前回のお話
https://www.waka-rukana.com/entry/230/2020.09.01
人間の精神が形成される根本的な考え方となるイデアや神と経験論 ~目の前のものを超えて与えらるものと目の前のものから与えられるもの
外から与えられる人間の精神
人間の精神が外から色々なものが与えられて形作られているものだとしますと、たしかに人間はその外のものによって生み出されたかのようにも思えてきます。そしてそれが大多数の人に当てはまるものだとすれば、その外のものを指して人間=私たちの元(?)みたいなものだ、というように考えることが出来るかもしれません。
神やイデア
これを根源的に考えていきますとキリスト教のようは神の存在や、プラトンのイデアみたいな考え方になるのかもしれませんが、ちょっとこんな話をするにはもっともっと以上に本腰を入れないとお話も出来ませんね。
全知全能の創造主としての神 〜人々の断絶も神はすべて知ることができる
とりあえず今簡単に言えるならば、キリスト教の神は世界の創造主ですから我々人間もまた神に造られた被造物なのであって、あなたも私も関係なく神の僕になってしまうわけです。しかも神は全知全能ですから私たちがたとえ個人の間で断絶されていて直接心の中を知り合うことが出来なかったとしても、神は全知ですから私たちの心の中も共に知っていて当たり前になります。そのため神を前にしては私とあなたの断絶は簡単に乗り越えられます。なぜなら私たちの代わりに神さまがお互いのことを知り合ってくれているからですね。なんかこう書くとキリスト教の神さまもコミュニケーションにおいて便利な存在な気がして来ますね。
【トマス・アクィナス『神学大全』】
(キリスト教神学の巨大な体系はこの本なんでしょうけど、当然私は読んでいません。トマス・アクィナスはアリストテレスを使って神学した人で、神学のアリストテレス化を成し遂げた人と言われます。その影響力が絶大でその後固定化されていったために、打破しようと新しい哲学である近世哲学が生まれてきたそうです。でもその源となるこの本はとてもすごいそうです。たしかにすごそうだ)
目の前にある物を超えたところにあるイデア 〜目の前の花はそれ自体が美しいのではなく美しさのイデアを分け持っている
またイデアはもっと変な考え方で、私たちが知る諸々のことは実はそれ自体としてあるのではなく、その奥にその根源となるものがあってそれがちょびっと目の前にある物に分けられてあるから私たちはそのように知ることが出来るんだ、というものです。私の説明にも問題があるかもしれませんが、よくわからない考えでしょ?
たとえば綺麗なお花が一輪あったとしたら、その花が美しいわけではないわけです。そうではなくこの世界のどこか、いえ、この世界を超えたどこかに美しいというものそのものがあって、目の前の花にはその美しさが結びついていたり分けられていたりするから、私たちはその花を見て美しいと思うのだ、という考え方です。なんといいますか、私たちの日常的な感性や感覚からはかけ離れた考え方で、簡単に理解できないような気もしてきますね。
【プラトン『テアイテトス』】
(プラトンはどこでそう言ってたのかなぁ。プラトンは対話編という形で哲学されましたので、同じようなテーマでもそれぞれの対話編の中で登場人物たちに話しかけたり問いただしたりすることによって深めていきました。そのため私のような半端な読者にはどこになにが書かれていたのかひっちゃかめっちゃかなのでした。そんなわけで多分これだったと思うものを載せておきます。プラトンは対話編という形のため、他の哲学者より読みやすいと思います。気になったら書店でめくってみたりしてね)
目の前にある物自体から人の精神は形作られる 〜イギリス経験論
ちょっと脱線が長くなりましたが、こうした外のものに人間の認識の根源を求めるような考え方がそもそも大昔からありまして、それに対抗するような形でロック大先生のようなイギリス経験論というものが現れてきたようです。つまりそんな超越的なものから知るんじゃなくて、目の前にある世界そのものから知るんだよ、という考え方への転換ですね。
【ロック『人間知性論』】
(ロックになると完全に難しいイメージの哲学書そのものになるかと思います。しかしその中でもロックは比較的読みやすいような気がします。多分専門家に書くことが目的ではなく、多くの読者を想定して書かれているからかもしれません。たしかそんなことを序文に書いていたような気がします。当時はまだスコラ哲学が残っているはずですから、在野の哲学者なんてチンピラみたいな扱いだったのかもしれません。ロック先生はお医者さんで政治家でしたしね)
人を超えた全体的なものから個人への目線への変化
そして人間の精神をそれぞれ分かれているグラスとそそがれるコーラとの比喩で捉えてみるならば、神やイデアによって人間を基礎づけるのはコーラを重視するような見方ですね。それに対してイギリス経験論はグラスになるのでしょうか。むしろ、そそがれる、ということ自体に注目したのかもしれませんね。まぁ私には難しすぎるお話ですけども…
むしろグラスに中心的な視線を向けたのはデカルトの自我の観点かもしれません。しかしデカルトは人々がコミュニケーション可能なのは神の介添えがあってのことだ、とも考えたそうです(うろ覚え。どこかでそう読んだような気が…)。そう考えてみますと、そもそも人間を全体とか集団で考えるところから個人で考えるところへと移ろうとしたその最初の哲学の時点で、個人と個人のコミュニケーションは困難なものとして捉えられていた面もあるのかもしれません。私たちはその方向性を伸ばした先の世界に住んでいるわけですから、どうしても個人と個人の間にある差や断絶というものを意識して生きてしまうのかもしれませんね。
…あれー、なんか脱線のまんま話が終わってしまったような気がする。
次回のお話
自分と同じ人間である理由から逸脱した者への偏見と差別される社会階層を超える普遍的な人間観の意味 ~精神を形成する同一性と同一性の中でおさめてしまう人間観の危険性 - 日々是〆〆吟味
お話その230(No.0230)