前回のお話
人間を形成している同じものから中身のある人間へと至る無数の混ざりあうもの ~交換できることのない個人個人としての人間と混ざりあうものの結果として出来上がる個人
元のものと同じものと違う存在
グラスにそそがれたコーラという比喩で人間の個人や集団に関する捉え方を見てみましたが、しかしグラスにそそがれたコーラであればそれぞれのグラスが異なっているても中身のコーラが同じであることは正当な捉え方だと思えますね。ひとつめのグラスとふたつめのグラスにそそがれたコーラは、同じ一本のペットボトルに入っていたものをそそいだわけですから元のものからいえば同じものになるわけです。
しかし人間の場合ではこれと同じように捉えることは難しいですね。たとえば同じ学校で教育されたからといって山田さんも伊藤さんも同じ存在ではありません。それはたとえ同じペットボトルからそそがれたものだったとしても、ひとつめとふたつめのグラスにそそがれたコーラは物理的に同じものではないということと同じことです。
交換不可能なものとしての個々人の存在
もし山田さんと伊藤さんが早稲田大学出身であったとしても山田さんと伊藤さんは同一の人物ではありません。SFみたいに山田さんと伊藤さんを交換してみて何も問題がないかといえばあるかと思います。それはたとえその人の一部が共有されるものがあったとしても、個人として成り立っている人物はまったく異なる存在だからです。
【君の名は。】
(こんな感じで入れ替わっても平気ではいられませんしね。まぁこの場合2人にそんな同じものはないでしょうけど…)
その人を形成しているのはひとつのものではない
グラスとコーラの関係で考え直してみますと、人間はたしかにグラスの中にそそがれるコーラのように外から色々なものを与えられて個人が掲載されているかもしれません。しかしそれがたったひとつのものだけで成立しているということはないわけです。人間がもしグラスのようなもので、その人を形成しているものがコーラのように外からそそがれているとしても、それは常に絶え間なくそそがれ続けていると考えられます。少なくともたったひとつのコーラだけしかそそがれないグラスよりも、いくつもの飲み物や液体をそそがれ続けているグラスの方が人間の在り方の比喩としてまだ妥当かもしれません。
無数のものが混ざり合って形成されている個人という存在
そうなってきますと個人というものはたとえ他の人と共通するものや共有するものがあったとしても、それ以外のものの方が圧倒的に比率が多いことになります。大量に混ぜられたグラスの中身が人間存在の在り方そのものであって、その混ざり具合や混ぜた種類の量などにより個々人の色彩が変わっていくことになります。
この色合い、色彩の在り方というものがいわば個性となる、と考えられるかもしれませんが、それは人と違うということを指すだけではなく、その人がなにを取り入れ混ぜてきて生きてきたか、ということの違いにもなります。そしてそれはどうやったところで他人と完全に一致するわけではないので、個人というものは嫌でもどこかで成立してしまっているようにも思えるのでした。
【ロック『人間知性論』/デュルケーム『宗教生活の原初形態』】
(ロックという人はイギリス経験論の始まりとされる人ですが、この経験論というものは私たちの知識とか観念とか、いわば人間の内部にあるような情報は人間の外から与えられて身につけるんだよ、というような考え方です。生まれながら持っているわけではなく、生まれてから見たり聞いたり知ったりすることから持つことができる、生まれながら持っている=生得論に対して、生まれてから持つ=経験論というわけですね。そういうことをまずロック先生が考えてくれました。これはデカルトの我による認識の転換の後、我/自我=個人によってどうやって物事を捉えていくことが可能なのか、という問題の最初の一歩のひとつになるわけですね。大体私たちの考え方はこうした考え方の延長上にあるんだと思います。デュルケームの集合表象の考え方は外から与えられるという点では同じだと思うのですが、認識の根源のような場所を個人ではなく社会に求めている点が違うのかもしれませんね。まぁ私にそんな大きな問題答えられませんけども…ちなみに『人間悟性論』は岩波文庫しか完訳ではないようです。でも最近新訳が多いですから、そのうち他ででるかもしれませんね。イギリス経験論の完成者といわれふヒュームも他で出ましたし。こんなにハードな古典の翻訳者があちこち出るなんて、やっぱり現代は危機の時代なんでしょうか?)
次回のお話
人間の精神が形成される根本的な考え方となるイデアや神と経験論 ~目の前のものを超えて与えらるものと目の前のものから与えられるもの - 日々是〆〆吟味
お話その229(No.0229)