前回のお話
断絶された各個人と同じような我々 ~個人と集団の人間観の変遷
断絶された個人と同じような我々
原理的には私たちは個々人で同じように感じるとは考えられません。しかし実のところ同じように感じているだろう、という無言の合意みたいなものはそれなりに成り立っていると考えられます。それ抜きにしてはコミュニケーションも成り立たないかもしれませんしね。そしてまたそれゆえに相手はこう思っているだろう、という誤解のもとすれ違うこともあるかもしれません。
【柄谷行人『探究』/デカルト『省察』】
(柄谷行人はこの本の中で、実は断絶されているはずの私たちがコミュニケーションをしているのは奇跡の連続である、という風に書いていたかと思います。またデカルトはこうして断絶する個々人を繋げるものが神だ、と考えたそうです。どこに載っているのかわかりませんのでこちらを載せてみました)
個人と全体/集団の人間観
つまり個人というものに焦点を当てて考えると人間はそれぞれ断絶しているように感じるのですが、全体とか集団とかで考えると人間大体同じように感じるのだろう、という了解が成り立っているように思われるわけです(なんかこれまでに十分説明できてないような気がする)。そして集団主義の時代であれば私たちは〝我々〟として大体似たようなものだとお互いに感じ取られていたのに対し、個人主義では違うものだと感じられるようになったのかもしれませんね。
人と違う私 〜演出される特別な存在
そして個人主義であれば自分が確立されていなければならない、という前提があるのですが、それが集団主義的なみな同じという価値観に反するものとしてだけ現れれば、人と違うことだけが求められて、自分がいかに人と違うか(そして同時に特別な存在か)ということが求められていくのかもしれません。しかしそれは自己演出の差異化を過激化するだけで、自己の確立とは異なるもののような気もします(どうなのかな)。
共同体と集団主義
また日本だと共同体的な関係性の中で、お互いに生まれてから死ぬまでほとんど変わらないまま過ごしたりするので個人より我々意識が強かったのかもしれません。それに対しヨーロッパでは個人主義があるように感じ取られますが、しかしそれは近代になってからの話のはずで、それではその前はどうだったのかといえばやっぱり集団主義みたいなものだったんじゃないかな、と思わないでもありません。
キリスト教的人間観と近代的人間観 〜神の被造物から個別の認識者
どこで読んだか忘れましたが、ヨーロッパ中世の中心思想はキリスト教神学であり、人間は神の被造物であるため基本的に同じような存在としてみなされていたそうです(不確か。うろ覚え)。なにせアダムとイブも神様が作った物ですしね。その上人類は皆このアダムとイブの子孫なわけです。私とあなたも基本的に同じようなもんなわけですね。
【橋爪大三郎,大澤真幸『ふしぎなキリスト教』】
(なにで読んだのか忘れてしまいましたが、もしかしたらこの本だったかもしれません。少なくとも社会学者の手になるわかりやすくておもしろいキリスト教の入門書としていい本なので載せておきます)
こうした神学的人間観を打ち破ることによって中世という時代は終わり近代という時代が訪れたわけですが、それは同時に人間存在というものも神の被造物として似たような物でしかなかったものが、私とあなたの間で共通する認識が持てているのかもわからない、そんな断絶した存在として捉え方が変わったのだと思います。
そしてこうした変化によって集団主義的な同一的な人間観から個人主義的な人間観にも転換され、その価値観がヨーロッパが世界化することによって世界中に行き渡り、私たちの当たり前となったのかもしれませんね。
次回のお話
みんな同じ生きているから、と日本社会のような共同体の一生一緒な生活形態 ~ヨーロッパ個人主義とは異なる意味の精神と外からの認識 - 日々是〆〆吟味
お話その225(No.0225)