前回のお話
ニーチェとアフォリズム
実存主義という名はむしろサルトルに結びつけられる気もしますが、その原点はハイデガーにあるかと思います。ですがさらにその原点の原点ともなると、ニーチェに遡れるのではないか、ということも言われたりもします。
ニーチェの著作
ニーチェという人は有名なのですが、読むと今イチよくわからない人です。というのもハイデガーとかサルトルとか、こういう人たちは主著となる大きな一冊の本があります。その中で自分の考えを体系的に仕上げて人々の前に出してくるのですが、ニーチェはそうではありませんでした(いえ、正確にはそういう本もあるのですが、多くはそうではなかったというわけです)。
【ハイデガー『存在と時間』,サルトル『存在と無』】
(ハイデガーとサルトルの哲学的主著。ちょうど文庫でまとまったものが出てきたので載せてみました。両方とも巻数があって大変ですね。でも変わりにこの中にハイデガーなりサルトルなりの哲学があることには違いありません)
ではニーチェはどのようにして哲学したのでしょうか。それはアフォリズムによってなのです。
アフォリズムって?
アフォリズムってなんでしょうか。なんかよくわからん言葉です。アフォリズムだから阿呆主義とかそんな感じでしょうか。そういえばエラスムスという人は痴愚神礼讃なんて本も書きました。それを主義にしたものかな、なんて思ってもみたりします。
【エラスムス『痴愚神礼讃』】
(ちなみにこの本はアフォリズムではありません)
しかしもちろんそんなものではありません。そうではなくアフォリズムは箴言集とか訳されたりもするもので、もっと俗っぽく言えば格言集みたいなものだと思えばいいかもしれません。
【ラ・ロシュフコー箴言集】
(たとえば箴言集=アフォリズムってこんなの。ニーチェも参考にして書いたとか解説に書いてあったような覚えが)
じゃあ格言集らしいアフォリズムっていうのはどんな哲学なのか、といえば、寸鉄釘を刺すような短い言葉を大量に記すことによって、その全体からひとつの認識を与えようとするものだ、と捉えればいいのかもしれません。
箴言集としての哲学の難しさ
これは理解するという点でとても厄介です。というのも、ニーチェの本をそのまま読んでもニーチェがなにを考えていたのかはっきりしないからです。
たとえばカントとかヘーゲルといった人は、死ぬほど難しいんですけど書いてあるものの中にすべてがあります。カントにしろヘーゲルにしろ、間違いがあるとしたら書いてあるものの中にあるか、それをちゃんと読めてないかが原因とすることが出来ます。
しかしニーチェのようにアフォリズムですと、同じニーチェの書いたものの中に相反することが結構頻繁に出てきたりもします。しかもそれは体系的著作であれば論理的にたどっていくことが可能なのに対し、アフォリズムでは断片的に書物の中に散りばめられているため論理的に対処できないのです。
わかりにくく誤解されやすいニーチェ思想
そのためニーチェは非常にわかりにくく、かつ誤解することが他の哲学者とは比べものにならないほど簡単に起きます。それはかなり危険なものがあり、ニーチェの中にはナチスが利用したような危険な側面がたくさんあります。そしてそうした危険なものほど魅力的で、人を惹きつけるためますます危なかったりします。
【ニーチェ『権力への意志』】
(たとえばこれはニーチェ晩年の遺稿となったアフォリズム集ですが、危ないこと間違いありません)
そんなわけでニーチェは危険な思想家の代表的な人物だったりするのでした。
次回のお話
お話その292(No.0292)