前回のお話
自分と同じ人間である理由から逸脱した者への偏見と差別される社会階層を超える普遍的な人間観の意味 ~精神を形成する同一性と同一性の中でおさめてしまう人間観の危険性
話が脱線してしまいましたが、ちょっと戻ってもう一度考えていこうかと思います。
えーと、なんでしたっけ。そうそう、グラスとそそがれたコーラを比喩として人間の精神なんかについて話してたんでしたっけ。
別個の精神と同じ精神 〜異なるグラスとそそがれる同じコーラ
ひとつのグラスの中にコーラがそそがれるようにして人間の精神には外から与えられて作られていく側面があるとしてみました。そして人間の精神はそれぞれのグラスのようにわかれています。そのため私とあなたは決してその中身である精神(そそがれているコーラ)が直接伝えられることはなく、じかに接触される機会を持つことが出来ません。そのため私とあなたは原理的に全く別個の存在となります。
しかしコーラは同じペットボトルからそそがれているから同じものを糧にして私とあなたが形成されているかのようにも思えてきます。そのため共通する要素を焦点とすることによって私とあなたは同じ存在のようにも受け取られるかに見えてきます。そしてこの同じものを神とかイデアとか、とってもこの私たちから遠いものを想定することによって、私たち人間はまた共通の存在であるかのようにも思えてくるのでした。
個人を超えた共通のもの
今では神さまみたいなキリスト教=宗教や古代哲学でもあるイデアなんてもので私たちの存在を一律に定めるような考え方はやりにくいでしょうが、代わりに日本人であるとか学閥とかそういうもので定めようとする側面はあるかと思います。ひとつはそうした方が個々の人に利益があるからだと思うのですが(説明は面倒なのでまたいつか)、むしろ大昔からやっていることは形を変えて現在でも行われている、放っておいたらやってしまう人間の普遍的な在り方なのかもしれません。
同じでない人間はろくでなし
そしてこれは逆になれば反転して同じペットボトルではない者に対しては排除してしまってもかまわないような態度をとってしまう可能性もあります。アリストテレスがギリシア人以外である野蛮人を人間と獣との間と捉えたように、自分たちと違うものはろくでもないものにみなすわけです。
【山川偉也『哲学者ディオゲネス』】
(何回も載せてるけど、アリストテレスが野蛮人をどう捉えたかわかりやすく説明せれています)
人間を超えているが故に、社会階層を超えた普遍的人間観
しかしそれをさらに逆転したところに普遍的な人間観というものがあって、キリスト教というものはそうしたものとして古代世界に現れました。差別されていた階層の人たちは人間扱いされていなかったのですが(多分。少なくとも蔑まされていた、とどこかの解説で読んだ覚えが)、キリスト教はそんなの関係なくみんな人間、と断言したわけですね。しかし今でもそうですが、大体いい地位にいる人は自分たちだけが偉くて下の人間はろくなもんだと思っていません。ですから放っておくとみんな人間という考え方は簡単に抑圧されかねない可能性もあります。
【橋爪大三郎,大澤真幸『ふしぎなキリスト教』】
(こちらも同じく何度も載せてしまいます。同じものばかりだと芸がないなぁ…)
あれ〜、また脱線みたいになってしまった。
次回のお話
お話その231(No.0231)