前回のお話
物事の捉え方を変えることが難しいように自分の見方に縛られる ~自分の観点の固定化と、状態や関係性と共に変化する見方、ひとつの対象に対する複数の見方 - 日々是〆〆吟味
みんな同じ人間精神のメカニズムと具体的な個別性 ~同じ精神の形成過程をへるならば個人としてのオリジナリティは何かという問題
人間の精神をグラスとそそがれるコーラなんて比喩でお話してみましたが、書いてても自分でわけわからなくなってきます。なんというか、自分自身も含まれる人間なんてものを考えようとするととてもややこしい、ということなのでしょうね。
人間としての精神にそそがれるもの
さて、それはともかくグラスとコーラの比喩で考えてきた人間精神ですが、これは個別の個人というものを想定したものではありません。そうではなく私もあなたもみなさんもみんな当てはまる人間精神のメカニズムとしてあるわけですね(説明が十分かは別の問題として)。
【カント『純粋理性批判』】
(デカルトから始まる近代的な人間のメカニズムの集大成はこちらになるのでしょうか。すごいことは私にもよくわかるけど、何が書いてあるのかは十分どころか一分もわからん、といったすごい哲学書。おそらく人類がいる限り輝くだろう、と勝手に想像してしまいます。この後ヘーゲルが出てきますが、ヘーゲルはそんな人間のメカニズムを定めるんじゃなくて発展させようとした哲学になるのかな。こっちはさらに輪をかけて難しくちんぷんかんぷん)
つまり人間の精神はそれぞれのグラスのようにわかれていて、コーラをそそがれるように外から精神の中身を与えられるけど、それは一個からじゃないし、混ざったグラスの中身は他のグラスの中身とは決して一致しない、というわけです。
人間みな同じの精神メカニズム?
しかしこう考えてみますと、なんだ、人間なんてみんな同じようなもんじゃないか、というような考え方も出来てきます。たしかに人間精神のメカニズムとしてほとんど同じような作用をして成り立っているのだとすれば、人間はみんな同じようなものになってきます。そしてそれは個人主義や集団主義とは異なる水準でその通りです。私たちは犬や猫とは違いますし、豚や牛とも違います。またチンパンジーやゴリラともやっぱり違いますが、私たち個人の違いはこれら動物との違いから見ればほとんど変わらない程度にしか違わないかもしれません。
この場合生物学的に見て人間は同じ種である、という意味において同じなのですが、ならその観点に立って人間の個体差を無視して平気なのかといえばそうはいきません。キリスト教の古典の中に『ヨブ記』というものがありますが、敬虔なヨブは信仰心を試されて家族まで失いますが最後に代わりの家族を与えられます。しかし私たちの家族は具体的な誰かであって、代わりになるものではありません。太郎くんが息子だったとすれば、別人の次郎くんを息子にしたからチャラになるというわけでもないわけです。
【ヨブ記】
同じ人間の中の具体的な個別性
となると人間も個別的な具体性というものが大切になってきますが、この場合は関係性を持つ他者においていえることですね。しかしこの私においても同じように具体的な存在としての優位性、もしくは唯一性というものはどこに現れてくるのでしょうか。だって外からそそがれたコーラの混ざり合わさったもの、その総量みたいなものがこの私であるとしたら、その起源はすべて自分の外に求められてしまうかもしれません。そうすると個人やこの私やアイデンティティとかオリジナリティとかどこにあるのかわからなくなってきます。
こうしたややこしい問題もまたあるような気がしてくるのでした。
次回のお話
オリジナリティの意味する偶然的結果としての〝この私〟と必然的人生としての宿命 ~決して一致しない個々の人間精神を越える唯一の存在として認識してみなされる〝この私〟 - 日々是〆〆吟味
お話その234(No.0234)