前回のお話
断絶された各個人と同じような我々 ~個人と集団の人間観の変遷 - 日々是〆〆吟味
みんな同じはどういうこと?
個人間というとのが原理的に断絶されているはずなのになぜみんな同じようなものだ、というような考え方が出てくるのでしょうか。
人間の認識は精神の外から与えられる
キリスト教ならみんな神さまに造られた土塊ということになりますが、ちょっとこれは現代的ではありませんし、またキリスト教徒以外には盲目的に従うことも難しいかと思います。ではもうちょっと私たちにも通用しそうなものとしてはどのようなものか、といえば、何度もあげているようなデュルケームの考え方がありますね(https://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/02/193043とかhttps://www.waka-rukana.com/entry/2019/09/03/193022で少し書きました)。集合表象というもので、人間の認識はこうやって精神の外から与えられる、というものでした。
【デュルケーム『宗教生活の原初形態』『分類の未開形態』】
(デュルケームは社会学者なんですが、未開社会の宗教を分析して、当時不合理とみなされていた様々な習俗が当事者としてはなんの問題もない正統性を持った社会的事実であり、そうした社会的事実が内部の人間に与えられて個々人の認識となるので、余所者がその中の習俗を合理的でないといって非難するのはお門違いだ、というようなことも書きました。そしてこうした人間の精神の内部にあるわけではない社会的事実の方から人間の精神へと入っていって認識が作られる、といったようなことも含意しているかと思います。気になったら読んでみてね)
生まれてから死ぬまで同じな共同体生活
これに日本的な共同体の考え方も組み込んでみましょう。それは生まれてから死ぬまで同じひとつの村で過ごすような生き方です。これは土地が富の源泉であったため、土地所有者=封建領主が人の移動を制限して富を囲い込んでいたから起こったわけですね。そのためヨーロッパでもこうした共同体は似たようなものだそうで、ハーディの『テス』という作品の中に隣村に行くことが大旅行であるかのような描写があるそうです(読んだんだけど全然覚えてない)。
【ハーディ『テス』】
(昔のイギリスの小説。内容としては姦通文学で、一度強姦された女性が、純潔じゃないから、といって捨てられる、今から見るととんでもないお話。こうした認識から発展して今のように女性の権利を述べるようになったのかもしれませんね。最初読んだ時意味わからなかった)
もひとつ言いますと、このような土地を押さえた封建領主が存在する封建制自体が資本主義の重要な前段階なんだそうです。そして封建制はヨーロッパと日本にしか顕著に見られないんだそうで、ユーラシア大陸の端っこ同士で不思議だな、とちょっと思わないでもありません。
【ブロック『封建社会』】
(中世の社会を全体的に描いた本。このブロック先生が最後に封建制はヨーロッパと日本にだけ成立した、と書いていたかと思います)
そしてその後富の源泉は土地から生産へと変わるわけで、人々の住む場所も土地=田舎から都市へと変わりました。それによって集まる人々の関係は共同体のように生まれてから死ぬまで一緒のような関係から見知らぬ者同士の関係へと変わります(これもhttps://www.waka-rukana.com/entry/2019/12/23/190056の前後で色々書いたなぁ)。そして同時に人間の精神も触れるべき外の価値観も変わりますね。
個々人に同じものとして与えられる外からの認識
都市であれば次々と変わっていく変幻自在の社会的イメージも、村の中であれば年に一度の祭り以外は毎日がほとんど変わらぬものとしてあります。そうした固定化した世界の中で、人間の精神が外から与えられるものも同じように固定化したものです。私とあなたも接する世界は変わらないわけです。同じ共同体の中で、同じ価値観に触れながら生きていることになります。
そうしますとたとえ私とあなたが原理的に異なる存在であったとしても、そこに与えられる諸々がほとんど同じであるために、結局私とあなたは同じような存在だ、という了解が成り立ってくると思われるのでした。
…いいタイトル出来なくて、内容と乖離したものになってしまった。申し訳ない。
次回のお話
同じ条件としての人間集団と個別な個人としての人間存在 ~人間はそれぞれ別でも中身は同じものを与えられているかもしれないが、それでも個々は別の存在 - 日々是〆〆吟味
お話その226(No.0226)