前回のお話
自分と同じ人間である理由から逸脱した者への偏見と差別される社会階層を超える普遍的な人間観の意味 ~精神を形成する同一性と同一性の中でおさめてしまう人間観の危険性 - 日々是〆〆吟味
みんな一緒の人間観として外部より与えられる経験により形成される精神の複合性 ~精神は外から情報を得るがたとえ同じものから得ても一つだけでなく、また得たものは混ざり合って他と一致しない
また脱線じみてしまいましたが、今回こそ少しは元の話に戻したいと思います。
グラスにそそがれたコーラを人間の比喩として捉え、グラスは別々で中身が直接触れ合わないから断絶している、しかしそそがれるコーラは同じペットボトルからそそがれているかもしれないから、その点においてはみな同じ存在であるように捉えられるかもしれない。こんな感じでした。
みんな共通という普遍性
さて、そそがれるコーラはたしかに同じペットボトルのものかもしれません。しかし当たり前ですが人間の精神はひとつだけのペットボトルからそそがれるようにして作られるわけではありません。神やイデアなら経験的な領域を超越したところにある根源的なものですから、そこから共通して与えられるというのは、まぁみんな共通することといってもおかしくありません。人間っていうのは目が二個あるとか日本足で歩くとか言葉を話すとかいうものを純化したものの果てにあるような考え方ですね。そのためどんな人にでも当てはまるようなものとして神やイデアが想定されていくわけです。
得られるものは経験から
しかし人間の精神は直接的には経験から色々なものを与えられる、というのがイギリス経験論の祖であるロック先生の考え方でした。それはリンゴっていうものがあるとして、それをどうして私たちがリンゴであると知るのかといえば、目の前にリンゴがあって見たり食べたりすることによって色や形や味を知って目の前の物がリンゴであることを知るわけです。リンゴっていう知識が最初から人間の中に眠っているわけではない、ということですね。
【ロック『人間知性論』】
(長々と面倒くさいので最初の一巻だけにしました。
ちなみに余談ですが経験論って聞くと経験こそが大事、というふうに捉えられて、お前らは経験が足らん、とか、俺は経験から判断してる、とか偉そうな言い方をする人の様子がなんとなく浮かんだりもするのですけれども、ロックから始まるイギリス経験論はそういうものとは全然違います。なんか勘違いしそうな名前ですよね)
与えられる経験の種類は無数にある
この場合リンゴっていうものがグラスにそそがれるコーラの役割を果たすことになるかと思います。するとそそがれるコーラっていうものも際限なく細分化されてしまいます(なんでもアリストテレスも、もしそんなイデアがあるとしたら無数のイデアがどこかに存在しなければならない、と先生であるプラトンを批判したそうです)。リンゴもあればミカンもありますし、鉛筆もあればシャーペンもあります。しかし中には私の知らないような果物や文房具もありますし(先っぽだけ出てくるシャーペンみたいなのなんて名前だっけ?)、なんでもかんでも知ることなんてのは出来ません。同じような暮らしている家族であっても知っていることは違うわけで、新しいことは子供に聞いたり古いことはおじいちゃんに聞いたりと、それぞれ知っていることは違うわけです。
【アリストテレス『形而上学』】
(アリストテレスはプラトンの生徒でプラトンの哲学に深く影響されながら反発もしました。そして自著の色々なところでプラトン批判をしているのですが、多分哲学上の問題が凝縮されたこの本の中によく現れているかと思って載せてみました。読んだけどちんぷんかんぷん)
それぞれから得た経験がひとりの人間の中で混ざり合っている
そしてこうした違うものがそれぞれの領域からそれぞれちょっとずつグラスの中にそそがれているのが人間の精神であって、その混ざり合ったものが個人であり、なんなら個性と言ってもいいのかもしれません。そしてこうした混ざり加減というものは、おそらく決して他の誰かと一致することはないでしょう。
そのためどれだけ似た領域からそそがれているグラスの中身=精神であったとしても、必ず人間は個性化されてしまう、というように思えるお話でした。ちゃんちゃん。
(よくわからない文章で申し訳ないです)
次回のお話
物事の捉え方を変えることが難しいように自分の見方に縛られる ~自分の観点の固定化と、状態や関係性と共に変化する見方、ひとつの対象に対する複数の見方 - 日々是〆〆吟味
お話その232(No.0232)