが、それは本当に賢いということはどういうことかと知りたくて、物知りの人たちに会いに行っては質問し中々納得せず相手が本当は本質的なことをなにも知らないということを明らかにしてしまう、そうしたことを続けていました。
そのため当時既に名を上げた名望家からすればうとましく、また自分たちの価値観に染まらない異端者として捉えられていたかもしれません。そうしたソクラテスに当時の者たちはどのように裁決したのか、それがこの本に書かれています。
ソクラテスは別に扇動者ではありませんでした。常に本当の賢さを求めた求道者としてあり、哲学(フィロソフィー)とは、知を愛する(知恵=ソフィア,愛する=フィレイン)、という言葉から来ているほどです。ですがそうした態度が反逆的に見え、自分たちの世界から世の中は追い出そうとしました。これを自分たちの生き方や世の中と比べて読んでみるのがいいかもしれませんね。
ただ注意しなければならないと思われるのは、扇動者でしかない者がソクラテスを気取り、時として本当にソクラテスのように周りが勘違いしてしまうこともあることです。なんでもヒトラーをキリストの再来と判断してしまった高名な神学者もいたそうです。本物と偽物を見抜くのはかなり難しくのかもしれません。
ちなみに岩波文庫は『ソクラテスの弁明』の続編でもある『クリトン』も一緒に入っています。
2.デカルト『方法序説』
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/07/16
- メディア: 文庫
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- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,野田又夫,水野和久,井上庄七,神野慧一郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2001/08/10
- メディア: 新書
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ソクラテスが哲学の始まりだとすればデカルトは近代哲学の始まりになります。
デカルトのこの本が比較的読みやすい理由は、哲学について書いてあるという本だけでなく、デカルト自身がなぜこのような考えを持たなければならなかったか、という個人的事情を含めて最初に説明しているからです。
哲学書というものは大抵このような事情を説明しません。というのもその時代その時代に問題とされていることに挑んだ結果として哲学書が生まれるからであり、なぜその問題を扱わなければならないかは同時代人の哲学者にとってはおそらく共有されているからです。そのためいちいち説明はされないのですが、そんな時代背景など知らない中いきなり読むと、なぜそのような問題が問題とされなければならないのか、その時点でつまづいてしまいます。
その点デカルトは近代哲学の最初の人であり、既に存在している神学=スコラ哲学と違うものとして自分の哲学を説明しなければなりませんでした。それは神学を含む当時のあらゆる学問を学んだにもかかわらず、間違いなく正しいための根拠が見当たらない、というデカルト自身の疑問から発しています。そのためデカルトは自らでその正しい根拠となるものを探っていくことに決めました。
そしてデカルトはひとつの方法を導き出し、これによって自分は考えられない問題はない、と断言するほどになりました。そうした考えるための方法を述べたものが『方法序説』ということになります。
なぜ序説なのかといえば、もともとはこの後こうした方法を使って考えた科学的な内容が3つあり、その序文のような形で自らの方法を述べたからです。しかしデカルトの方法はただデカルトだけの方法では終わらず、私たちの生きている近代社会そのものの基礎となる考え方になりました。それは世界を数学的に捉えたり分解して理解したりするものです。そしてあまりにこの方法の基礎づけが重要だったので、のちに科学分野で乗り越えられた他の著作よりも序文となる『方法序説』の方が哲学の古典として残ったのでした。
デカルトの示す方法は簡素なものです。しかしその簡素な方法によって、それまでの中世的な世界観が覆されてしまいました。世界史的なひとつの転換点となる本であると同時に、ごく普通に生きている私たちが物事を考えるための便利な方法でもあります。
『方法序説』を読むことによって読者である私たちは、デカルトが行ったやり方で同じように考えることが出来るはずです。これは本書を勧められるなによりの理由かと思います。
3.ナーガルージュナ『中論』
こちらは哲学ではなく仏教なのですが、その中に含まれている内容が私には近代哲学の最高峰であるカントの『純粋理性批判』と接するところがあるのではないか、と思っているので一冊として含めていました。
カントの本は非常に重要で、おそらくは最も読まなければならない哲学書かと思うのですが、何分冊にもなっている大著で到底読み通せるようなものではありません。もちろん中には読める人もいるのかもしれませんが、それを一般化するのは哲学や読書から人を遠ざけることにしかならないでしょう。
しかしナーガルージュナの『中論』は、内容として通底するところがあると思われるものの、その文量は非常に短いものです。思索の粋を極めたもので不要な記述を削ぎ落としたようなもので、読み通そうと思えばそれほど難しくなく読めるかと思います。少なくともカントと比べれば比較にならないほど読みやすいかと思います。
またここでは一応日本人を想定して書いているのですが、日本人の思想的背景には仏教があることは自明なことかと思います。ただその仏教が実際にどのようなものであるのかはあまり知られていないかもしれません。ですがここかしこに仏教的な見方は残されているかと思いますし、そのため西洋哲学であるカントなどより東洋思想である仏教によって説かれた哲理の方が私たちには理解しやすい側面もあるかもしれません。
一言でいえば〝空〟ということを説いているのだと思うのですが、私たちが当たり前に存在していると思っているもの、人間関係や自然運動、精神の動きなどもすべて空であり、空とは一種の認識上の錯覚でありながら必然である、ということ…のような気がしますが、全然自信ありません。もちろん私の説明は間違っている可能性は大ですので、直接読まれることを望みます。
そしてこの本はナーガルージュナの本というだけでなく、ナーガルージュナの短い著作をいくつか集めながら、日本の仏教学の泰斗であった中村元の解説が主体となったものです。そのため解説としても非常に立派なもので、一度に優れた仏教哲理と日本の代表的な学者の解説がよめる便利な本です。
ただ私は『中論』は別の本で読んだのでこの本自体は読んでいません。そのうち読みたいと思ったまま今日に至っています。
初めて読むのにおすすめする拾い読み出来る哲学書3選
1.マルクス・アウレーリウス『自省録』
ソクラテスやプラトンはギリシア時代の哲学者でしたが、マルクス・アウレーリウスはローマ時代の哲学者です。それだけでなくマルクス・アウレーリウスはローマ皇帝でもありました。
これはかなり哲学者としては変わった経歴です。ソクラテスの弟子だったプラトンは人々を治める王は賢い人でなければならない、と考え、一般にそうした賢者を哲学者として捉えて哲人王の理想を描いたといいます。しかし哲人王の理想は現実にはほとんど成されたことがありません。その唯一の例外として哲人王として数えられるのがマルクス・アウレーリウスです。
皇帝としていそがしい政務につきながら、ローマ全土で起こる戦争にも対処し、その最中に自らを自省し哲学をしたものがこの本になります。
そのため哲学者というと超然とした、ろくに現実世界と関わりを持たないようなイメージを持つ人にも勧めることが出来る哲学書であるかと思います。現代風に言うならば激務の役職につきながら自省し哲学するようなものかもしれません。そのように捉えて自分のいそがしさの中に哲学を持ち込むことの材料にも使えるかと思います。
しかし哲学者とは案外超然とした人ばかりでもありません。ソクラテスやデカルトは兵士として戦場にも出ていたようですし、マルクス・アウレーリウスと同じストア派に属するエピクテトスは奴隷出身でした。奴隷から皇帝まで同じように哲学をしていたということの多様性にも改めて振り返ると驚く気もしますが、それが特定の階層のように思われるようになっていったのはカントからであり、哲学者が大学教授と同じになってからという話も聞きました。そしてそれ以降の哲学書はより複雑で難しくなっているような気もします(別にそうじゃなくても難しいですけども)。
そしてこの本はそうした哲学の専門家という人物が書いたものでもない、政務に忙殺されていたローマ皇帝の手によるものなのでひとつひとつは短いものとして書かれています。ある意味では格言集のようにも見えないこともありませんが、その奥にはストア派の哲学の伝統に従っているそうです。
そのため一冊を丸々読んでしまう必要も必ずしもありません。専門的哲学者による大著はひとつの問題を追求するために膨大な本となっていますが、こちらは読者の琴線に触れる言葉を探しながら拾い読みしていくことも出来ます。それは古代とはいえ皇帝の思索でもあり、現代人の我々からしてもとても偉い人がどうやって働きながら考えているのかの見本にもなるかもしれません。
また大著に取り組むために人生を賭けたようなものでもないため、読みやすいですし本としても分厚くありません。そのため上記のような短い本としてもすすめられます。もしかしたら最初に手に取る哲学書としてもいいのかもしれません。
2.パスカル『パンセ』
パスカルはデカルトとほぼ同時代の人です。そのため考え方に似たところがあるとも言われます。たとえばこの本の中に幾何学の精神と繊細な精神というものを分けて説明している箇所があります。
これは現代的な見方をすれば理系的か文系的かということと似ているかもしれません。そのため現代の私たちにもそのような問題として読んでみることも可能かと思います。私たちは理系や文系という形で教養や知識を分けてしまい、時として分断されていることもあります。もしかしたらその方が当たり前かもしれません。しかし本来はそうしたものは同じ一つの人間の精神の現れ方の違いである、というようにも考えられるかもしれません。
実際パスカルはこの本においては哲学者ですが、数学者としても優れていたそうです。同じようにデカルトも哲学者ですが数学者として著名で、2人とも数学史の本を読むと載っていたりします。またデカルトは自然哲学の著作も多く、残念ながらニュートンやガリレオのような評価は受けませんでしたが様々な自然現象についての実験や分析も行っていました。この時代の哲学者は、現代で理解されるような哲学の専門家ではなく万学に通じており、哲学は学問そのものの意味を持っていました。
ただパスカルは早くに亡くなってしまいます。そのためこの本も遺稿集としての側面が強く、断片的なものが編集された形をとっています。
そのため逆に短い文章がいくつも集まっていることになり、少ない労力でちょっとずつ読んでいくことが出来るようにもなっています。ですから自分の気に入ったところを拾い読みしてみたり、ぺらぺらとめくって興味の湧きそうなところを探して読んでみたりするのに適しています。何分冊もある一貫された哲学書では拾い読みしても全体の中で迷子になってしまいますが、ひとつひとつは短いのでそのようなことはあまりないかと思います。
もちろん全部読み通してみてもいいのですが、本としてはかなり分厚いので、そのようなことはもうちょっと色々読んで慣れてきてからやってみればいいかと思います。いや、出来るぞ、という方は頑張ってください。もし読み切れたら他の哲学書もきっと読めるようになっているはずです。
翻訳には色々あるようですが、中公文庫のものは分冊になっておらず一冊にまとまっています。そのためぱらぱらとめくりながら断片的に読むのに適していると思います。代わりに分厚いですが、何冊にもわかれていて気になったところを探すその度ごとに各巻のページをめくり直すよりいいでしょうし、出先に持っていく時も便利です。やはり一冊にまとまっている方が全体を捉えやすく理解しやすい気もします。ただ電子書籍であればこうした問題は関係ないかもしれません。
3.ニーチェ『喜ばしき知恵』
ニーチェは今でも人気のある珍しい哲学者ですが、生きていた時代も他の哲学者から比べれば現代に近い時代になります。そのため現代で直接哲学的営みをされている偉い先生の中にもニーチェからそのまま影響を受けている人もいるので、あまり時代的な隔たりを感じにくく読めるかもしれません。
ニーチェが他の哲学者、特に近代以降の哲学者と異なっているところに哲学的なスタイルがあります。哲学書というとカントやヘーゲルが代表的ですが、とにかくひとつの問題について論理的に徹底して思索した分厚い本を思い浮かべるかと思います。適当にページをめくってみればほとんど改行もなく全ページびっしりと活字に埋められているようなものです。しかしニーチェはそのようなやり方で哲学を行いませんでした。
ではどのようにして哲学したのかというと、アフォリズム(箴言集)という形で哲学しました。アフォリズムというのは箴言、つまり格言のような形で短く鋭い言葉によって表現されたものです。それを本一冊分に当たるまで書きためて出版し、ニーチェはこうしたものを生涯に何冊も書きました。
そしてアフォリズムによる哲学は論理的ではないかもしれませんが、大著であるカントやヘーゲルに比べると圧倒的に読みやすいことは間違いありません。また一文一文が短いため、読むのが疲れたらやめたらいいし、気が向いたらまた続けて読みだすことも簡単です。内容を覚えていなくともその都度短い格言を読めばいいので読み慣れていない身からしても気分が楽になります。
またその内容も今風に言えば中二病みたいなところがあり、いえむしろニーチェの思想を水で薄めて大衆化したものがフィクションに描かれすぎて広まったのかもしれず、もしかしたらそうした感性の原点になるかもしれません。そうした観点から読んでみるのも案外とっかかりがよくていいかもしれませんね。
この本はそうしたニーチェの著作の中でキリスト教への批判を明確に打ち出してきたものだったかと思いますが、これが本当にキリスト教なのか、または近代的市民社会のことなのか私には少し疑問です。ニーチェはキリスト教を非難していますが、その批判の仕方はキリストの精神をまっとうしていないことを嘆く預言者のひとりのようにも見えますし、キリスト教を生み出していった中世の神学を批判しているわけでもない気がします。
そうではなく、ニーチェはキリスト教を弱者の復讐的道徳のように捉え、現世でうまく生きれなかった者が来世の天国を盾にとり、現実の生を抑圧している、というようなことを言っているのだと思います。これをルサンチマンというのですが、なんだか今日でも同じようなことが行われているような気がして、案外ニーチェの批判したものは私たちの周りにも当たり前にあるのかもしれません。
ニーチェは文庫版の全集もあるのですが、単独でアフォリズムのものが文庫で出ているのはこれだけかもしれません。もしかしたらこれから先他にも出てくるかもしれませんが、一応これを載せておくことにしました(講談社学術文庫からも出たみたいなので載せておきました)。
関係しそうな+α
プラトンの対話篇
岩波文庫
光文社古典新訳文庫
角川文庫
中公クラシックス
『ソクラテスな弁明』はソクラテスが裁判にかけられて毒杯をあおぐまでのお話ともなっていますが、これはその裁判を目の当たりにした弟子のプラトンが書き残したものでもありました。プラトンはこうした師ソクラテスの言行を他にもたくさん記録しました。それを同じ対話篇という形で残して今日まで伝わっています。
そのためもし『ソクラテスの弁明』を読んで興味を持たれましたら、プラトンの他の対話篇を読まれることが一番の読者案内となるでしょう。幸いプラトンは文庫でもたくさん出ていますし、昔から出ているので古本屋でも安く簡単に手に入ります。また岩波文庫だけでなく他の様々な文庫にも主だったものが入っていて色々選んでみることも可能です。ここではとりあえずAmazonで検索して出てきたものを並べてみました。
ただちょっと注意が必要なのは、プラトンの対話篇は『ソクラテスの弁明』も含めてソクラテスが主人公となって相手と対話しながら哲学的議論を深めていくものなのですが、初期のものはソクラテスそのものを記録したものと考えられているのに対し、後期のものになればなるそどプラトンの考えが入ってきていると言われています。この辺りの問題は複雑そうなので私に十分な説明は出来ませんが、それぞれについている解説を読みながら判断されていくといいかと思います。
デカルト『省察』『精神指導の規則』
デカルトは『方法序説』でデカルト流の考え方の基礎を打ち出しましたが、それに続いて発展させて書いたものが『省察』になります。
『方法序説』が序文であると同時に自伝でもあり方法論の本でもあるのに対し、『省察』は方法論を踏まえた上での形而上学の本であるといえるでしょうか。そのためちょっと内容が難しかなっている気がするのですが、デカルトの次に読む本としてはこれがいいのだと思います。
また『精神指導の規則』は方法論の部分をより詳細に行ったものなのですが、残念ながら未完に終わっています。しかしより詳しく考えるための方法について考えるならこちらがきっと役に立つのではないかと思います。
白水社からは『方法序説』と『省察』が両方収録されているものが出ています。『方法序説』はですます調で私には読みやすく感じました。しかし『省察』の方はデカルトの原文と日本語の訳語を厳密に適応させた学問的な名訳らしいのですが(Amazonレビューにそんなこと書いてあった)、代わりに私のような素人が読むにはとても困難なものになっているようにも感じました。しかし両方一冊に入っているのはとてもいいので、載せておくことにしました。ただ私は白水社のものはデカルト著作集で読み、こちらの版とは異なっています。著作集の解説によれば上のイデー選書の『省察』はさらに訳文に手を入れたそうです。『方法序説』の方はどれくらい違うのかはわかりません。
ヤング『アイデアのつくり方』パレート『一般社会学提要』ウォーラス『思考の技法』
こちらは哲学と関係ないのですが、デカルトの考え方と重なるものがあるので載せておくことにします。
ヤングの『アイデアのつくり方』という本は、読んで字の如くの本です。デカルトの考え方と通ずるところがあるのですが、短いところも似ています。なんと100ページくらいしかありません。そしてべたべたな題名と裏腹に本当に役に立つアイデアのつくり方の技術が書いてあります。
簡単に言えば色々なところから材料を集め、それを組み合わせてアイデアを作っていく、ということです。単純なことですが、単純でありながら確かに役立てられることもデカルトと似ているかもしれません。
そのヤングが自分の『アイデアのつくり方』の冒頭でパレートの本について述べておりますので一緒に載せておきます。
パレートは社会学者で、多分かなり変わった社会学者です。もとは経済学者でワルラスというとても偉い人の考えを発展させたのですが、その後社会学に向かい、経済とは異なる数理解しにくい社会というものを分析しようとしました。そしてこの本の中で残基という概念で、社会を動かしている無意識のようなものを捉えようとしたのだと思います(見当違いな説明なら申し訳ない)。
そしてその残基のひとつとして結合を考え、それが多分ヤングのアイデアとなったのかもしれません(違うかな)。ヤングの本を読む人は多いでしょうが、パレートの本を読む人は少ないと思います。なにせ分厚いし難しいからですが、この本も原著の要約版の訳で、完訳はありません。部分訳や抄訳は他にもあるのですが、なんでも本文は繰り返しが多く冗長で読み通すのに困難を覚えるほど、なんて解説に書いてあるくらいです。でももしかしたらヤングを読んだらヤングが勧めたパレートも読んでみたいと思う人もいるかもしれません。
ちなみにヤングが勧めた本は『心理と社会』ですが、たしかこれはパレートの『一般社会学』の英訳で、定本となっているとどこかで読んだ覚えがあります。うろ覚えで申し訳ありませんが、一応書いておくことにしました。
ウォーラスの本は私はまだ読んでいないのでこれといって書くことがないのですが、ヤングが参考文献にあげていたかと思うので載せておきました。
般若心経
般若心経は日本でもよく知られたお経かと思います。よく写経したりする方もいらっしゃいますよね。その時使われるのが般若心経です。
写経に使われるということは、書き写して書ききれるくらいに短いということでもあります。お経は時代によって長かったり短かったりするらしいのですが、般若心経は短い時代のものなのだそうです。
しかし短いからといってその内容が薄くなっていたり内容空疎に落ちていたりするということはありません。むしろ短い分凝縮されているような気もします。
ナーガルージュナの『中論』は空の思想とでも言えるかもしれませんが、般若心経もまた同じ内容を伝えようとしていると思います。有名な色即是空、空即是色という一説は空とは何かということを説明している箇所になるでしょう。その細かい内容は私には説明しかねますが、一読されれば解説等を含めて理解できるように書いてあるかと思います。
龍樹論集
こちらは私は読んでいないので説明できませんが、ナーガルージュナ=龍樹のいわばアンソロジーなので載せておきました。ナーガルージュナを漢字の名前にすると龍樹になります。恐らく上の中村元『龍樹』の他にまとまって読めるものではないかと思います。
エピクテトス『人生談義』
エピクテトスはマルクス・アウレーリウスと同じストア派の哲学者なのですが、マルクス・アウレーリウスが皇帝であったのに対しエピクテトスは奴隷でした。いわば社会階級の真逆な立場の者が同じ哲学のうえに物事を考えたということです。哲学がなにか特権階級のものでしかないという観点を覆すのにいい例かもしれません。マルクス・アウレーリウスと重ねて読むことによって、ひとつの哲学のもと社会の厚みを感じ取ったりすることも出来るかもしれません。
内容はかなり宗教的な印象があり、人生の苦悩からいかに逃れるかということが主眼に置かれていたかと思います。私の印象ではやはり奴隷であったエピクテトスの方がその苦悩に接する態度が深い気がしますが、同じ問題を最高位である皇帝も持つことに人間の難しさがあるのかもしれません。
モンテーニュ『エセー』
パスカルはモンテーニュを模範として『パンセ』を書いたと言いますから、次に読むとしたらやはりモンテーニュの『エセー』を読むのがいいのではないかと思います。ただ『エセー』は大変長いので、いきなり読むのは大変かもしれません。もしパスカルを読んで面白かったり興味を持ったりしたらモンテーニュも同じように面白く感じるかと思うので、その場合はぜひ手に取ってみてください。
翻訳はたくさんあるのですが、とりあえず手に取りやすい文庫形態のものと、一巻にまとめられているものを載せておきました。これで大体どれくらい文量があるのかなんとなく見当がつくかもしれません。
ちなみに今の私たちが日常的に使っているエッセイというものはモンテーニュのこの本から始まることになります。その意味でもはっきりした古典ですし、最初のエッセイを読んでみるのも一興かもしれませんね。
ニーチェの諸作品
ニーチェの哲学はアフォリズムによって書かれているものが多いので、『悦ばしき知恵』が面白かったり興味を持ったりしたらそのまま他のニーチェの本を読むのがいいかと思います。
もちろんアフォリズム以外の書き方によって書かれたものもあるのですが、そうしたものもふくめて幸いニーチェは文庫版で全集が出ています。そのため全集のなかのどれをどう読むか、手にとったりネット情報を見たりして自分なりに選んでみると楽しいかと思います。
こうして少しずつでもひとりの哲学者のことを知っていくと、また敷居が下がってくるかもしれません。また自分には興味がなさそうだと思えば別の人と出会うことを期待してニーチェから離れればいいとも思います。もしニーチェにハマれば無理して全集を読み通す真似をするかもしれませんし、そのようなことが出来ればもう初心者ではないでしょう。ニーチェ全部読んでるなんて言われたら、私なら驚いてしまいます。
終わりに
以上で今回の本の紹介を終えることにします。哲学書は難しい、そもそもなんだかわからん、といった思いは当然のことと思います。しかし案外人は哲学を必要としていたり、また無関係と思いながら知ってみると関係していたりすることもあるかもしれません。そうした時になにかの事故のようにどこかで接してしまう機会のひとつにでもなれれば幸いです。
もし手にとって少し読んでみて、こりゃあかん、と思えば読むのをやめればいいですし、またふと気になってみれば本棚からひっぱり出してみてページをめくってみることもいいかもしれません。とにかく直接触れてみるという体験は、舞台や観光地だけでなく本、哲学書でも同じことが言えるかと思いますので、どこかで心の隅にでも引っかかってくだされば幸いです。